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距離を取った日下は手にしていた竹刀を、納刀するように腰に構えた。その狙いはあまりに明白。日下一刀流における唯一にして、そして唯二つの抜刀術だ。
抜刀《椿落とし》は抜き放つ際の手首の角度で姿を変える。手首を外側に曲げた状態がいわゆる正調の形、低い位置から浮上するような軌道で相手の首を狙う《椿落とし》となる。そして、逆に手首を内側に曲げるとさらに沈み込んで相手の足を刈り取る、これが《椿倒し》である。
この技はまるで正反対の軌道を描くため、もちろん奇襲としても使える。しかし、この技を知っている相手に対しては奇襲効果は激減する。まあ、それなりに歴史はある流派だ。人間を相手にこの技術を使った時にその相手と再び立ち合う事は考慮されていない。技を見せるのは最大でも二度まで。どちらか一方を見せて、それで仕留められなければもう一方を奇襲に用いる。首を落とせばそれで終わり、足を断てば追撃で終わり。ネタが完全に割れた後の三度目は絶対に訪れない。
とはいえ、三度目以降がまったくの無力という訳では決してない。相手に知られているからこそ、敢えて構えを見せる事で相手に選択を迫る。
(さて……どっちにしようかな)
落ち着きを取り戻した日下は良い意味で力が抜けていた。別に自分の中で何かが解決したという事ではないのだが、興奮状態から一気に頭が冷えた事で一時的にスランプから解放されたのだ。この最後の一撃、日下は最大のパフォーマンスを発揮できる。
選択肢は二つに一つ。上か、下か。文字通りのハイアンドローだ。
ただ刀を抜くだけならばそれは抜刀という行為に過ぎない。刀を抜くだけではなく、刀を抜かせるという意識が抜刀の技術へと昇華させる。即ち、鞘を操る事が必要なのだ。だから今、日下がやろうとしている事は正確には抜刀術などと呼べるような代物ではない。鞘など持っていないので鞘引きなどというような概念は存在していないし、手にしている得物も竹刀だ。反りなどありはしない。しかしそれでも、日下には関係がない。日下 青葉には、そういった必要不可欠な技術すら必要とせずに済むだけの力と速さを持っている。
二者択一、相手の思考の裏を突こうとすれば相手もまた自分の裏を突こうとするだろう。それを予測してその裏を突く、そんな事も相手は考えるかもしれない。まぁつまり、考えるだけ無駄だ。確率五割、何も気負わず振り抜くだけ。
刀の軌道を考えた時、低い位置から沈み込むと相当に上手く操らなければ地面を削って腕まで負傷するばかり。何も考えず気分良く振り切れる方がやはり好ましい。
(日下一刀流……)
口には出さず頭の中だけで放たんとする技の名を発する。周囲に響き渡るのは地面を蹴る音ばかり。
そして、日下は竹刀を上方へ向けて振り、真田は地面を蹴って跳躍する。
一つ、ハッキリとさせておかなければならない事がある。日下は抜刀術などというものを体得などしていない。それどころか、一秒たりとも学んだ事すらない。日下がこれまでの人生で向き合い学んできたのは剣道だけだ。日下一刀流の剣すら学んだ事はないのだ。その目で見て、耳で聞いたものを極めて高いレベルで真似して再現しているだけに過ぎない。
だから日下には抜刀術について一切の基礎やノウハウを持ち合わせていない。それがどういう事か分かるだろうか。
日下は《椿落とし》と《椿倒し》という二つの剣しか使う事が出来ない。納刀した段階でそれ以外の剣は選択肢に無い。思い付きすら出来ないのである。
上か、下か。本当にそれだけの選択肢しか持ち合わせていない。
そして、日下は竹刀を上方へ向けて振り、真田は上体を倒して身を屈める。
パターンは四つ。剣は上へ向かい、真田が屈んでそれを回避する。あるいは跳躍してその身を断たれる。
剣は下に向かい、真田は屈んでその身を断たれる。あるいは跳躍してそれを回避する。
この四つだけだ。それぞれの確率は二割五分、当たるか外れるかで言えばちょうど五割。少なくとも、日下の頭の中ではそうだった。四つのはずだった。五割のはずだったのだ。
けれど真田は違った。彼の頭の中には選択肢があった。五割の天秤を傾けるもう一つの選択肢。彼は跳んだ、そして屈んだ。その姿はまるでフィギュアスケートのバタフライ。見様見真似の美しい跳躍が、見様見真似の抜刀のその中央を突破する。真っ当に技術を習得していれば最も有力な選択肢となったであろう中央をだ。
(馬鹿な……どっちにするか、なんて考えてもなかったのか!?)
