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「なるほど、面白い事をしているね」
その低く深い落ち着いた声は思いの外すぐ近く、真田の背後から。しかし、これほど近くに誰かがいて気付かない事があるだろうか。いや、普通ならばそんな事もあるかもしれない。普通の相手ならば。
「!」
「誰だ!」
「ああ、いや。驚かせてすまない。僕はこういう者だ」
勢いよく振り向いたその視線の先にいたのはグレーのスーツ姿の男だった。胸のポケットからは白いチーフを覗かせた、まるで絵に描いたような綺麗なロマンスグレーでオールバックの紳士。笑い皺のある穏やかな顔付きだが、見せてきた左手首には腕時計に隠して、あまりに見覚えのあり過ぎる銀色の腕輪がある。
「魔法使いか……っ!」
「でも、魔力は感じられなかったですよ。どうして……」
普通の相手ならば気付かないかもしれなくとも、魔法使いならばまず間違いなく気付く事ができる。そのはずだ。油断していたとしても。しかしこの男は気付かれなかった。二人の感知に引っ掛かる事なく、彼は真田の背後十メートルまで接近を果たしていた。
「良い事を教えてあげよう。最小限の動きだと魔力に気付かれにくい。そして、魔力を感知できる範囲が広い人間もいる。だからそこの彼の魔力の高まりに合わせて動けば、ほら、気付かれい。理解はできるかい?」
「……目的は何ですか」
言っている事は真っ当だった。なるほど、小さな動きならばそのために使われる魔力は最小限で済むだろう。魔力の感知範囲が広い人間がいるのは初めて知ったが、自分達に気付かれない距離から魔力を感知した上で宮村のパンチの時に無意識に高まってしまう魔力にタイミングを合わせれば小さな魔力は気付かれにくい。言っている事は納得できる。
しかし、どうしてそれをこうも正直に明かすのか。こちらの反応からして明らかに情報の面で有利だと気付いたはず。それなのにこの男はまるで当然のように解説をして理解まで待っている。
それには何か理由があるのか。それによって何かが有利に働くのか。だが案外と理由はシンプルなものだ。
「端的に言うならば、君と戦わせてもらおうと思ってね」
「僕と?」
手で示されたのは真田一人。この男はわざわざ姿を見せてまで真田と戦いに来たのだ。恐らくは、先程の解説も信頼させるためか。信頼させる事で真っ向からタイマンの勝負を望んでいる。そういう事なのかもしれない。
「その通り。君は火属性の魔法使いだろう? 僕は水属性だ。戦いたいと考えても当然だと思わないかい?」
別に今さら驚くような事ではないが、どうやら真田の戦いは見られているようだ。自分の属性、戦い方。あらゆる事がこの男には知られている。
「……真田、俺も戦う」
相手にだけ情報を掴まれている状況は不利だ。それは宮村も分かっているらしく、小さな声で協力を申し出る。しかし、真田はゆっくりと首を振りながら考える素振りも見せずに即答するのだ。
「いえ、結構です」
「おい!」
「宮村君は別のタイマンが待ってるんですから。今は少し離れて練習を続けてて下さい」
精神面も何もかも、金曜の深夜にある戦いに向けて完璧な状態に仕上げてほしい。あるいはこれがまた明日、明後日だったら実戦によって練習するのもアリかもしれないが、今はまだ早い。今はフォームを徹底的に覚え込ませることが先決だ。ボコボコにされて意識が朦朧とした状態でも教えた通りのパンチが打てるように。
だから真田は断る。今戦うのは自分一人で充分だ。
「……大丈夫か?」
「もちろんです。それに……水くらいなら、燃やします」
「ふふ、随分と格好いい事を言うじゃないか。その自信は嫌いじゃないよ」
戦える。自信はあった。水の魔法は決して弱点ではないのだ。戦い方すら見極めれば自分だけでも戦って勝つ事ができる。それこそ水をも燃やして。
膝を曲げて今にも駆け出さんと集中を高める。こっちは魔法に関して何か進歩している訳ではない。一方的に情報を知られているならば出し惜しむ理由などない。むしろ全力で追い込んで相手に魔法を使わせて見極めるべきだ。右手の腕輪に触れ、魔法の準備は完璧。
「――行きますっ!」
「ただ、僕も言わせてもらおうか」
真田の足が地面を蹴るのとほぼ同時、あるいは少し先んじただろうか、男が鷹揚に口を開く。腕輪に触れるのと同時にその腕を縦に振り上げる。
すると、その手から発した物だろうか、小さな水滴が飛んで来た。自転車に乗っていたら小雨が降ってきたような、その程度のただ鬱陶しいだけの物だ。こんなもの回避する方が馬鹿らしい。魔法の正体は分からないが、無理に体勢を崩して回避するのも危険。ならばそれこそ、燃やして押し通る。
「――っ!」
右腕を振るって炎で水滴を蒸発させる。その程度の水量、こちらの火は揺るぎもしない。
しかし、話はそう甘くない。水滴は確かに消えたが、その前に確かに炎に触れたのだ。それだけで男の魔法は発動条件を満たす。
高速の移動にも対応する目が、優しげな微笑みを確かに捉える。そして、その口からこぼれた言葉は静かで、力強く、付け焼刃ではない自信に満ちていた。
「――炎くらいなら、凍らせよう」