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真田 優介は外出していた。時刻は午後十一時。
何故か。着替えた後に少々時間を潰してから夕食を終え、それから風呂に入ったのだが、腕輪を外し忘れていた事に気付いた。そのまま気にしていないフリをして洗って上がったものの何故外し忘れてしまったのかと若干の後悔を胸に抱きながらベッドに寝転び携帯型ゲームで遊んでいた時の事だった。
朝一番に野菜ジュースを飲む、それが真田の日課となっている。それによって何となく体に良い事をしているように錯覚できるからだ。しかし、その野菜ジュースが今朝飲んだ分でなくなってしまっていた事を思い出した。
このままでは明日の朝に飲むジュースが無い。飲まないのでは体にも心にもスイッチが入らない。スイッチが入らなければ、正直に言うと学校に行く気すらなくなる。そのため、少し離れた場所にあるコンビニへとわざわざ夜中に足を運んでいた。
季節は春。こんな時間では決して暖かいとは言えないが、今日は気候が良いのだろう、寒い訳でもない。寝間着である黒いTシャツの上から白い半袖のシャツを羽織る。すると右手首に着けた腕輪が見えて悪い気分ではない。
家を出て、学校へ向かう道とは反対方向へゆっくり歩いて二十分後。真田は野菜ジュースの入ったコンビニ袋を片手に店を出ていた。コンビニのイメージカラーである青い看板が少し眩しい。こんな時間に出歩いているという事実が、彼の気持ちを少しだけ高揚させていた。慣れない物を着けた右手に違和感はあるが、それも当然で仕方のない事だと無視する。
そうして歩いていると自然に鼻歌がこぼれてきた。テレビから聴こえてきた流行の歌謡曲だ。その曲やアーティストを好んでいたりCDを買う事などはないが、何度も聴こえてきたためにCMで使われていたサビの一部分だけが妙に耳に残っている。
暗い道の左側をのんびりとした歩調で進む。鼻歌の間から一定のリズムで自分の足音が聞こえた。
鼻歌、足音、鼻歌、足音、鼻歌、足音、足音、鼻歌、足音、足音、足音。
いつしか、足音が増えている事に真田も気付く事ができる。聞こえてくるのは右後方。普通に歩いているならまだしも、明らかに歩くタイミングを合わせていながら時々気が急いたのか多く聞こえる足音は、自分の後を追っていると判断するのに充分であると感じた。
もちろんこれは被害妄想だったかもしれない。しかし、夜の一人歩きだ。警戒するのは当然だと言えるだろう。
歩調を速める。真田には背後を振り返って確かめてみるような勇気は無い。振り返って恐ろしい現実を目の当たりにすると、それだけで心が負けてしまいそうだった。すると例の足音もペースが上がる。確実に狙ってきている。ドラマか何かで見た事があるような光景だと思ったが、大抵の場合が自分の役は女性がやっているし、ほぼ間違いなくろくでもない目に合うなどとどうでも良い事が頭をよぎった。追い込まれている時の精神状況など逆にこんなものだ。
明らかに不自然なほどオーバーペースで歩き続けていたが、それでも相手は適当に距離を開けて追いかけている。恐怖で訳が分からなくなっているのか、速く歩いている事での疲労は少しも感じていない。
そうして往路よりも遥かに短い時間で復路を終えるという時に、一つの問題が浮上した。この状態のまま家に入っても良いだろうか。そうする事はつまり、素性も目的も知らない謎の相手に自らの家を知らせる事となるのだ。成績は悪いが決して悪いのではない頭を必死に回転させ、彼が得た答えは一つだった。
「――っ!」
歩く姿勢から腿を高く上げ、全力疾走で家の前を通り過ぎる。こうなったら相手を撒くしかない、そう考えて走り始めた。右手に持ったコンビニ袋が邪魔だ。しかしそれを捨てる訳にもいかない。これが火事場の馬鹿力というものなのだろうか、普段走っている時よりもずっと流れる景色は速かった。
授業の短距離走でこのスピードが出せれば良いのに、いや、それでは変に目立ってしまうかもしれない。少し気の抜けた思考はやはり、恐怖と緊張感の裏返しだ。何故ならもう隠す気も無いのかハッキリと聞こえている。走って彼を追う、その激しい足音が。
もう何メートル、何十メートル何百メートルにもなるだろうか。全力で走り続けているのに疲労の度合いが少ない。これなら短距離走だけではない、長距離走でもとんでもない記録を出せるだろうなどと考えながら、それでも足は休めない。
自分がどこに向かっているのか、道などは気にしていなかった。そのような事を考えている余裕など無い。学校の反対側にあるコンビニに行き、帰り道で自宅を通り過ぎた。つまり何となく覚えているまま足が向くまま走っていた彼が辿り着く場所は一つに決まっている。
「が、学校……!」
私立景山高等学校。昨日まで通り、そして今日も夜が明ければ通る事となるはずの校門が姿を現す。そして彼の頭にはこの状況を脱する事が可能となるかもしれない案が一つ浮かんでいた。
「警備員さん……!」
この学校には警備員がいる。どうやら深夜にも交代で詰めているらしいと小耳に挟んだ事もある。つまりこの場所には少なくとも一人、この学校の生徒である自分の味方が存在している。自分以外の別の人間が増える事で相手も逃げるのではないだろうかと考えた彼の行動は迅速だった。
適当に距離を取って追いかけられていた事を幸いと、既に閉められている校門に手と足を掛けて乗り越えようとする。この距離があればまだ追いつかれないだろうという心の余裕もあってか軽々と乗り越え、再び今度は学校の敷地内を走り出す。
背後から聞こえてくる校門のガタガタというけたたましい音に焦らせられながら駆ける足は見回りをしているだろう警備員を探すため忙しなく動く。あるいは既にこの賑やかな鬼ごっこの音を聞き付けてこちらに向かって来ているかもしれない。もちろんだが、それを待って足を止める事など出来ない。
走る、走る、走る。手にしていた袋は校門の前に置いてきた。捨てる訳にはいかないなどと言っていられる状況ではないと完全に理解したためだ。
走る、走る、まだ走る。疲労を感じる事も無く、既に敷地内を一回りしただろう。それでも警備員の影も形も見付からない。校舎の中に明かりも無い。この場所には自分達二人以外には誰もいないのではないかと思わされる。
人間とは少し成長しただけのただの動物に過ぎない。動物は人間には理解しがたい第六感のようなもので危機を察知して身を隠す。その本能が人間にもしっかりと備わっているのだろう。そんなただの動物である警備員がどこにもいないのは、あるいはそういう事なのかもしれない。天変地異の前触れとばかりに誰もいない。つまりそれは、この場所に危機が迫っていると言う事か。
そして先程から真田が気付いていない事にしたかった事実。背後の人物との距離が確実に縮まっている。これまでは見失わない程度に距離が離れていた。しかし、とうとう何らかの行動に移ろうとしているのだろう。相手がペースを上げている。逃げられない。この距離では校内を一周回ってまた校門を乗り越えようとしても途中で捕まるだろう。
この状況下でどうにか逃げるために真田がとった行動は、グラウンドに向かう事だった。
鬼ごっこを続けていてはジリ貧だ。ならば一度立ち止まる。立ち止まって振り返れば相手も適当な距離で足を止めるだろう。振り返るのは怖いが、その一瞬の恐怖を乗り越える事によって追い立てられる恐怖から逃れられるならば、思い切る事ができそうだ。そこから先はその場で考える。グラウンドは校門から近く、スペースも広い。何とかすれば相手の脇を抜けて脱する事が可能かもしれない――。