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《リヴェール旧杜》、住宅街の端にある三階建ての小奇麗なアパート。1DK、バストイレ別。割と防音もしっかりした悪くない物件だ。その305号室、最上階の角部屋と言うなかなかの良い部屋が真田 優介の城だった。
真田 優介は一人で暮らしている。別にわざわざ語るような理由ではないのだが、高校進学の際に何とか説得をして一人暮らしの権利(と生活費と家賃の面倒まで見てもらう権利)を手に入れたのだ。そのためにこうして吉井を住まわせる事ができているのだが、そう思うと一人暮らしなんてしなければ良かったと思ってしまわなくもない。
時間は十九時、夕食時。ダイニングキッチンに置かれたテーブルに向かい合って座り、二人は吉井が作ったチキンステーキに舌鼓を打っていた。
「う、美味い……っ!」
「ふっふーん、どーお? 私、結構料理とかするんだから」
美味しかった。目の前にあるドヤ顔が気にならないくらいに。きちんと火の通った鶏肉はそれでいてしっとりと柔らかく、噛めば口の中でほどけるようだ。同時に皮は耳を澄ませずともパリッと音が聞こえてくるほどに仕上げられており、如実に表れた肉との食感の違いが楽しい。
ジューシーなもも肉だが、脂っこい事はなく食べる手が止まらなくなる。かと言って油を落とし過ぎているのでもない。食べごたえと飽きにくさを備えたそれは、掛かっているソースの力もあるのだろう。サッパリとした酸味と甘み。これはオレンジソースか。何となく果物を掛ける発想に抵抗があってこれまでは作った事も食べた事もなかったが、これはなかなか悪くない。方向性はまるで違うが、だからこそ肉のボリュームと争わず共に味わいを発展させている。
年頃の男を相手に作るのだから相応のガッツリ感は必要だ、されどそれだけでは単調で、そして自分には重すぎる。それで考えたのがチキンステーキのオレンジソース掛けという事だろうか。脱帽だ。これを食べる二人に合ったメニューだ。
付け合せには玉ねぎのグラッセ。小玉ねぎではない。角切りにした普通のたまねぎだ。この玉ねぎは恐らく買い置きしていたものだろう。暑い時期なので早く使ってしまおうと思っていたが、このような形で出て来るとは。焦げ付きのないそれは甘く、オレンジソースとはまた異なった方向で口の中に癒しを与えた。これも食べ始めると手が止まらない。
気合を入れて買って来た材料で作ったのではない。安売りの鶏肉と買い置きの食材を使ったメインディッシュ。これは間違いなく彼女の、吉井さんの能力の高さから生まれた物だ。(原文ママ)
とにかく、これほどまでにダラダラと感想を書いてしまうくらいには美味しい料理だった。
「こう見えて家事全般、ちゃんとやれちゃうんだよ? ヤダ、もう! 私ってば嫁入りの準備万端じゃーん!」
「……その調子に乗ってる感じを斬ってやれないくらいの敗北感です……うわ、すんごい悔しい」
これが宮村ならばもう容赦なく扱き下ろしていただろう。味は認めても別の方向性で、まるで意地悪な姑のように手を変え品を変え。しかし今は相手が違う、目の前にいるのは初めて会話してから三日の女性なのだ。同じ要領という訳にはいかない。
肩を落として首からも力を抜き、ガクリと俯く。しかし手は自動的に肉を口に運ぶ。マナーとしては非常に悪いだろうが、落ち込んでいても手が止まらないのだ。何か怪しげな成分でも含まれているのではなかろうか。
自分も一年の間は自炊を続けてきた、自分で言うのも何だが、なかなかどうして腕は上がったつもりだ。料理は自分だけで完結している趣味だったので自信を持つ事もできた。また、プロとは話が違うと分別も付けられた。だからこそ、これほど近くに自分を遥かに上回る実力の持ち主がいたとは。食は向いているが落ち込みを隠せない。
そんなあからさまな様子を見て、彼女は楽しげに笑う。
「まあまあ、そう落ち込まないで。私をお嫁に貰っちゃえば良いんだよ、そうすれば私の力は優介のもの」
「あ、結構です」
「えぇー……」
この三日間、それはもう何度も繰り返された誘惑するような冗談を一瞬で斬る。それに対して唇を尖らせる吉井。唇を尖らせるのは彼女の癖か何かだろう、それほど怒ったりしていなくても尖らせて過剰に感情を露わにする。
その仕草は間違いなく魅力的なのだろうが、真田にとってそれは溜飲が下がる悔しそうな表情でしかない。こんな異常な状況下で自分を保つために開き直った真田は、彼女を宮村と同列の《ちょっと雑に扱って良いカテゴリ》に分類したのだ。そうすると女性であるという事は意外と気にならなくなった。もちろん、男女である事は間違いないのでそこの所は遵守しているが。
ともかく、唇を尖らせた表情を見て一応は悔しさを収める事ができた真田はふと浮かんだ別の話題を口にする。
「そうだ、いくら掛かりました? お金返します」
「んー? 良いよ良いよ、私がやりたかっただけだし」
安売りだ買い置きだと言っても金が掛かっていない訳ではない。ソースの元になるような物は無かったはずなのでそれは確実に買っているし、それを相手の負担にしてしまう訳にはいかないだろう。
拒否する吉井に対して真田も首を振る。この辺りは礼儀というか、もう意地だ。料理で敗北感を味わい、しかも材料費は相手持ち。完全に自分の負けだ。真田という男は意外と変な所でプライドを持った負けず嫌いなのだ。面倒な人間なのだ。
「そんなワケにはいかないです。材料費くらいは払わないと申し訳ないですから」
「別に良いんだけどなぁ……あ、でもこれでまた明日もご飯作ってあげられちゃうね。じゃあオッケー!」
「……明日もいる気なんですね」
「ん? うん!」
実に快活な良い返事だった。一切の葛藤も何もない、実に純粋な答え。彼女は明日になってもまだ帰る気がない、それは真田にとってはあまり嬉しくない事なのだが、その純粋さに押されて諦めるしか選択肢は残されていなかった。
「……じゃあ、食費置いときます。買い物行くならそれ持ってって使って下さい」
「良いのー? お金置いて出ちゃって」
「別に大丈夫ですよ」
「へぇー、つまりそれだけ私を信用してくれてるワケだね? このこの、照れちゃうじゃん!」
「顔も素性も知れてる相手から無理して盗んで逃げるような額じゃないって意味です!」
朱に染まった頬を右手で押さえながら、調子に乗った様子でもう一方の手の肘で空を小突くような素振りを見せる吉井。一体何を照れてやがるというのだろう、この女。
信用しているのとはまた別の感情。強く否定するのに少し声を大きくしてしまったので真田も思わず少し赤くなる。
「えぇー、『家計はキミが管理してくれ!』くらいの意味だと思ったのにぃ」
「吉井さんと違って、会って三日の人間にそんな事を言うほど軽い人間ではないので」
澄ました顔で言いながらグラッセを口に運ぶと、いつの間にか皿の上は綺麗サッパリ。気付かぬ内にこれほどまで食が進んでいるとは思わなかった。凄まじい料理の魅力である。
そんなつれない返事にもめげず、吉井は椅子から立ち上がって真田に擦り寄って口を耳に近付け、囁くように言うのだった。
「三日って、同じクラスでしょー? そ・れ・に、私ってこう見えても身持ちが固いタイプなんだよ……?」
「言動の自己矛盾も甚だしいですね!」