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何も見えない。しかし、何かを感じていた。腕が熱い。
恐る恐る開いた目には男の姿が映る。真田の気勢に反応したのか手を振り上げたままで止まっている。それだけではない、男の姿は先程までよりも明らかに鮮明に見えていた。時は午前三時前、周囲には明かりの一つも無い。それでも辺りは明るく照らされている。理由は明白だ。
「火、が……あわわわわっ!」
真田の両腕が赤々と燃えている。腕に感じた熱さの正体を理解した彼は慌て始めるのだが、ふとそこで気付いた。熱くはあるが、焼けてはいない。そして理解する。これが腕輪によってもたらされた《自分自身の正当な力》である事を。
(そうか、腕輪を使えば水が出せるんじゃないんだ……腕輪の力で《あの人が》水を出せるだけで、僕の場合は……火が出せる!)
自らの推測が正しかった事によって生まれた高揚感。そしてそこから少しだけ生まれた心の余裕。《燃え盛る》と言ったような言葉が似合うその火は、落ち着きを取り戻しつつある真田の精神状態に反応したのか若干弱まった。
「――やるじゃんお兄さん、ちょっとビビっちった。でも、ずっと逃げ回ってたのはそういうワケね」
「な、何の事ですか」
「火に水じゃ相性悪いっしょ? って事だよぉ、分かるだろぉ?」
客観的に考えて、確かに真田は明らかに不利だ。どれほど熱く燃えさかる炎を出したとしても、それは男の放つ水流に飲み込まれて消えてしまうだろう。
「そ、そうかもしれません……でも、何もやらないより良いと思いませんか?」
身を守る、あるいは敵を倒すため、真田はまず話を合わせる事を選択する。正直に言ってしまえば何故戦わなければならないのか分からないが、まずは同じ土俵の上に立つ。話を合わせて、続けて、頭の片隅では状況を変えるための方法を考えるのだ。
火は水に弱い、だから自分はそれまで自分が何をできるのか隠していたが、敗北を前にして最後の足掻きとばかりに火を出した。そんな《設定》で苦手な相手と苦手な会話をするしかない。
「そうだけど、やるだけ無駄なんて事も言うだろぉ? 無駄な事は時間の無駄だっつーの!」
「無駄だと思うから無駄になるんです」
真田の言葉は極めて生産性に欠けている。ただただ機械的に相手の言葉に反発しているだけだ。
それもそのはず、会話が苦手である事もあるがそれだけではなく、今はとにかく考え事で頭が一杯だからだ。聞こえてくる相手の声を脳の片隅で処理して口にしているだけに過ぎない。
(どうする……火で水に勝つ方法。ある事はあるけど、できるかどうか分かんない。考えろ、もっと考えろ……どうすれば、それをできるようになるのか。それができるのはどんな状況か……)
幸いにして、相手はこの益体も無い会話に付き合ってくれている。先程まで逃げていた相手が行動を起こしたかと思えば自分の水の方が有利である火を出してきたのだ。完璧に王手をかけている状態。真田が行動を起こせばそれに反撃をする形で勝利を収めるという光景が頭に浮かんでいるに違いない。
(火は水で消されてしまう。でも、必ずそうなるって訳じゃあない。水の勢いが強いから、水量が多いから消されるんだ。あの水なら消されそうだな……鼻にやられた後、あの時の水は本当にヤバかった、ビル解体する鉄球みたいだったなぁ……まぁ、鉄球ぶつけられた事無いけど)
「でぇ? 結局、いつになったらその無駄な事をしてくれるのかなー?」
「さて、いつでしょう……」
「ふっはっは! 焦らしプレイってヤツ? 良いよぉ、お兄さんが色々考えてても、それごとぶっ飛ばしてやっからさぁ!」
男がスッと腰を落として姿勢を低くする。こちらがどんな攻撃を繰り出してもそれに対して対処してやろう、そんな意思がありありと見て取れる。ニヤニヤと笑っているその表情は既に勝者のそれだ。
(けどその後のは結構我慢できたな……背中に思いっきりだったけど、思ったより痛くなかったと言うか勢い弱かったと言うか……何だ、何が違うんだ? 殴りながらの時は凄く痛かったのに、逃げてる時のはそんなに強くない……何か違いがあるはず……)
もはやそれは直感に等しかった。逃げている背中に追撃する形の攻撃の方が、ある程度は覚悟を決めていたとは言えどもそれでも弱かった。そこに状況を覆す鍵があるに違いない。と言うよりも、この思考の先に鍵の一つも無ければ完全に無駄な考えになってしまう。
何かを見付け出すしかないのだ。このちょっとした思考の寄り道の先に何かを。
熱暴走しそうなほど高速で回転する真田の脳が、あらゆる可能性を挙げては否定する。
相手の力が弱まったのか。
あるいは自分が強くなったのか。
もしくは逃げる相手には威力が下がりでもするのか。
そして真田は気付く。何故こんな事も思い付かなかったのかと思ってしまうほどのシンプルな答え。そして勝利への道。
「しつこく何度でも言うけど、火じゃ水には勝てないんだよぉ。考えたって、それも無駄なの。残念ながら、な」
そんな挑発的な男の言葉。それに対して怒りはしない。火じゃ水に勝てない、普通に考えたのならば、それが道理だからだ。
だが、真田の頭の中に浮かんできたシナリオではそうはなっていない。この状況を何とかする事ができるかもしれない、そんな幸運への喜びや驚きによって彼の顔は思わず緩んでしまった。
「え、と……ごめんなさい、何とかできちゃうかもしれません」
「はぁ? お前、何言って……ちょっ、おい!」
相手の反応を見る事なく動き出す。正面からの攻撃には備えていたかもしれないが、それ以外の行動は予測していなかったのだろう。驚きのあまりに男の動きが一瞬止まる。
逃げようとしていた時には少しも見つからなかった隙が戦う事に決めた瞬間に見つかるとは皮肉なものだ。
真田は全力で走り出す。方向は、右。