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真田 優介は走っていた。
もちろん目的も意味もなく走るほど運動が好きな訳ではないし、授業だとしてもこれほどまでに真剣には走らないだろう。
走る理由は目の前……と表現するには少々遠い所にあった。夜の闇からは浮いた赤いシャツの背中。彼は今、魔法使いを追走しているのだ。
(速い……クソッ! 追い付けない!)
真田の足だって今は遅くない。むしろかなり速いレベルだ。しかしそれでも追い付けない、どころか下手すれば引き離されようとしている。単純に元の足の速さの違いもあるのだろうが、それに加えてあちらは速く走る事が頭の中にしっかりと描かれているのだろう
陸上部か何かで短距離を走っていた事でもあるのかもしれない。速く走るための姿勢、筋肉の使い方。あらゆる事が頭にあってイメージを固めているからこそ、それに従って魔力が作用し体が動く。
宮村と二人でダラダラと索敵をしていた所、あの男はやって来た。戦闘経験が少ないのだろうか、魔力も垂れ流して走ってきた。そのまま何か言うでもなく攻撃をしてきた男を二人で迎撃したが、その後すぐに逃走してしまったのだ。あまりのスピードに一度は見逃してしまった二人だったが、手分けして追いかけている内に真田が発見した。
宮村に電話する事もできたが、そのために少しでもスピードを落とせば逃げ切られてしまう。なので偶然の合流に期待してそこから数十分、一人追走を続けていた。
言葉を交わしたならばこれまで何度かしてきたように見逃す理由も生まれたかもしれないが、急に襲って来て逃げて行った相手の認識はまだ敵のままだ。
(まだまだ、追い付けなくても良いから逃げるのを諦めるくらい追いすがれ……!)
真田と男の間の距離は少し詰まったかと思えばまた開かれる。それを繰り返す鬼ごっこだったが、曲がる時などでも速度をほとんど落とさず無理に走り抜ける真田の根性のおかげで何とか見失う事なく続けられている。捕まえる事はできそうにないが、それでも逃がさない方法はあるのだ。
しかし、少しだけ速度を落とさなければならない状況に陥る。
(ぐっ……人通りが……っ!)
右に折れた直後、目の前には明るい光と横切る人影。男は通りに出ようとしているのだ。時刻は午前二時頃、多くはないものの、決して少なくもない数の人間がそこにいた。
(風見の方まで来ちゃってたのか……頑張れば追い付けそうだけど、ここじゃ捕まえられない!)
魔法使いが全力で走るその姿は、一般の人間にとってはあまりに速すぎる。捕まえようとスピードを上げる事は不可能だ、それどころか衝突を避けるために落とす必要すらある。
だがその状況はあちらだって同じだ。人とぶつかりでもすると無駄に足を止める事となってしまう。だからスピードを落として走る。どちらかと言えば今は真田の方が速いかもしれない。このまま走っていれば平穏に追い付ける可能性もある。しかし、現実は算数の問題のようにはいかない。少し前が開ければ相手は速く走れるし、逆に人が多くなれば真田もスピードを緩めざるを得ない。
今やるべき事は追い付く事ではない、ほんの少しでも良いから距離を縮める事だ。変に欲を出せば逃げられる。
(あっちだって思いっきり走るには人通りのない所に行くしかないんだ、その時に一気に走って捕まえる)
道を一本折れればそれだけで人通りはガラッと変わるだろう。そこを狙う。ただでさえ遅い今だが、そこからさらに確実に曲がり切るため遅く走る必要がある。その一瞬のタイミングで狩る。
腹を決めると目がグッと見開かれた。曲がろうとする、その一瞬を見逃したらいけない。曲がろうとする角に合わせて調節される歩幅、少し緩められるスピード、重心の移動。どんな情報でも良いから見切るのだ。
(よしよし来た来た……行ける! 今! 行けぇっ!)
右に曲がろうとする兆候。直角には曲がれないので少し左に膨らむ。そこで真田は走る速度を上げた。一段、二段、三段と。その速さによって目立つのも構いはしない。人にぶつかりそうになったら無理矢理に方向転換して通り抜ける。この一瞬しか狙わない、相手にこの行動が見られても構わないからこそできる強引な接近。
角を折れて少し(とは言え二人の速度からすると相応の距離であるが)進む。相手がトップスピードに到達する直前で最接近を果たした。手を伸ばしても届かないかもしれない距離。だが、焼く事はできる距離。
右手首が熱くなったかと思えば大きな炎を纏う。少しだけ伸びるリーチ。それで充分。
「ク、ソ……がっ!」
「ぐぅっ!」
攻撃しようとしている事を悟った相手も当然、黙ってはいない。反転したかと思えばその勢いのまま右拳を振るってきた。ただの拳ではない、魔法の作用した紛れもない攻撃だ。
その拳に無策で触れるのは危険だ。炎を纏った右手で拳を叩き落とす。互いにダメージがなくはないが、まともにくらうよりも遥かに小さなもの。
真田は千載一遇のチャンスを防御に使ってしまった。その隙に男は再び逃げ出そうと走り始める。真田も続いて走るのだが、トップスピードに到達するまでの時間は男の方が早い、先に走り始められたら追い付く事はまず不可能。
「待てっ!」
「はんっ、嫌だねぇっ!」
然り。追われているのだから待つはずがない。なのに何故、人は追う際に待てと言ってしまうのだろう。何となく理由が分かった気がした。待ってくれないと捕まえられないかもしれないと思ってしまうからだ。願望が口をついて出ている。
「逃がすかっ!」
とにかく人通りはないのだ、先程までよりもさらに死に物狂いで走るしかない。両足に力を込める。魔力と筋力のハイブリット。いや、真田の脚力ではタイムは縮まらないだろうが、気分の問題だ。気分によって魔力がより作用してタイムを縮める事はできる。
しかし――
「なっ……!」
驚きの声。これはどちらの声だったろうか。間違いなく自分のものではあった。しかし同時に、相手の男のものでもあっただろう。二人が同時に驚かされる、まったく外部からの状況変化。
「え……?」
高速で走る二人の視界に唐突に現れたのは一人の女性。男はすんでの所で衝突を回避したが、体勢を崩して足を止めてしまう。しかし、足を止めたのは真田も同様だった。何故なら、そこにいたのはこのような姿を見られたくない人物、いくらでも会う機会がある人物。そう、クラスメイト。
名前(正確には名字)は知っている。吉井といったはずだ。服装指導で一緒になった。状況が掴めないのは彼女も同じ。真田には右耳にしか届いた事を認識できない程度の小さくか細い声が発せられる。




