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これは慢心だっただろうか。抱いた事のなかった自信が頭の回転を鈍らせたか。相手が挑んできたのは相性が有利だからであるとか、戦い方を考えているからだとか、そんな理由ではなかった。
もっとシンプルな理由。絶対に炎には負けない魔法だからだ。火属性の魔法のバリエーションはそう多くは思い付かない。大抵は炎という姿を持っている。だからこそ、火属性には負けない。姿があるならばそれを凍らせる。それがこの男の魔法だ。
右腕にかかる重量が激増する。重さなどなかった炎が急激に同じ大きさの氷塊に変わったのだ。腕ごと凍結し、取り回しが極端に悪くなる。バランスは崩れ、到底このままでは攻撃になど移れない。
(何だ! 凍った!? そんな無茶な、こっちは火なのに!)
戦闘中の急激な状況変化、それにこの時の真田は判断が追い付かない。あんな水滴など、まして氷など火を消すような力はないのだ。
「困惑している場合かな?」
ほんの数メートル、一瞬とも呼べないほどの短い時間で男は接近し、再び腕を振るう。右腕から発せられた水滴は真田の左膝に。そのまま左足は膝を中心にして凍結する。その足を、腕輪によって増強された脚力でもって男は蹴り飛ばした。
そのまま吹っ飛ばされ、元の位置まで戻される。意外と左足に痛みはない。芯から凍てついているのだ。けれども、視線を落としてみればそこにはあるはずの足が存在していない。膝から下は完全に破壊されている。ただただ氷を砕くようにして。
「なっ……ぐ、うあぁぁぁぁっ!」
「真田ぁっ!」
痛みはなくともショックはある。自分の足が、さっきまで確かに地面を踏み締めていたはずの足がなくなっているのだ。断面が見えていない事がせめてもの救いか。それでも、喉の奥を強く擦るような絶叫。涙が自然とこぼれる。
(マズい、アレが頭に当たったら一発で殺される!)
グチャグチャになった思考を最大限に上手く纏めるならばこのようなところか。これほど簡単に体を砕く事ができるなら、一瞬でゲームオーバーになってしまう条件が頭の中に浮かんではそれに恐怖する。そんな精神状態だったと思う。
「はぁ、はぁ、ひっ、ひっ、ひっ……よ、よし、溶ける……」
荒い息はそのまま過呼吸気味に変わる。それを無理に落ち着けようとしながら左手の炎を氷塊に近付けると、その氷は勢いよく溶け始めた。溶けた水は、解凍された炎に触れて蒸発した。
《右手の炎》という概念そのものが凍結させられていたとでも言うのだろうか。左手の炎では簡単に溶けるし、溶けた後ならば右手の炎にも反応する。まさに魔法。無茶苦茶な現象だ。
「さあ、どうするかね? もう限界みたいじゃないか」
男が遅まきながらもウォーミングアップのつもりか手首をブルンブルンと振っている。
「ん、んんっ……うぇ……ま、まだまだぁ!」
少し口を閉じるだけでも苦しい。なので口を開きっぱなしにして、よだれがこぼれる事も気にしている余裕はない。襲いくる吐き気を堪えて、既に復活している足で立ち上がる。
男に言われている通り、正直既に限界だ。それでも諦める訳にはいかない。絶体絶命の状況下でむしろ冷静に頭を回す。そして、その考えを実行しようと立ち上がるための気力を得る。それこそが真田が死の恐怖を抱いた時の本能行動だ。
「うん、その意気だ。来ると良い」
(どうする。近寄らないと攻撃できない。炎を大きくしたって的が大きくなるだけ。考えろ、もっと考えろ……接近するんだ。当たったら凍る水、それを全部当たらないように……)
大人の余裕か。最初の立ち位置、真田と十メートル離れた場所に立って待ち構える堂々たる姿ときたら、巡業で子供に稽古をつける力士のようだ。何とかしてその力士に、足を引っ掛けるなり何をしてでも土を付けようと策を巡らせる。
しかし、特別に有効な策は思い浮かばない。撒き散らされる水滴という性質上、全て回避するのはなかなかどうして難しい。かと言って防御しようにも直後に凍らされる。出方を窺ってカウンターに徹するならばほぼ無敵。そしてこちらはとにかく前に出なければ戦う事もできやしない。最悪の相性だ。
だからこそ考えなければならない。裏をかかなくても度肝を抜かなくても良い。意図がバレバレでもそれでも良い。この一瞬だけでも乗り切れば良いのだ。
詰襟のボタンを外し、脱いで左手で襟を握る。何をどうするのか、もはや誰の目にも明らかだ。
「もう一度ぉっ!」
「いいや、させないよ」
右手には炎を、左手には詰襟を。ほとんど気合だけで体を動かす。二、三歩だけ進んだタイミングで男が右手を下から上に、縦に振るう。その手の動きに合わせたように縦にいくつかの水滴が並んで飛んで来る。それ自体はよく見えている。ゆっくりと時間を感じながら、それに対応するよう体を動かす。
(避けろ! 全部!)
縦に並んでいるなら避ける事はできる。むしろ引力に従って落ちたとしても縦のまま、その分だけ下手に考える事もなく避けやすいくらいだ。
左足を交差させるようにして右側へと踏み出す。縦に飛ぶ水滴を右側に回避、聴力的死角ではあるが見えているなら問題は少ない。
「ほら、これで詰みだ」
「お、おおおっ! まだだっ!」
真田が動き出した直後に反撃をしてきた効果がここにあった。僅か十メートルを埋めるほんの一瞬の間に二度の攻撃を可能にする――。
しかし、その行動は真田には読めている。そのために詰襟を使って防御はしなかった。凍らされてしまうと途端に使いにくくなってしまう。だからこそ、男に最接近できるタイミングまで盾は使用しないのだ。
そして今、手を伸ばせば届く距離に到達したその時、二度目の攻撃が真田を襲う。一撃目と合わせて回避するためのスペースを狭める真横の薙ぎ払い。これを防御したい。
詰襟を持った左手をもまた横に振るった。ポリエステルが水滴を弾く。しかし当たった事に変わりはない。凍りつつある詰襟を手放しながら、その陰に隠れて姿を眩ませつつ右足を一歩踏み出す。真田の現在位置は男の真横。右手の炎をぶつけようと反動をつけながら腰を回す。
「おお、素晴らしい!」
「これで……っ!」
一秒にも満たない時間でこの腕は、炎は届くのだ。それなのに、男はまだ余裕ぶった表情を変えようとしない。焦りも恐怖もなく、ただ笑いながら口を開く。
「でも、やはり詰みだ」