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「――何をしているんだい?」
「え? ブラジル体操」
「一緒にやっときますか?」
「……いや、遠慮しておくよ」
翌日の夜。約束した通りの時間にグラウンドに訪れた男を待っていたのは妙な動きをしながら前進する二人の姿。3カウント目で右足を前に出しては体を捻り、右手で左足の踵に触れる。そして次の3カウント目ではその逆。それを何度か繰り返すと、二人して小さく拍手してから軽くハイタッチ。
やる気の表れか、凄まじい勢いでブラジル体操に馴染んだ真田がそこにいた。これがなかなか悪くない。一体感のようなものもしっかりと生まれるのだ。二人だけだが。一人で過ごしていたのでは得られない感覚だ。いや、それでもたった二人なのだが。
男の方は男の方なりに軽くストレッチをしている。歳もあってか入念で少し長めに時間を取る。その間は体操を終えた二人は顔を寄せ合って話し合うための時間だ。
「さあ、宮村君。今日やってほしい事はさっきちゃんと説明しましたよね?」
「お、おう」
戦闘のために宮村に構っている時間はない。しかしそちらの特訓も欠かす訳にはいかない。再戦は明日も待っているのだから。
なので、今日のメニューは体操の前に細かく指示を出しておいた。客観視できる監督がいなくなるのは痛いが、この最後のメニューはフォームがしっかり固まってきている今ならば張り付いて見ている必要も少ないだろうという判断だ。
トーンを落として話を切り出したので宮村も神妙な顔つきでガクガク頷く。
「これは明日に備えて絶対に必要な事です。むしろこれのためにここまで特訓してきたんです。絶対に完成させて下さい。できなかったとは言わせません」
早口で台詞を一つ一つ区切り、あまり長い訳でもない台詞でもまくし立てるように言っているよう聞こえさせる技。何となく勢いを感じられるので宮村も再び頷くしかない。
「おう、わ、分かった。でも、その……本当にお前の事は気にしなくて良いんだな?」
「はい。……多分」
「多分か」
「多分です。でもまあ、駄目だったらその場で他に色々考えてみます。だから、宮村君は心配せずに、あのバケツを遠慮なくボコしてやって下さい」
真田が指差した先にあるのはグラウンドの隅に放置されていた使用者などいるはずもない机と、その上に置かれた水の入ったバケツ。戦闘にも特訓にも邪魔をしないようしっかりと距離を取ってある。
そちらの方をジッと見つめる宮村の頭の中では説明した今日の特訓の内容が反芻されているのだろうか。
一人だけで、心配事を無視して、今日だけで絶対に特訓を実らせる。その覚悟が決まったか、真っ直ぐに真田の目を見て、笑って見送る。
「……分かった。頑張れ」
「はい」
同じように、気負っているためか逆に今までよりも自然な笑顔で返して真田は背を向けた。ここからはお互い、自分一人の戦いだ。二人でいるが一人であり、一人であるが気持ちばかりは二人で戦える。一人ではあっても、これまでの彼の人生とはまったく別のもの。
「話は、終わったかい?」
ストレッチの間に行なわれていた会話のまたその間にストレッチも終わらせていたらしく、悠然と待ち構える男が声を掛ける。今日のスーツは黒。いざという時、少しでも夜の闇に紛れこむ事ができないだろうかと考えられたものだろうか。全力の証だ。
「は、はい。えと、その……よろしくお願いします」
「ああ、よろしく。昨日と同じ立ち位置で始めようか。距離は、これくらいだったかな?」
男がゆっくりと歩いて距離を取る。その位置は昨日と同じ目測およそ十メートル、邪魔が入らずトップスピードで駆け抜ければ素では足の遅い真田でも瞬く間すら与えない距離。
「そ、う……ですね。はい、多分、それくらいかと。多分」
「うん。……よし、来たまえ。いつでも受けて立とう」
戦闘開始位置に仁王立ちになり、一昨日も見たように両方の手首のストレッチをするように振る。
いや、ストレッチなどとうに終わっている。今なら何となく分かる、アレは素知らぬ顔で自分の周囲に水滴を撒き散らしているのだ。なかなかどうして、いやらしい戦い方をする。