日下の動きが止まる。止まると言うほどでもないかもしれないが、その連続性が途切れた。本来ならばここで刀を振り抜いたその手首を返し、左手を追い付けて《樫打ち》の動作に繋げるべきだ。この連続行動は選択を迫った二択で敗れた時の保険の効果がある。ガラ空きの中央を斬り裂く一撃である。今回のような敗れ方は想定していないが、それでも迷わず動けていたならば着地した真田の胴を真っ二つにしていただろう。だが、思考は止まる。見様見真似でしかなく、意味を理解していないからだ。正しく理解して、そして信じていたならば、仮に動揺していても体は反射的に動く。
我に返った時にはもう遅い。真田は既に体勢を立て直して射程の内側へと侵入している。ここで出来る事があるとすれば、それは能力を乗せる事こそ出来ないが突進する相手の迎撃に適した連続突き、《松囃子》だろう。しかし行動終了時に横に腕を伸ばし切っている《椿落とし》から突きのために体の正面に刀を引き戻さなければならない《松囃子》では連携の相性が最悪だ。この僅かな隙は、再び死を思い出させるには些か長すぎる。
周囲がフッと暗くなった。燃え盛っていた真田の両手から炎が消えたのだ。いや、消えてはいない。その姿を変えた。暗い夜の闇の中、日下の命を焼き尽くす青い軌跡が描かれる――。
「…………?」
熱は感じなかった。痛みもない。狂ったように早鐘を打つ心臓のせいで胸は痛むが、それが自分の生をこれ以上ないほどに実感させる。
いつの間にか固く閉じていた瞼をゆっくりと開く。眼前には真田の右手が伸びてはいるが触れてはいない。青い炎も完全に消えていた。その手は完全に無力そのもの。せいぜい指までピンと伸びた状態で目の前にあるせいか眉間の辺りがムズムズするくらいの害しか与えられていない。
続いてその奥にあった顔に焦点が合った。真田は笑ったような困ったような、何とも表現に苦しむ微妙な表情を浮かべながら日下を見て、そして口を開く。
「えっとぉ……寸止め、には遠いのかな……」
その瞬間から、日下の鼓動がその速度を落とし始めた事がハッキリと分かった。寸止め、そう、日下が自分で言った事だ。途中までは頭の片隅の方で寸止めをしないといけない事を忘れているなと思っている他人事で冷静なもう一人の自分が居たような気もするのだが、それすらもいつしか消え去っていた。生きるか死ぬか、殺すか殺されるか。究極的にはそれしか頭になかった。
「……いえ、問題ないかと。ごめんなさい、なんか俺、驚いちゃって……凄いですね、真田先輩。どうやったらあんな風に戦えるんですか?」
すると真田は変わらず少し困ったような顔のままこう返す。
「うぅん、日下君は強いからなぁ……」
そこから先の記憶は曖昧だった。何となく形式ばった挨拶をして別れたような気がする程度だ。
ただひたすらに再び早まった鼓動の音が、眼前に迫った死の恐怖が、敗北の味が、その上で自らを強いと讃える言葉に対する屈辱が頭の中をずっとずっと満たし続けていた。