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真田 優介は立ち竦んでいた。眼前に立つのはこれと言った特徴の見当たらない実に普通の男だ。
特徴が無いと言っても、それは顔付きや体型の話。それ以外の面であれば僅かばかりの特徴は見られた。まず、僅かに肘を曲げながら前に伸ばされた左手の手首にはよく見覚えのある銀色の腕輪が存在しているという点。そしてもう一つ、半身で立って後ろに下げられたもう一方の右手には大ぶりなナイフが握られているという点。
(クソッ……何で動けないんだ……)
恐ろしい思いならこれまで何度も経験してきた。命を失うような経験だってある。それと比べてしまえば正直に言ってナイフなど今更の存在だ。何だったら真田が腕を振るってみせればナイフなどよりよほど簡単に、それでいて残酷に命を奪う事すら出来る。
それなのに、たかがナイフを前にして真田は動けないでいる。何で、と頭の中では考えているが、本当は頭の奥のそのまた片隅に答えがしっかりと既に存在していた。率直に、恐ろしいのだ。竹刀だの模造刀だのエアガンだの、訳が分からない魔法だの、そんなものよりも遥かに現実的で、圧倒的にイメージが浮かびやすいナイフと言う得物が実に恐ろしい。
少しばかり狂い始めた死生観の前では、もはや死よりも痛みの方が恐ろしい存在なのだ。中でも最も恐ろしいのが頭の中の痛み。想像の痛みだ。刺されりゃ痛い、そんなのは分かっている。だが、どれだけ痛いのかは実はよく分からない。痛みの種類は分かっているけど、程度がまるで分からない。頭の中ではどこまでも痛みは増幅されていく。その際限ない痛みの前に、足も手も動こうとしてくれない。
(動かないなら頭を回す。頭だけは無駄に回ってくれてる……)
延々と回り続けて痛みを思い浮かべる頭を強引に切り替えて別の方向に持っていく。分析をすれば恐怖は少しくらいなら薄れるかもしれない。
(上手い具合にナイフを左手で隠してる、構えてからは刃が見えない。出方が分からなくて不意打ちで刺されるかもしれないのがまず怖いんだ)
本当に怖いのは痛みだ。だが、それだけの単純で曖昧な言葉で済ませて良いのだろうか。ただ痛みではなく、もっと具体的に。細かく分解して、そして分析する。それによって恐怖を緩和させる事は可能かもしれない。幽霊の正体見たり枯れ尾花、形を見極めるのだ。
(次、戦いにくいのが怖い。戦うとすると不利になりそう、だから怖い)
チラリと、相手の足元に転がったリュックサックに目を向ける。アレが戦いを難しくしてしまう。それなりに広範囲で派手に暴れ回る、そして直接焼き殺すと言うよりかは炎で包み込んでじわじわと攻めるのが真田の基本的な戦闘スタイルだ。敵と距離も取れる、視界を遮る事も出来て、そこそこ頭を使う余地もある。近頃は接近戦を挑む事も増えてきたのだが、それは枝葉も良い所。真田の本質は炎を展開しての守備的攻勢、攻撃的守勢だ。
あのリュックサックが近くに転がっているだけで、真田はそれが出来なくなる。即ち、被害を可能な限り広げない接近戦。ナイフの間合いにこれでもかと侵入せねばならない。
(あの人のスタイルがよく分からないのも怖い、能力は使ってくるのか?)
眼前の敵の能力はとりあえず把握している。だがそれだけ。使っている様子を直に見たという訳でもないし、それを戦闘に活用してくるのかも分からない。そして男が戦う様子については何も知らない。未確認、情報屋の網にも引っ掛からなかったという下手すればこれまで一度も戦闘行為をした事が無い魔法使いだ。身体能力などまるで分かっていないし、手を伸ばせば届くような距離まで近付いた事もない上に構えるために腰を落としている事もあって身長すらろくに分からない。顔はそれなりに若く見えるが、二十代前半か、はたまた若く見える三十代半ばから後半か。それだけでも身体能力は大きく変わってくるだろう。
(まぁ、つまりは戦うにあたって作戦というものが全然無いってのもまた怖い所だなぁ)
情報が無ければ何も考える事は出来ない。周りには味方も居ない。そもそも戦うのかどうかだって確実ではなかったのだからもう本当にこの場は一人でアドリブ勝負だ。当然、真田の得意分野ではない。
「へへっ、どしたんスか、お坊ちゃん? ぜぇーんぜん、俺はこのままで良いんスよ? ゆっくり見つめ合って長い夜を過ごしましょうや」
男は構えを解かないまま、さりとて攻撃を仕掛ける事もなく笑っている。これもまた怖い所だと言えるだろう。何を考えているのか分からない。普通に考えて、彼は今すぐにでもこの場から去りたいはずなのだ。そうでなくてはおかしい。なのに、まるで焦った様子もなくジッと真田が攻撃してくるのを待っている。待ちが彼のスタイルなのかもしれないが、それにしても徹底しすぎではないだろうか。こんな状況で悠長に待ってなどいられない。なのに何故か真田に先手を譲り続ける。
まるで自分がどんな状況に陥っても構わないと言わんばかりだ。理解できない思考回路、もしかするとこれが一番恐ろしいのかもしれない。頭で考える事を優先しがちな真田からすればそう思える。
恐怖の輪郭が確実に見えてきた。つまり、訳の分からない相手が何をしでかすか分かったものじゃないのに行動を制限された自分が何をして良いのか分からないのが怖いのだ。分からない事だらけだ。未知は恐怖。
(という事はアレだ……ヤベェ奴と相対してるから怖いワケだ。何かこう表現すると凄い勢いでアホみたいに思えてきたな)
想像の中でどこまでも膨れ上がる痛みを恐れていたはずが、いつの間にか道端で危ない人に出くわした状況を恐れているという、怖いとかどうとか改めて言うまでもない当たり前みたいな話に変わってしまった。
そう思うと急に大真面目に怖がるのも馬鹿らしくなってくる。走って逃げて警察に通報しようか、不審者に対する対応としては正しいと言えるだろう。だが、この場はそういう訳にもいかないし、今の真田には走って逃げる他にも出来る事がある。
不思議だ。状況など何一つ変わってはいないのに、何故か少しだけ戦う事に前向きになっている。相手の恐ろしい部分は依然としてそのままであるのに、何故か真田の頭の中では小さな事になっている。
まったく、何事も考え方一つという訳だ。
(えらいもんで、覚悟は決まった。戦いますか)
腕に炎を纏わせ、そして深呼吸。意識の集中。右手の小指の先から、まるで炎が消えていくかのように収縮していって、その色を青く変容させる。
「では……勝負!」
動かなかった足に力が入る。地面を蹴って、走り出せる。
この二人に接点は無く、別に強い因縁があるのでもない。けれどただの遭遇戦という訳でもなく、戦いを止める事など出来やしない。
何とも微妙な関係性のこの戦い。そのきっかけは数日前に遡る。




