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「正面とはねっ!」
通常ならば、このように真田が真っ直ぐ走ってきた場合は冷静に対処できるはずだった。だが今はできない。曲線を描くよりも直線の方が速く危険領域に踏み込んでくる。先程までとはテンポが異なり困惑したその状況下でそれを対処しなくてはならない。だから単純にただ横薙ぎの水滴を放つのだ。これが一番効果的な攻撃だからと、それだけの理由で。
(来た、スピード落とすな! このまま、防ぎ切ったら僕の勝ち!)
この男は頭が回る。だからこんな状況でもいやらしく効果的な攻撃を選べると真田も読んでいた。
思うようなスピードで体が動かない。しかしそれは飛来する水滴もだ。ゆっくりと時間が流れるが、頭だけは通常の速度で回り続ける。今、この時のために練習した成果を今見せる時!
「あぁたれぇぇぇぇっ!」
右手の拳に大きめの炎を発生させる。そしてその右手を突き出しながら、人差し指、中指、薬指の三本を親指に引っ掛ける。三本の指で同時にデコピンを放つような、そんな形。
腹の底から口を突いて出たのは願望。成功しろと、若干の不安が叫ばせる。三本の指が親指から解放され、勢いよく弾かれたその瞬間、世界はあるべき速度を取り戻す。
真田の走るスピードは落ちていない。ならば水滴は当たっているはずだったが、凍らない。
「馬鹿な……くっ、速い!」
「おぉぉぉぉし!」
男が一歩だけ後ずさる。先程まで真田がやっていた、距離を取ろうとする行動。その少しの距離が回避を成功させるかもしれない。だから、ここからは素直に直進してはやらない。
柄にもない雄叫びを上げつつ、男の左手側に進路を変更する。前回と同じポジション。水を踏んだような音が耳に入った、そんな気がした。しかし踏んだのは前回とは違って右足ではなく、左足。
「だがそこは凍るぞ!」
(それで良い……凍ってもらわないと、困るんだ!)
無理に方向転換して踏み込んだ左足は角度が浅かった。普通ならそのまま滑って転んで左腕から地面に強かに打ちつける所だ。普通だったならば。
左足が凍り、地面に固定される。滑らない。浅く踏み込んだ左足は一切滑る事なく頑強な軸となった。
「っっしゃあぁ!」
「む、ぬ……おぉぉぉ!」
体を回して、全身の体重をかけた渾身の蹴り。その一撃は男の腕での反射的な防御を突き抜けて腕の骨と肋骨を同時に砕きながら遠くへ吹き飛ばした。そんな初めての感触が真田の脳裏にこびり付く。
(入った……くっそ、足痛い……捻挫か?)
気分は悪い。叶うならば、胃液や夕飯の鶏肉と一緒に人を蹴り飛ばして骨折させた不快感も吐き出してしまいたい。
けれどもちろんそんな余裕はない。無理をさせた左足首が鈍痛を発している。向きまで固定された状態で全身の体重をかけて回ったのだ。捻挫だってするだろう。このまま凍らせて固定と冷却を同時に行なうのもアリなのではないかという冗談みたいな感想が浮かぶのは、きっと追い込まれている証だ。有利に運んではいるが、こうして相手の攻撃を防御できたのは苦肉の策であった事を忘れてはならない。
「な、なかなか……はぁ、良い蹴りだったよ……くっ」
「――立つまで、待ちますよ。それで、その、チャラですから」
左脇腹を両手で押さえながら息も絶え絶えに起き上がろうとするが、苦痛に顔が歪む。当然だ、回復した所で痛いものは痛く、歳のせいもあって体力は真田にすら劣るだろう。立ち上がるのはそう簡単な事ではない。
しゃがみ込んで左足を固定する氷を溶かしながら告げる。できるだけ余裕に聞こえるように。前回見逃してもらった礼だと言うが、そんなものは口だけだ。真田も疲弊している。それがなければ躊躇なく追撃しただろうが、正直まともに動ける気がしない。回復させた左足首の痛みは続いている。幻肢痛のようなものだろうか。
とにかく今は少しでも休憩したい。しかしそう言ってしまっては流れが元に戻ってしまう。ここは余裕を持って待つという設定が必要だ。
「そうか。じゃあ、お言葉に甘えて、少しゆっくり立たせてもらおうかな?」
真田の言葉を信じたのだろうか、その場に横たわって回復を図っている。そしてそれは真田も同様だ。しゃがみ込んでゆっくり解凍しているように見せながら回復。だが頭の回転は止めない。今はまだ戦闘中だ。
(よし、戦える……。やっぱりあの水は最初に当たった物だけを凍らせる事ができるんだ。だから、学ランで防御した時に浸透して濡れた手は凍らなかった、最初に当たった学ランだけが凍った……つまり、僕に当たる前に別の物を当ててしまえば防げる!)
