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立ち止まってしまった男は動揺する。突然そこに人が現れたかと思えば追われているにも関わらず足を止めてしまったのだ。真田も止まっている事実など理解できない男は動いた。すぐ近くにいたその女性の背後に回り、引き寄せる。その姿はまるで人質をとって得物を向けているようだ。
いや、得物はある。腕輪と、腕それ自体。
「な、何を……してるんですか」
「いいやぁ、関係ない女の子を巻き込みたくなかったら分かってんだろうな、なーんて言うつもりはねぇよ。でも、お前がどうするかは……まぁ、お前の勝手だよなぁ?」
乾いた声の問いに対して返されたのは、まるで冗談を言っているような軽い、この状況には到底相応しくない声だった。ニヤニヤと笑って、空いている左手を軽く振りつつ彼女の顔に近付ける。その顔が、声が。実に腹立たしい。関係ない女の子ではないからもっと困っているのだ。
「――っざけないで下さい! 何も関係ない人を、そんな……だ、駄目じゃないですか!」
「な、なに、これ……?」
一応、自分と関係ある人物である事は隠して話を続ける。何とか交渉次第では丸く収まるのではないだろうかと淡い期待をしているのだ。だが、説得などという人間心理に沿わなければならない行為のためのボキャブラリーはあまり多くない。
自分の身に何が起きているのか理解できずに困惑している吉井の声が、より一層焦りとそこから来る苛立ちを加速させる。
「まあまあ、そうカッカしなさんなって。この子の可愛い顔が、たぁいへんな事になっちゃうかもしれないぞ? ああ、嫌だなぁ、嫌だねぇ。天罰だぜ? ふっ、ふはっ、ふはははははっ!」
狂っている。その笑い声は、今までに聞いたどの笑い声よりも空々しかった。何かが可笑しいのではない。追い立てられて、人質をとって……いや、下手をすれば魔法などというものが使えるようになった時からずっと、急激な状況の変化について行けずどこかから理由もない笑いがこみ上げてきているだけだ。
目は血走っている。その目はどこかで見た事があった。そう、初めて魔法の戦闘を経験した時の《海坊主》の目に似ているのだ。力に溺れた目、思考が理解できない濁った目。
「く、うっ……そ、その人に何かしたら、すぐに僕は走り出しますよ」
「あっはっははははは! ひゃっははぁっ! 止めとけ止めとけぇ!」
笑いが止まらない。恐らく徐々にハイになってきているのだろう。脳から多量に何かを分泌でもしているのかもしれない。互いの温度差は凄まじいほどにかけ離れていた。
「や……ぃやぁ……」
「だ、だい、大丈夫です……落ち着きましょう……。だいじょぶですから……」
視線がぶつかったような、そんな気がした。助けを求めるような視線だ。そう、この場に助けられるのは自分しかいない、助けなければならない。できるだけ優しく声を掛けようとしたが、自分の緊張が伝わってしまうだけかもしれない。
「ふへへへ……良いか、手を挙げて……いや、駄目だな。後ろで手ぇ組め。変な気起こしちゃ駄目駄目だぞ? ふっ、ふふふふふ……」
怪しく笑いながら、ついには滑舌も少し怪しくなりつつ男は言う。手を挙げさせたら何かしでかすかもしれないと考えて動きを制限させようとするだけの思考能力は残っているようだったのが余計に厄介この上ない。
(どうする……逃がす? いや、それしかない。でも、こんなのを見逃すのは……!)
もはや和解の道は閉ざされた。この戦いはルールなどほとんどなく、各々が最低限与えられたルールの言外の部分で工夫するものだ。しかし、戦いに何の関係もない一般人をよりによって人質などという形で巻きこもうとするなど、ルール以前の問題だ。
そのルール以前の問題を起こし、あろう事かそんな状況で楽しむように笑っているような男は敵以外の何者でもありはしない。同じ巻き込むのでも、宮村とはまた性質が違う。
ここで見逃したらどうなる事だろう。そう考えた真田の足は、自分の意志とはまた無関係にジリッと地面を踏み締めた。
ただ、それだけだった。
「へへっ、ざんねーん」
「――え?」
あまりに軽やかな笑い声。それと共に男は、その手で彼女の左頬に触れる。
「変な気起こしちゃダーメ、って……なぁっ!」
そう、その赤熱した手で……。
男の魔法は火属性、恐らくは体温をどこまでも上げられるといったような能力だ。真っ赤になるまで熱くなったその手が触れた、たった一瞬でジュウと嫌な音が聞こえたような錯覚に捕らわれる。
「ぃやぁぁぁぁぁぁっ! ――あっ……」
絹を裂いたような悲鳴とはこういう事か。一瞬だけの接触でも充分過ぎるほどの痛みと呼んでも差し支えない熱さ。そして、その悲鳴はすぐに途切れる。こんな異様な状況が、謎の痛みが、彼女の意識を途切れさせたのだ。
その行為は到底承服できるものではない。『その人に何かしたら』……今がまさしくその時。
「こっ……んのぉっ!」
瞬きすらできないほどの短い時間で相手のいる所に到達できる、そんな距離。走り出せば刹那、真田が男を焼き払う事が可能だ。しかし、男にとってその行動は分かり切っていた事。真田の足が地面から浮いた直後に行動に出る。
「ほれ、返すよ」
「なにっ!」
その行動は実にシンプル。抱き寄せていた吉井の体をグイと押したのだ。意識を失っている彼女は何の抵抗もなく地面に倒れようとする。そして真田は彼女の正面にいて、近付こうとしている。つまりそこからの動きは一択、真田には倒れないよう抱き止めるしかなかった。
立ち止まる。抱きかかえた体が邪魔だ。ここから男に向かって攻撃などできようはずもない。地面に寝かせる時間があれば、その間に男は逃げおおせてしまうだろう。ならば抱えたまま走るか? それでも確実にスピードは落ちる。空身でも追いすがる事しかできなかったのに。
手詰まりだ。この男を逃がさずに捕らえる事は……不可能。
「はっはぁっ! じゃあな、結構怖かったぜぇ!」
「待て! 待てぇっ!」
捨て台詞を吐いて逃げて行く赤い姿。真田はと言えば吉井を寝かせるために地面に膝をついた体勢でそれを睨み付けながら、不毛な願望を口にする事しかできなかった。