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「……何、言ってんですか。降参で終われるはずないじゃないですか……」
男は両腕を挙げていた。それは次の手でも何でもなく、明確な白旗。ホールドアップ。お手上げだ。
真田はここまで命を賭けたやり取りをしていたつもりだった。だから悩み抜いたし、柄にもなく叫んだし、辛くても転がってでも避けたのだ。それが降参の一言で終わらされようとしている。
平和主義者(あるいは極度の面倒臭がり)を自称する真田も、流石にこれには納得がいかない。しかし、男は責められている事を気にもせず平然と続けるのだ。
「ああ、そうだろうね。だが、話を聞いてくれないかい? 一昨日、戦いを挑んだ時からずっと負けそうになった時にしようと思っていた話があるんだ」
「何を……っ!」
「往生際が悪いと思うならそれで良い。僕が君の戦いを初めて見たのは一ヶ月前、彼と戦っていた時だ。話も聞こえていた」
「だったら、何だってんですか」
話が急に一ヶ月も前に飛ぶ。どうしても声から苛立ちが隠せない。足はタンタンと地面を叩き、言外からも早く本題に入れとプレッシャーをかけ続ける。
「君は、君達は強い。そして人間性も……もちろんハッキリと分かった訳ではないが、悪くないように思う。つまりだね、手を組むのに理想的な相手だと判断したんだ」
「手を、組む?」
「おいおい、急に何言い出してんだよオッサン」
どうやら戦闘が妙な形で終わった事に気付いたらしい、宮村も駆け寄って来るや否や唐突な言葉に驚いている。驚くというのも、この男は正気なのかと疑うような驚きだ。
ここまで殺そうと動き続けていた汗も乾かぬ内に、男は協力しようなどと馬鹿げた事を言い出しているのだ。それも無理からぬ事。
「うん。君達がそう思うのも無理はない。だがしかし、敢えて断言しよう。いずれ、この戦いは一人の手には負えなくなる。僕は今、この戦いが激化する前の時間を仲間を集めるために使おうと考えているんだ」
「…………」
「…………」
二人して言葉を失った。じゃあ何か、ここまでずっと手のひらの上だったとでも言うのか。負けそうになったら、つまり自分を倒せるような相手と協力するという事だ。この男はここまで真田を試していたという話をしているのだ。
腹立たしい事に、少し納得した事もある。
「――それで見逃してみたり、ハンカチ押し付けてヒント出したりしたんですか? ……あ、これ返します」
ポケットから取り出したのは綺麗に洗濯してアイロンのかかった白いハンカチ。このハンカチは間違いなくこの戦いにおける重要なヒントとなった。それを差し出すと男は近寄り、受け取って手際よく折って胸ポケットに挿した。
「ハンカチ?」
「そんなに濡れてもないのにハンカチを押し付けて、手が濡れてるって事を認識させた。それによって濡れているのに凍っていない理由を考えるように誘導した……って事なんじゃないかと思いました。今。多分」
火の粉の策も宮村には伝えていなかった。ハンカチがヒントなどというのも全て真田の頭の中だけの話だった。宮村の疑問に対して説明をすると男は嬉しそうに笑って頷く。
この時もう一つ分かった。先程、何故か嬉しそうにしていたのはヒントに気付いて防ぎ切る事ができるように成長しているのを喜んでいたのだ。本当に、手のひらの上。
「考えるきっかけになったみたいで良かったよ」
「つまり、ヒント出してちゃんと打開できるかどうか見てたってワケか」
「ふふふ。それで、どうだろう。主に罠を張る事しかできないかもしれないが、経験は豊富なつもりの老いぼれ一人と、協力関係を結んでみる気はないかい?」
そう言って男は右手を差し出す。握手を求めているようだ。
ここで感情に任せて断る事は簡単。しかしそれを選ぶ事は難しい。この男が断られる可能性を考慮していないはずがない。会話の流れになっていたせいか、極めて不用意に接近まで許してしまっている。この距離ならば一人でも道連れにするような事は容易だろうし、逃げる事だけを考えれば氷の魔法はさらに利便性を増す。
無限に撒菱を持っているようなものだ。そしてそれは発見が非常に困難で、理不尽なまでの拘束力を持つ。
だから、真田は冷静に考える。何が一番良いのか、その選択肢を。
(試されてたのは気に入らない。でもどうだろう、協力者が必要ってのは考えたばっかり、氷の魔法も結構強いし便利。それに何より、この人は大人だ。身なりも良い感じだしハンカチも良い物だった。社会的地位がそれなりに高い……利用価値も高そうだ。万が一の場合も宮村君がいれば有利に戦える……)
「……真田、どうする?」
「――分かりました、お受けします」
頭の中で言葉をグチャグチャになるまでかき混ぜるまで数秒。その末に出した答えは、承認だ。相手を自分達の味方として認める。宮村の許可は必要ないだろう。この男は決める時は独断でアッサリと決める。そんな彼が意見を求めたという事は、つまり判断は任せるという意思表示だ。
真田も右手を伸ばし、一瞬、触れるのを躊躇った後に緩い力で枯れてなお力強さは残した手を握った。すると男はそれよりもずっと強い力で握ってくる。少しだけ痛い。
「良いのか?」
「ええ、色々と考えた結果、アリだなと」
宮村の短い問いは解釈するならば、納得できるのか、信じて良いのかという所か。何も問題はない。納得に関してはメリットによってチャラにできるし、信じるのではなく裏切られた場合の対処法まで考えておく。これで全て解決だ。
「色々と、ね。ありがとう。改めて、僕はこういう者だ」
割と打算にまみれた考えを言葉の端から読み取ったのだろう、男は含みを持たせた笑みを浮かべる。それで礼を言えるのだから大人の余裕か。
手を離した男はスーツの内側から名刺入れを取り出し、そこから二枚を取り出して渡してくる。
この歳ではなかなか名刺など貰う機会はない。少し物珍しい気持ちで書かれていた情報に目を通す。名前、電話番号、メールアドレス。そして、職業――。
「梶谷 栄治さん……カジヤ相談役!?」
「はぁ? カジヤって、あのデカいスーパーの?」
「総合商社ですよ! 売上高が約六兆円。カジヤ百貨店、カジヤ製粉、カジヤスチール、梶谷不動産、スミス銀行その他諸々。『いつだって、あなたの道のすぐ隣』、カジヤですよ!」
「お、おう……詳しいな」
「……まあ、株、持ってるんで」
「そ、そっか……」
カジヤと言えば一番有名なのはもちろん百貨店だろう。風見市にも大型のがある。行けば悩みが解決するとまで言われる豊富な専門店。第八の総合商社と呼ばれるカジヤは特別に歴史がある訳ではない。総合商社などと呼ばれるようになったのは他社の長い歴史から考えるとごく最近の話だ。
始まりはたった一人の男。勤めていた会社から独立して自ら事業を立ち上げる。最初はスーパーマーケットだった。一代で大型化、店舗数も増やし、サービス向上のためあらゆる企業と手を結び、遂には上場を果たす。その手腕から後を継ぎ二代目となる息子には過剰なまでの期待を掛けられたが、彼はその予想を大きく裏切った。もちろん良い意味で。高いハードルを物ともしなかったのである。大胆なまでの事業拡大計画、先を見据える千里眼。圧倒的な能力を存分に活かし、不可侵とも言える総合商社のステージに登り詰める事となる。
その二代目の名前と言うのが梶谷 栄治。顔は知っていたものの、こんな場所で見る事になるとは思っていなかったせいで記憶とまるで一致してくれなかったが、間違いなく眼前に居るのはその人だった。