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「――ん、んんっ? こ……こは……」
「お、おはよう、ございます」
「ひゃあっ!」
時は午前六時。車と競争できるような速さで走ったつもりだったがそれでも起きなかった彼女の目覚めは、賑やかな驚きと共にあった。
ひゃあって言った。ひゃあってリアルに言う人間がいるとは思わなかった。
「び、びっくりしたぁ……えっと、ここはどこ?」
吉井はキョロキョロと周囲を見渡す。どうやら自分が見知らぬ部屋のベッドの上に寝ていた事は理解できたようだが、その他の事は分かっていないようだ。もっとも、情報が少なすぎて分かるはずもないが。
「えと、その、ご、ごめんなさい……僕の家です。その、道で倒れてたんで、はい。お家も分からなかったんで仕方なくここに……はい、ごめんなさい」
真田もすっかりオドオドした話し方になってしまっていた。仲良くもないクラスメイトの、それも女の子が、自分の部屋にいるのだ。それはもう、ショーゴやレージの荒療治によって少しずつ普通に話せるようになったのではと思っていた真田の自信など軽く吹き飛ばされてしまう。手にしていたハンドタオルを握りつつ体を小さくして、必要以上に謝ってしまう。
自分が他人の男の部屋にいる事を知った吉井だったが、取り乱すような事はなく何度か頷いていた。
「ふぅん、そっか。そっかそっかぁ……ん、ありがとね!」
取り乱すどころか笑顔で礼を言われる始末。どうやら彼女は家に連れ込まれた事よりもそれが助けるためだった事を重要視したらしい。なかなか柔軟な思考ができている事は助かったと思わざるを得ない。
「い、いえ……そ、それで、ですね。その、倒れる前の事は……」
「倒れる前? ……んー、うーん……イマイチ覚えてないんだよねぇ」
「そう、なんですか?」
「うん。何か、歩いてたら急に何かすっごい怖くてぇ、すっごい痛くてぇ、そんで何か、すっごいホワッとしたの」
「ホワッとぉ?」
肝心な所を一切説明していないとは言え、どうやら彼女がほとんど覚えていないらしい事は重畳だったが、言っている事は意味不明だ。まず「何か」が非常に多い。そしてその謎の表現はもう反応に困るしかない。流石の真田も不躾に聞き返してしまうほどだ。
「んー、何かよく分かんない。そこから全然覚えてないんだけど、そっか、倒れてたのか……で、真田君が助けてくれたと」
「え? あっ、は、はい」
これには真田も驚いた。正直に言って、自分が認識されているとは思っていなかったからだ。彼女はまさしく住む世界が違うというか明らかに別グループの存在であり、素行も真面目ではなく学校に来ない事もままある。接点もなくはなかったが、三週間前に一度、少しだけあったきりだ。しかも会話をした訳でもない。
そんな彼女が自分の事を認識していて、学校の外でも判別できて、しかも名字まで覚えているとは微塵も思っていなかった。
途端に、この目の前にいる未知の生物が非常に眩しい存在のように思えてしまう。少し優しくされたりするだけで一気に評価が上がってしまう単純な所は真田の短所かもしれない。
吉井は真田を知らない相手ではないと分かっている上に感謝までしている。真田はそんな彼女を良い人だと思い始めている。少し和やかに話をする事ができそうだと思ったが、そんな空気を打ち壊さなければならない時はすぐに訪れた。
いや、必ず通る道なのだから早い方が良かったのかもしれないが。
「なるほど……ってゆーか、鏡見せてもらって良い? さっきからすっごいほっぺたジンジンしてるんだけど」
「あ……」
そのジンジンする原因を真田は知っている。彼女には見えないが、真田にはずっとそれが見えているのだ。見えていて、問題を先送りにしようと脳が判断して話す間は無視していた。
だが、もうそんな訳にはいかない。真田が伏し目がちに示した姿見の前に立った直後、彼女の目がカッと見開かれる。
