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日下 青葉は竹刀を振るっていた。
まだ日も昇っていない時間、電気も点けていない暗がりの中でさらに目を閉じて、完全なる闇に包まれている。しかしその目に何も見えていない訳ではない。竹刀を一度振るう度、それを客観視してその動作の正しさ、美しさを見ている。無論、反射した光を網膜が捉えているという事ではない。物理的に無理だ。だからあくまでイメージの話。イメージではあるが、それでも日下にはその姿が鮮明に見えていた。
自分の体の事はよく分かっている。自分の能力というものをこれほどまで正確に理解している者はそうそう居ないだろう。
(もう一歩……いや、二歩深く踏み込めたら……)
二歩分もリーチを伸ばす事が出来たらそれはもう目で見て分かるレベルだ。当然大きなアドバンテージとなる。こんな時、日下はまず試すという事を決してしない。ただの思い付きを試して体や普段の動きにおかしな影響が出たら堪ったものではない。まずは動きを止めて頭の中だ。
(一歩……二歩……は、厳しいか。一歩と半分、スタンスを広げて、振る。力が入らない……けど、力強さは腕輪がある程度はカバーしてくれるか。でもバランスが悪い。振り切った後で倒れないまでも完全に動きが止まる。体幹トレーニングを今より増やしても目に見えた成果が出るまでは遠い……)
体幹トレーニングは現在の量を維持。元よりトレーニングは積んでいる。とは言ってもちゃんと体が出来上がったと言えるようになったのはそう昔からの事ではない。体付きも小柄な方だ、無理をし過ぎないトレーニングをしようと思うと相応に軽めになる。まだまだ伸びる余地は残っている。
柔軟ストレッチは一回ごとの時間をもう少し伸ばす。柔軟性自体は高いつもりだが、目指すのはそこからさらに上だ。どんな時でも、どれだけ緊急時でも柔軟性を保つ。例えば寝込みを急襲されたならば動揺と寝起きでそれなりに体は固まるが、多少固まろうが物ともしないほどの柔軟性が欲しい。理想は柔軟性で金が稼げるレベル。
結論、リーチの延長は諦める。
しかし、諦めるで終わって良い話ではない。自分がスランプに陥っている事、何も出来ずに負けた事は確かだ。新しい何かを見付けなければならない。リーチを伸ばす事は出来ないが、疑似的にリーチを伸ばす事は不可能だろうか。
(前に出る……危険すぎるか? 安全な立ち位置から戦えるのが最大のメリット、それを数歩でも譲るのはリスクが大きい)
足で一歩踏み込む事と体そのものを前に出す事は危険性が段違い。一秒に満たない差であっても相手がそれだけ早く接近できるのは恐ろしい事だ。
結論、何も変えられない。
「こんな時間に稽古とは、精が出る……とは言ってやれんぞ」
嗄れた低い声が背後から聞こえてきて思考を止める。同時に先程まで自分の姿が見えていた視界も真っ暗に戻り、目を開いても何も変わらず真っ暗なまま。
声の主が誰かなんて考えるまでもなかった。その声は自らの魂に深く刻み込まれた声だ。
日下一刀流剣術道場の師範、彼にとっては厳しく恐ろしい個人的な師。
「若くても体は休めてやらにゃいかん。なぁ――青葉ちゃん」
そして、稽古の時以外は孫煩悩なお祖父ちゃん、日下 幹吉郎である。
「青葉ちゃんが悩んでいたのは分かっとった。多分、剣の事でな。そんで今、どうも完全に煮詰まったみたいだったんでな」
道場の床に胡坐をかいて祖父は笑った。それに対して日下は何とも言えずに頭を掻くばかり。厳しく指導されてきた事や家族関係が極めて良好であったため日下は反抗的な態度をとる事はない。しかし、思春期の少年である事は間違いない。自分の悩みが筒抜けだったと分かると気恥しいようなシンプルに嫌なような、リアクションに困る精神状態だった。それでも、誰よりも頼れる相談相手である事は確かだろう。
「僕は……弱い。まだまだ全然。けど、僕の事を強いと思ってる人が沢山いる。それが凄く何か……悔しい。僕よりよほど強い人が僕の事を強いって言ってきて、馬鹿にされてるような、そんな気分。俺は弱くて……もっと強くなりたくてもなれなくて……俺は……っ」
家族に対して被っていた猫も剥がれ落ちるほど、喋りながら感情が零れ出した。自分ではもう少し冷静に話せるようなつもりだったのだが、声に出してみるとこれほどまでに悩んでいたという自分自身の深層心理に驚かされる。
ただそんな告白を聞いた祖父はと言うと、今度はこちらの方が困ったように頬を掻くのだった。
「伸び悩むのは伸び切っているからだと思うがなぁ……」
日下は現在の年齢で考えれば成長度合いは天井まで達していると言って良い。だからこれ以上の成長を望むのはあまりに困難な話なのだ。極めて客観的に話を聞く事が出来る祖父にはそれがよく分かっている。だから困る。
少し前までの日下はこうして今の自分の限界まで鍛え上げれば納得していた。もちろん限界まで鍛える事は難しい、世間一般から見ればオーバーワークだっただろうが、毎日少しずつ多くの努力を積み重ねる事は決して無理ではなかった。これ以上の成長が望めないほどに強くなる、ゴールを目指す事は充実していた。
しかし、今はそのゴールの先を目指そうとしている。限界程度では納得が出来ない。もっともっと強くなりたい。その理由が幹吉郎には分からない。ただ、単純により大きな力を求めているという訳ではない事は何となく分かる。故に、簡単に言葉で納得させる訳にはいかない。だから困る。
日下も声を発さなくなったために静まり返った道場で、そう短くもない時間を祖父は思案に費やした。そして、膝を叩いて乾いた音をたてながら口を開く。
「――よし、青葉ちゃんにある事を教えよう」
「ある事……?」
「おお、そうだ。きっと青葉ちゃんを今よりも一つ強くしてくれる……上手くいけば、な」
目を丸くしながら日下は慌てて居住まいを正す。確かに祖父は考え込んでいたようだが、これほど悩んでいた事を解決するにはそれはあまりに短すぎる時間だった。そんなに簡単に悩みをどうにかしてしまうような、一体どんな事を教えようというのか。期待するような、少し不安になるような気持ちでいたところ、祖父はニヤリと笑ってからとんでもない事を言い出すのであった。
「今から青葉ちゃんに、日下一刀流の最後の奥義を教える」




