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「はひぇあぉ!?」
真田の目覚めは頬に感じた謎の冷たさと、喉から勝手に出てきた奇声と共にあった。
はひぇあぉと来たものだ。はひぇあぉに関しては創作の世界でも聞いた事がない。自分がそんなクリエイティブな悲鳴を上げられるとは驚きだ。
飛び起きると体中が痛む。その時になってようやく床で寝ていた事を思い出す。そして何故そんな状況になったのかも。
「おおっ。おっはよ、真田君」
「よ、しい、さん……?」
起きて最初に認識したのは人の顔だった。そんな事はどれだけ久し振りの事だろう。どうやら真田の悲鳴に驚いたのか床にペタンと座ったままで上体を反らせている。そこから朝の挨拶をしてくる表情はと言えば妙に飄々と明るく笑っていた。
「うん、おはよ」
「おはよう、ございます……」
「よーし! おはよう!」
変に多く挨拶のラリーが続く。真田に自分の顔は見えないが、相当キョトンとした顔をしていた事だろう。それもそうだ、状況は掴めたがその状況が理解できない。
「って、もう昼過ぎなんだけどねー」
そう言って緩く巻かれた茶色いセミロングをワンサイドダウンにした頭を掻きながら笑う顔は、眠りに落ちる前に最後に見た顔とはあまりに違い過ぎた。昼過ぎという事はあれから六時間、すっかり眠りこけていたようだったが、その間に何があったというのだろう。
「その、吉井さん」
「ありがと」
「はい?」
恐る恐るどうしたのか問い掛けようと口を開いた真田を制すように告げられた感謝の言葉。それに対して反射的に聞き返してしまったのは仕方がないだろう。よもや礼など言われるとは思っていなかったのだ。先程からあまりに状況が変化し過ぎていて何も分からない。
そんな真田の目の前に突き付けられたのは水色のハンドタオル。寝る前に真田が持っていた物だった。
「や、これ。その……頑張っててくれたんでしょ? ずっと寝ないで」
言いながら指し示されたのは床に置きっぱなしになっていた水を張った洗面器。そう、真田が彼女を連れ帰った後に何とか処置をしようとしていた跡だ。
顔なのでなかなか流水という訳にもいかず、仕方なく濡らしたハンドタオルで冷却をしていた。それほど長くやらなくても良いらしいのだが、何だかんだで目を覚ますまで約四時間。その後は少し揉めてから泥のように眠ってしまったので片付けをすっかり忘れていた。
今になって気付いたが、真田の頬が濡れている。どうやら目覚めのきっかけになった冷たさはハンドタオルを濡らしてほとんど絞らずに触れたものだろう。温くはなっていたが、不意を突かれると充分過ぎるほど冷たく感じるものだ。
吉井は広げたハンドタオルで顔の下半分を隠しながら話を始める。伏せられた目は、真田と同じく申し訳ないという気持ちからきているのだろうか。
「私もね、ちょっとだけ頭冷えた。その、まだ痛いし赤いし嫌なんだけど、もう当たらない事にしたの。だから、その……ごめん! 助けてくれたのに、あんな……」
「ま、ま、待って下さい! そんな、謝ってもらうような事じゃないですから!」
勢いよく頭を下げて謝り倒そうとする様子を見て思わず制止しようとしたのだが、それをさらに上回って真田の発言をキャンセルしようとされる。
「謝るような事なの! 謝らないと私のプライド的なのが許さないのー!」
ハンドタオルをノールックで洗面器の中に投げてからこちらに詰め寄ってくる彼女の顔は鬼気迫る……と表現すると語弊があるかもしれないが、それほどに真剣なものだった。プライドにかけて謝るというのは真田にも理解しがたいが、そこまで言われてしまうと拒絶する方が難しい。真田にとっては特に。
「プライドって……いや、まあその、そう言うなら謹んでお受けしますけど……」
「ふっふーん」
謝罪を受け入れる返事を聞いた瞬間、彼女はやけに嬉しそうに笑った。別に構いはしないのだが、これは謝罪した直後の態度なのだろうか。この時、何となく真田の頭の中に宮村と話しているようだという考えが浮かんだ。あの男もけじめだ何だと言いながら自分の事を考えたりしていたし、似ているのかもしれない。そう思うと少しだけ彼女の相手もしやすいような気がしてくる。
何はともあれ、どうやら機嫌は良くなったらしい彼女だが、正直真田はそんな彼女を持て余した。今は機嫌が良いが、どこに地雷が埋まっているのか分かったものではない。火傷について会話の中で触れなければ良いというだけではないだろう。真田は女性と接した経験などほとんどないのだ。心配したり良い人だと思ったりしたが、結局は未だに彼女は未知の生物。何に気を遣って会話をすれば良いのかなど僅かほども分からない。
結論から言えば彼女に対して変に気を遣う必要はなかったのだが、それが分かるのはもう少し時間が経過してから。この時の真田は、今の時刻を思い出して当たり障りのない話題を切り出す。この場から逃げ出すための言い訳まで添えて。