「なっ……何これ……」
「……ごめんなさい」
「何でこんな……意味分かんないよ!」
鈴を転がすようだった彼女の声が感情的に荒げられる。無理もない、目覚めてみれば薄化粧しか施していない程度には自信があるらしい自分の顔に大きな火傷があったのだから。
その火傷は痛みを与え続けている。精神的な意味でも。真田は再び謝るばかりだ。
「ごめんなさい、本当にごめんなさい。とにかく、とにかく落ち着いて下さい」
「落ち着けるワケないでしょ!? ど、どど、どうしてこんな事になってるの!」
「お願いです、お願いですから……」
神妙な顔で頼み込むように言うと、それが効いたのか彼女は後ずさり、ストンとベッドに座り込んだ。その顔は血の気が引いて真っ白、火傷だけが赤々と主張している。
火傷――熱傷の程度は彼女が寝ている間に調べた限りで四つ。最も重症である3度熱傷では壊死や炭化したりするが、その様子はない。どうやらそこまでのものではないようだ。
受傷からおよそ四時間、今の所はその様子はないが、(素人判断であるものの)ここから水疱が形成されたら2度熱傷と考えて良いだろう。その中でも二種類、浅達性と深達性があるが、少なくとも今は分からない。とりあえず浅達性ならばまだマシだ。深達性なら治療により時間が掛かるし、痕も残りやすい。
しかし、まだ1度熱傷の可能性も充分にある。赤くなって腫れるだけ、医療の対象にはならない程度のものだ。それならば不幸中の幸い。
いや、そう考えてしまっているが、それこそが間違いなのかもしれない。実際問題として、彼女の顔は赤く腫れて痛んでいるのだ。すぐに治るだろう、痕も残らない。そんな話ではない。
実際に残るかどうかは関係がない、痕が残るかもしれないという恐怖。それがこの場においては何より重要視されるべきなのだ。
あるいはその思考は合理性に欠ける面倒なものなのかもしれない。しかし、真田はむしろその合理性に欠ける思考の方が理解しやすかった。何故なら彼も適当に面倒な人間であるからだ。
だから、彼は何も言わない。事実としてすぐに治ると言っても痕は残らないと言っても、今この場ではただの気休めより上の効果は持たない。ただ謝る事、なだめる事。それが今の真田にできる数少ない行動だった。
「適切な処置は施しました。だから、今は休みましょう。まだお疲れのはずです、今日は日曜ですから……もう一度、ゆっくり寝ましょう? お話も考えるのも、全部その後で良いんです。今日は日曜日、時間はあります」
赤熱するほどに熱せられたあの手に触れられて軽度の火傷で済んだのは一瞬だったからか、それとも一般人に大きな怪我は負わせられないというあの男のギリギリの理性が働いた結果として魔法がそう作用したからなのか。
ショックで、受け入れられなくて。それでも見るも無残な大火傷という訳ではない事を頭のどこかで理解はできているのかもしれない。彼女は柔軟に物事を考えられる人間だ。両肩に触れてゆっくりとベッドに寝かせようとする真田に抵抗する事もなく横になったかと思うと、膝を抱えてその顔を隠した。手が震えている。もしかすると泣いているのかもしれない。
ゆっくり休んで、ゆっくり頭を整理する時間が必要だ。真田は静かに歩いて部屋の電気を消す。
「お休みなさい……」
膝を抱える彼女に向かって囁くように言う。その声は届いただろうか。泣いている相手に何かを言う事は真田にはできない。何を言えば良いのかも分からないし、自分にも責任があるのだから。責任を負うのは嫌いだが、それでも負ってしまったのはきっと真田の罪だ。逃がすのか逃がさないのか、中途半端だった罪。
自分もそれを消化しなければならない。そのためには今は休む事が必要。色々とあって眠気など感じていなかったが、ベッドから最も離れた部屋の隅に丸くなると同時に疲れが奥底から水のように……ドロドロとした泥水ではあったが湧き上がって、彼を眠りの世界に引きずり込んだ。




