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僅かな動きからいわゆる戦いの火蓋が切って落とされる事となるだろうが、宮村にはまだ戦いの準備ができていない。なので敢えて鷹揚に、彼は構えを取り始める。急ぎ過ぎれば火に油を注ぐだけ。だからゆっくり。一つずつ、ゆっくり。
(左足をザックリ肩幅で一歩、右の踵は上げておいて、膝は柔らかく……左手は目の高さに構えて右は顎の横、脇は閉める。体重はちょっと前に、そんで顎を引く。よし……あ、拳は軽く握る。よっしゃ完璧!)
修行初日、真田に本を読みながら叩き込まれた構え。殴るのなんて拳を握って振れば良いとだけ思っていた宮村には必要性があまり理解できていなかったが、今は何となく分かる。気を付けた一つ一つにはきちんと意味がある。それを理解する事で、より形は固まった。
「……前より形が定まってますね。完璧かどうかは分かりませんが……良いでしょう」
「へっ、驚くのはまだまだこれからだぜ?」
しっかりと習った訳ではない事は見破られただろうか、前よりマシになった程度の言い草だが進歩は認めてくれているようだ。
拳を開いて、一度小指から順に強く握り締めてから再び軽く握る。とうとう訪れた、修行の成果を見せる時。
「――シッ、シャッ」
口から呼吸を漏らしながら素早く左のジャブを二度放つ。拳を握るのはインパクトの一瞬だけ。宮村の拳は実際には当たらないので、それを意識しやすいように目の前に透明な仮想敵を置いて戦う。
イメージは鞭。フリッカージャブだ何だと大層なものではなく、ただ単に腕を引く事に意識を持っていかせた。鞭の先端が空気を叩いて音を発する、そのタイミングで拳を握る感覚。
教える側の真田がそもそもボクシングなどやった事がないため教科書の内容程度しか言えない。が、やるのは別にボクシングの試合ではない。ただ強く打てそうなイメージを持たせれば良いのだ。だから鞭だの音速だのという言葉を使ったが、手前味噌ながらなかなか悪くなかったのではないかと思う。
腕輪の力もあってか本当に空気を叩く音を発生させられるのではないかと思うほどの、どこかの漫画にでも出てきそうなスピード。文字通り目にも留まらぬその拳によって気分が乗ってくる事でその威力は跳ね上がる。
「ふぅ……駄目ですよ、当たりません。樫打ち!」
しかし日下も冷静。腕輪によって向上した動体視力が的確に宮村の拳が伸びた先、風弾の着弾点を読んで刀を振るう。左足を軽く左前方の方に踏み出しつつ上段の構えを大きなバックスイングに変えて横薙ぎに。極端な逆胴のイメージだったが、極端にし過ぎて本当にただのバッティングだ。
それでも威力は本物。得物が変わった効果か、以前よりも強力な魔力のほとばしりを感じる。それはジャブとは言えこちらも強力になったはずの風弾を二発まとめて消滅させるほど。
「チッ……分かってる、よぉっ!」
ただの一振りで消し飛ばされた事には納得いかないが、倒してやろうと放った攻撃ではない。小手調べ、牽制、様子見の攻撃だ。だからすぐに切り替えて次へ。相手の斬撃が飛んで来る事もない、まだ自分の手番。思い切りフォームを崩して、右手を大きくスイングする。
大きく曲がる風の弾は相手の左側、バックハンドになって自由に防御する事は難しいはずだ。
しかし日下は迷わない。横薙ぎの一撃の後で、腕はバットを振ってボールに当てた時のように右手首を返した状態。そこから左手を柄から離し、右手首を今度は引っ繰り返せば抜刀しているような形に変化する。
「ハァッ! 椿落とし!」
鞘には納めぬまま、右足を大きく踏み出しながら形だけ居合抜きのように振り抜く。地面から浮き上がってくるような斬撃だが、この場合はそれが目的ではない。左側からの攻撃に真っ向からぶつけて防御する事が目的なのだ。
互いの風は相殺される。後に残ったのは体勢を立て直している宮村と、振り抜いた刀の柄を左手で握っている日下の姿。
「暮朝顔!」
左下から右上に向かって斜めに斬り上げる居合の後、高い位置にある刀を空いている左手で握って縦に振り下ろす。前回はこれで宮村の腕を奪った連続攻撃だ。
だが宮村だって前回の戦いから何も学んでいない訳ではない。相手の使ってきた技くらいはしっかりと頭に入れてあるのだ。
(よし……行ける!)
スッと左に僅かにスライドする。真田と梶谷の戦いでもそうだったように、縦の攻撃は左右に動けば対処できる。
また、左に動いた距離はほんの少し。斬撃をギリギリで回避できる程度だ。このまま右拳を真っ直ぐ伸ばせば、そこにいるのは技の後で動きにくい体勢の敵がいる。
「あ、た……れぇぇぇぇぇっ!」
気合の入り過ぎたガラガラに割れた声で叫ぶ。前に出した左足で強く地面を踏み込んで、右足は捻り、腰を回転させながら一直線に、体重を乗せて打たれる渾身の右ストレート。自分でも驚くほど綺麗に打てている、その気持ちがパンチの、風弾の威力を大きく増幅させる――。
「くっ……けど……!」
避けられないと悟った日下は覚悟を決める。すなわち、真田の提唱した防御のコツだ。他にも似たような事を考える人間がいてもおかしくはない。むしろ誰もが同じ事を思い付いていると言っても良いかもしれない。
体勢を立て直そうとしている日下に飛来する風弾。それは真っ直ぐ額に向かっている。当たるその瞬間に覚悟する。それだけで良い。しかし。
「――ん……なぁっ!?」
額に衝突した風弾の勢いは死なず、頭をそのまま持っていこうとする。反射的に後ろへ飛ぶ。何とか威力を殺そうとする行為だったが、地面から足が離れた事によって持っていかれるのは体ごとになった。
ゴロゴロと転がっても刀は離さない。鞘は下手すれば腹に刺さる可能性もあったが、何とかそれも免れた。だが、それでも痛い。ただの一撃で日下を強者のステージから引きずり落とす。
「へっへっへ、どうよ。思ったより痛かったんじゃねぇか?」
ある程度のダメージを想定した上で、それを上回るダメージを受けると実際以上に痛みは大きい。地面に倒れ伏しているその姿は後ろに飛んだ、つまりその威力に敗れた事をこの上なく物語っている。
その姿を見て宮村は笑う。やっと一矢報いたのだ。前回の戦いを合わせても初めての有効打。
「ぐ……くぅ、確かに、効きましたね。強くなってます」
ヨロヨロと立ち上がっているその顔には傷の一つもない。目に見えるダメージは与えられなかったか。いや、回復を行なったのだ。そうするだけの冷静さはこの状況になってもまだ残っていた。
「さぁて、これで対等に戦えそうだ。なぁ?」
右の拳を左手に打ちつけながら、完璧に自信を持つ事ができたらしく余裕たっぷりに宮村が言う。前回はほとんど負けていただけあって借りは返し切れていないが、今のこの姿は間違いなく圧倒的強者のそれだ。対等どころか波に乗ろうとしている。
そしてその強者と相対して目を細め、日下は口を開く。
「――なるほど、認めます。僕は一度勝てていたと驕っていました。……改めて、日下 青葉、参ります!」
両手でしっかりと刀を保持し、再び上段。目は死んでいない。どころか強者の力強さを取り戻している。自分の驕りを捨て、剣に誇りを取り戻す。
事ここに至って、本当に対等の勝負が始まる。
同じ風の魔法使い。同じ強者。同じ実力同士の決闘が――。