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電柱にもたれ掛かるように意識を失った男を座らせる。起きる前に誰かに見付かっても酔っ払いか何かのように見えるだろう。外傷も無く、何かを疑われたとしても本当の事情を話せるはずもなく、勝手にそんな感じで誤魔化してくれるはず。
「お疲れ様でした、荒木さん。とても助かりました」
「……いえ」
戦いが終わってみればこれだ。荒木は服の汚れを払い落としながら極めて不愛想に短く答えた。最後の方はよく喋っていたのが嘘だったよう。
こうなってしまうと日下としてはどう接したら良いのか分かったものではない。決して人付き合いが苦手という訳ではないが、厚く高い心の壁を破るほどのコミュニケーション能力までは持ち合わせていないのだ。
とはいえ流石にこのままモヤっと挨拶をして別れるのは人として少し違うだろう。せめて一言二言くらいは言葉を交わしましょうというのが人情だ。
「見事な腕でした、勉強になります」
とりあえず先程までの事を褒めておけば良い。もちろん強引に持ち上げているのではなく、感想自体は心からのものだ。途中で駆け引きに持ち込んでから決着に至るまでの流れは日下には絶対に出来ない戦いぶりだった。しかし、荒木の返答はどこまでも素っ気ない。
「……最後の一撃、咄嗟に石化して死ぬのが少しでも遅れていれば分かりませんでした。未熟……」
顔面を貫かんばかりの勢いで殴られたら当然だが即死だ。だが石化し、硬化する事でその死を遅らせる事が出来ていたら、確かにまだ可能性は残されていたかもしれない。そう考えると、自らの能力を完全に無視していた事が男の敗因だったのだろう。能力を切り捨てた事が彼の強さの理由であったが、切り捨てたものもまた紛れもなく自分の力であると認識するまでに至らなかった男の未熟だ。
そして同時に、荒木も敵に勝ち筋を残した事、相手が未熟であるか否かの運の勝負に持ち込むしかなかった自分の未熟を恥じている。
「ですが、成長は完成と衰退への一歩。己の未熟を悔やむ時が最も若い瞬間です。このままで良い、このままで良い……」
変わらない事、それが荒木の思う正義だ。まだ若くモラトリアムの時期にある、前方に続く未来への道しか見えていないような年頃の日下には分からない感覚だった。だから呪文のように、文字通り呪いの文言のように呟く荒木には恐ろしさ、不気味さを感じざるを得ない。
話題を変えるべきだと思った。価値観の違いで衝突するような時期ではない。まだそんな事をするには互いを知らなさすぎる。
「あー……そうだ、でもアレですね。一番最初に一気に攻撃するチャンスがあったんじゃないですか?」
最初、荒木が姿を現した時の話だ。完全に男の隙を突いて逃げようとするところを足止めしてみせた。その時、男は接近にも気付いておらずもちろん能力についても知る由もないのだから、実はこの戦闘中で一番のチャンスはあの瞬間だったのだ。ここで男に触れて時間を止めてしまえば激闘を繰り広げる必要も無かったのは間違いない。そんな素朴な疑問をぶつけてみると、荒木は黙ったり口ごもったりとは異なる考え込むような間を空けてから口を開く。
「…………そうですね。では、次からは無抵抗な相手に不意打ちで能力を使って一方的に嬲り殺す事にします」
「いや、そういう風に言った訳ではないんですけど……」
「けれどそういう事ですよね? 戦わずに殺すべきだと」
極端な物言いだ。戦わずに勝つ事が出来たらその方が良いはずなのだが、勝つのではなく殺すなどと言われると何だか間違った事を言っているような気分になる。
「僕達はただの人間です。僕も、日下君も、そして彼も。誰も殺す事を考えて練習を積んではいません。殺す事を当たり前のように考えると、人間として大事な部分が擦り減りますよ」
「…………」
「結果的に相手が生きている事は重要ではありません、自分が殺そうと思って力を振るい、手応えを感じる事が重要です。その意識と感触を誤魔化すために戦うんですよ。過程に価値はありませんが、意味を見出す事。それを覚えてください」
何とも微妙に複雑な話だ。意味だの価値だのとそれらしい単語が一気に並べられると少し意味を捉えるのに苦労する。頭の中で言葉を噛み砕くため視線を落とすが、そうして考えている様子に気付いたのか、荒木は言葉を足す。
「世の中は結果が全てです。つまり、生きていくとその内に周囲は結果を出している人間だけか、もしくは結果を出せない人間で固まります。だからその中で頭半分でも突出するためには結果を出し続けながら、あるいは結果を出せないなりに価値の無い過程に意味を見出しこだわる必要がある。戦闘、人生、何であろうと無価値に意味が有ると感じるか否かで少しだけ変わります。どうか、それを覚えて大切に出来る大人になってください」
ここで日下は、荒木という人間について少しだけ理解が深まった気がした。彼は変化を望まない。何かが大きく変わる事もなく自分は緩やかに朽ちていきたい。淡々と働いて、相応に衰えて。それまで世界は良くなっても悪くなってもほしくない。それによって、そこそこプラスの状態を最後まで維持したいのだ。マイナスが大きければ人生は辛い、プラスが過剰に大きくなれば失う事が恐ろしい。今が彼にとってのベスト。
それでいながら、同時に彼は間違いなく世の中が良くなってほしいとも思っているのだ。子供達が出来るだけ幸せに強く育って、世の中が少しでも良くなってほしい。そう思っていなければ、わざわざ将来を見据えてこんな助言は与えない。
自分が死んだ後の遠い未来の話ではない。近い未来、世界が良い方向に変化してほしい。そして何も変わらないでいてほしい。そんな矛盾を抱えた人間なのだ。
日下が大人になる頃なんてきっとすっかり他人、それ未満の関係になっているだろう。今後の荒木の人生に影響を及ぼす事の無い、言ってしまえば無価値な存在。けれど、そこに意味を見出している。数えるのも嫌になるほど存在している人間の内のたった一人が少しでも良い方向に向かう事が何かを変えていく。そう考えているのが荒木だ。
「――よく分かりました。とても勉強になりました、ありがとうございます!」
だから、そんな相手に深々と頭を下げて最大級の感謝を示すのは当然の事だと思った。もちろん、特別に意識してそんな話をしたのではないのに急にそんな事をされた荒木の方は少し面食らった様子だったが。
「……いえ、僕は別に、何も。それよりも…………」
今度の間は考えているのではなくて口ごもった方だ。視線を横の、遠くの方へと投げる。もちろん何かが見えている訳ではない。見えるのはせいぜい壁くらいのもの。だが、そちらの方向からは明らかに複数の魔力の高まりと、妙に賑やかな音が聞こえてきている。
「戦闘を楽しみ過ぎるのも良くはありません」
「はは……そうですね」
呆れる様子の二人。
だが、決して楽しんで騒いでいるのではないという事だけは一応の名誉のために知っておいてほしい。向こうに居るのは宮村と梶谷、そして白河兄妹。彼らもまた厄介な相手と戦っているのだから。