そう、凍らせられるのは最初に当たった物だけ。地面に落ちた水滴は足を凍らせているのではない。踏んだ瞬間に地面を凍らせ、それに足を巻き込んでいるだけなのだ。
だから別の物を当てる。それはつまり、火の粉だ。
思えば初めて戦闘を行なった時にも似たような事をしていた。あの時は距離を保つためにただただ腕を振り回して火の粉を舞わせただけだったが、今回は指で弾いて火の粉の飛ぶ位置をコントロールしたのだ。
濡れた宮村の服から浸透して肌が濡れていた姿を見た時に仮説を立て、相手の戦い方や、そこから思い付いた特訓を用いて対抗策を編み出した。実演はぶっつけ本番だったが、なかなか上手い事いってくれた。
「い、たたた……さてと、あまり待たせても悪い。続きとしようか」
「え、ええ。はい、受けて立ちます」
思いの外、男の回復は早かった。正確に言うならば無理をしているのだろう。脇腹を押さえる手はそのままでフラフラと立ち上がっている。まだ回復する時間が欲しいと思ってはいる真田だったが、自分が風上にいる以上はそんな事は言えない。同じくゆっくり立ち上がって相手を見据えた。受けて立つ、その言葉はこの戦いにおける余裕の象徴だ。
「とは言っても、僕のする事は変わらないけれどね。来たまえ、受けて立つのはこちらの台詞だ」
男が手を離して、これまでで初めての行動をした。斜め下、地面に向かって素早く横に一閃。水滴が一直線に地面に衝突し、そこに境界線を作り出した。それは男が立つ位置の三メートルほど手前。
(あのラインを踏んだら足止めか。少し離れてる……さっきみたいに足は届かないな。踏まずに越えよう)
もう火の粉のネタは割れている。冷静になるだけの時間も与える事となった。男はここから防御される事も考慮に入れた上で戦ってくるだろう。
ならばむしろ、ゴチャゴチャ考えるのは無駄だ。もはや戦闘はいかにして接近するか、それをいかにして防ぐかではなくなっている。今はどちらの防御が優れているのか、それが争点。
いかに迎撃するのか、それをいかに無効化するのか。消極的な殴り合いという矛盾を孕んだ様相を呈している。だがその先にこそ勝敗はある。
泥臭く戦う、愚直な真っ向勝負。思い切り駆け出すその足はしかし、途中でブレーキをかけて、その勢いのまま地面を蹴って宙を舞う。男の張った進入禁止ラインを飛び越えたのだ。
「飛べば避けられないぞ!」
(当たれ!)
その行動は読まれていたか、当たり前のように宙に浮かんだ真田を目掛けて真横の水滴が飛ぶ。空中で避ける事は不可能だ、そのための推進力が存在しない。
しかし真田もまた冷静だ。いや、これもまた読めていたと言うべきか、この迎撃方法は当然だったと言うべきか。両手を伸ばして六本の指を親指に引っ掛ける。両方の拳に纏わせた炎は大きく、そしてそれは指先にピンポイントに集中し始めている。
体から離れた炎は管轄外。しかし接している間の炎は自由自在だ。ささやかな火の粉達が真田の体に当たるはずだった水滴と衝突し、呑まれて消える。しかし水滴も凍らせる対象を失って無効化されている。これで防御完了。