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「ぐ……ううううう……っ!」
悔しい。むざむざ逃がしてしまった事が、とにかく悔しい。思わず少し感情的になって地面を殴りつけるととんでもなく痛いが、その代わりに少しだけアスファルトを破壊する。今の自分にはこれだけの力があるはずなのに何もできなかった。
無論、これは正義感だけのものではない。人質をとるような相手を野放しにしたという事は、再びそうして逃げようとする事もありえるという事。真田は可能な限り戦いにおいて一般人に迷惑をかけたくない。世間的にはただのひっそり暮らす根暗な人間でいたかったし、誰かに危害を加えてしまう事で変な責任を感じたくないのだ。
こうして逃がしてしまった事で、どこかで誰かに危険が及ぶかもしれない。例えば、この辺りで不審な火傷をしたとでもニュースが放送されれば、それは真田が逃がしてしまったからだと責任を背負わなければならなくなる。それはお断りだ。
クラスメイトが巻き込まれた事で正義感に目覚めていない訳ではないが、利己的な発想はまだ変わっていない。
それでも、感情自体は本物だ。彼女を心配する気持ちもある。地面に八つ当たりする事はここまでにして、まずはとにかく手近な所から一つ一つ。
「――っ、吉井さん! 吉井さん、大丈夫ですか、分かりますか!」
「……んっ……」
右頬を軽く、腕輪の力もあるので本当にごく軽く叩きながら呼び掛けると彼女は小さく唸って身動ぎするものの、目を覚ますような様子はない。
「くっ……ごめんなさい、ごめんなさい……」
真田の利き腕は右だ。だから左頬を叩く方が楽なのだが、わざわざ左手で右の方を叩いた。もちろん理由はある。あの男に触れられた左頬は、真っ赤になって腫れ上がり、痛々しくまさに火傷というべき様相を呈していたのだ。それを見てしまうと、真田にはもう謝る事しかできない。今は聞こえていないだろうが、それでも謝罪の言葉は止まらない。
しかし、謝罪をし続けている場合でもない。
(どうしよう、この場に置いとくワケにはいかないな)
一応は知り合いであり、一般人であり、何より女性だ。放置するという選択肢はありえない。そして早急にこの火傷に対処しなければならない。そのためには落ち着ける場所へと行かなければ。
(吉井さんの家は分からないし、どこか休める場所は……)
選択肢としてはどこかその辺にあるだろうホテルなども存在はしていたが、それは一瞬にして頭の中から消去した。流石にそれはいただけない。そうして頭を必死に回転させた結果として出てきた選択肢は果たしてホテルとどちらがマシだっただろうかと悩まない事もなかったが、一度アリなのではないかと考えてしまうともう他の選択肢はないように思えてくる。
覚悟(といくつかの言い訳)を決めた真田はポケットから携帯を取り出して電話を掛ける。相手は、今なおどこかであの男を探しているのであろう宮村だ。二度ほどコール音が聞こえたかと思うとすぐに息を切らせた声がスピーカーから発せられる。
『おっ、真田! どうだ、見付かったか!』
「はい、見付けたんですけど……ごめんなさい、逃げられました」
『――ふぅ……んー、そうか。まあ、仕方ねぇな』
立ち止まったらしく呼吸を整えた宮村が割と軽い口調で励ましてくる。それもそうだ、宮村はこの状況を知らない。普通に逃げ切られたと思っているから普通に軽く励ますのだ。真田も説明する気がない。正直、説明が心の底から面倒だ。この後の事を思うと特に。
「ごめんなさい。それと、今日はこれで解散にしませんか?」
『解散? 合流しなくて良いのか?』
「はい、それで明日も探しましょう。探して探して、戦いましょう。見付けるまで毎晩集まっても良いです」
『? おお、気合入ってんな』
「そうですね……少し、腹立ったんで」
『そっか。了解だ、お疲れさん。また明日な、零時に校門前!』
「はい、お疲れ様でした。お休みなさい」
『おう、お休み』
静かな口調で言ったため、真田の感情の動きはほとんど悟られなかっただろう。今から合流する事になると面倒なので解散にしたが、また別の効果もあったかもしれない。このまま顔を合わせてしまうと流石に感情を読み取られてしまうかもしれない。それは何となく気恥ずかしいものだ。
「ふぅ……腹立った、か……」
電話を切った後、小さく息を吐く。腹が立ったというのは何に対してだろう。悔しい気持ちは逃げられた事に対してだ。しかし、腹が立ったとなるとまた別。いくつかの理由が思い当ってどれが一番の理由なのかはよく分からない。
これもやはり逃げられた事だろうか。それとも一般人が怪我を負った事か。もしくは……そのどちらも許してしまった自分への不甲斐なさか。
「ごめんなさい、すぐに何とかしますからね……」
自問自答も時間の無駄。真田はゆっくりと吉井を背負う。腕輪の力もあってか非常に軽い、これならば充分に素早く動けそうだ。
肩越しに見える顔に小さく呟いてから、途中で起きる事も変に目立つ事も厭わず高速で走り始めるのだった。