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「くっ……」
苦々しい表情を作って日下は竹刀を投げ捨てる。実に素早い判断だ。もちろん、腕力の観点から言えば少しばかり竹刀の先端が重くなったところで問題は無い。常人でも振るえる程度だ、魔法使いと化した状態ならば細い木の枝を振るように容易い。これが、それこそその辺に落ちていたしっかりとした木の棒だったら。あるいは日下が一切の心得を持たない素人だったならば何も気にする事なく戦闘を続行できた事だろう。しかし、日下は竹刀を十年以上も振り続けていた経験がある。その経験は強固なイメージとして頭に、体に深くまで刻み込まれて、もはや忘れる事は出来ないだろう。
するとどうなるか。今の日下はあの凍り付いた竹刀では本来の力の半分ほども発揮する事は出来ないだろう。具体的に言えば、切れ味が鈍ったように感じられるはずだ。斬り付ける事は叶わず、宮村の風弾のように衝撃を与えるだけの攻撃。イメージというのも馬鹿にならない、本来ならば強力無比なはずの能力を一気に弱体化させてしまうのだから。
竹刀は彼にとって大切な得物だ。それでも今この瞬間は使い物にならないと捨てたのは、聡い彼なりの好判断、見事な割り切りだと言える。
「損失しか生まないと判断すれば何であろうと切り捨てる、自分の思い入れにも関係なく。それが出来るのは優秀な証拠だ」
言いながら、梶谷は背後に大きく飛び退って距離を取る。視界の中央には接近戦から体勢を立て直す宮村が居て、端の方には手を手刀の形に変えて構える日下の姿がしっかりと存在している。
「優秀、だが……二流だ。本物は、捨てない」
梶谷は手首のスマートウォッチを口元に近付けて小さく何事かを呟く。その姿を見た宮村と日下は一瞬だけ色めき立ってから、とにかく攻撃をしようと腕を動かし始めた。何をしているのかはまるで分らないが、とりあえず妨害しておくに越した事はない。そんな考えが透けて見えるようだった。同時に、梶谷の目にはその動きがゆっくりと実によく見えていた。
自らの思い入れにこだわり過ぎるのは三流だ。その先の目的地への最短距離だからと底なし沼に車で入り込んでアクセルを踏み込み続けるようなもの。前にも進めずひたすら掘り進むかのように沈んでいくばかり。
それに対していざという時には思い入れすら捨てられる者はよほど優秀だ。例えを再利用するならば、車の前輪だけが踏み入れかかった段階でバックしてまるで別のルートを行こうとする。だが、梶谷に言わせてみればそれは優秀であっても二流。
彼の思う所の一流、本物は思い入れは捨てない。何故なら自分の感覚に自信が無ければ一流と呼べるような存在にはなれないから。三流との違いがどこにあるのかというと、捨てはしないけど形には固執しないという点だ。言うなれば、外周部を回って沼の向こう側に行こうとするようなもの。プランが思い通りには進まなかったかもしれない、それならばいつか思ったような成果を上げられると信じながら、差し当たってこの場は別の方法で活かすのだ。
「っ!」
視界が黒に染まった。梶谷だけではない。この場に居る、この建物の内部に居る全員の視界がきっとそうだったろう。この建物の全体が、夜の闇に溶け込んでしまった。そう、有り体に言えば、全館一斉停電だ。
「な、なになになになに!?」
「ぅぐ……」
「落ち着いて! 身を守って!」
「クソッ、何が起きやがった!」
突然の暗闇に驚いたマリアの声をきっかけとして混乱が一気に広がる。騒ぎ始めた者達の中でどれだけが気付いただろう、密やかに床を蹴った微かな音と、その直後に発せられた呻き声に。いや、気付けなかったとしても何かが起こった事にはすぐに気付く事となる。騒いでいても聞こえるような大きさの鈍い音が響いた。何らかの重い物体が壁か何かに衝突したような、そんな音。不意に聞こえてきた音の方に反射的に顔を向けるのは当たり前だろう。
偶然、その瞬間に同時に乾いた高い音も響いた。強力な光もまったく同じタイミングで発生する。これは篁が両の手を強く打ち鳴らした証拠だ。能力の発動。視界は黒から白へと急激に反転して、また黒に戻る。そんな一瞬の光が、まるでカメラで切り取ったかのように、白い世界の中の風景を脳に焼き付けた。
いつの間にか移動していた梶谷と、壁に叩き付けられて倒れる日下の姿。その様はそう、日下がやられてしまったかのようで……
「野郎!」
宮村が叫ぶとまたもや壁に何かがぶつかったような音。ただ先程とは音の質が違う。そこから恐らく放たれた風弾が壁に当たったものだと推測できる。
「落ち着いて! 明るくする!」
拍手をするような音が聞こえ始めて、それに合わせるように光が何度も瞬いた。篁は発光を続ける事は出来ない、あくまで強さに応じて一瞬だけ光を発生させるだけだ。だから、部屋の中を照らそうとするにはこのような方法を取るしかない。力を調節しながら何度も叩くのだ。
だからか、宮村の目はストップモーションのように接近してくる梶谷の姿が見えていた。その顔には真っ黒なサングラス。それだけでよく分かる、この停電は梶谷が意図的に引き起こしている。だからきっと暗い中でも日下を狙えるようしっかりと位置を把握していたのだろう。篁が対応してくる事も当然のように読んでいる。突然の暗闇と突然の発光に少しだけ頭も眩んでいる宮村とは心持ちの余裕に天と地ほどの差がある。
「こっち来んなバカ!」
勢い任せのテレフォンパンチ。無意識状態でもきちんと仕込んだフォームでパンチを打てるようになっているが、この状況下でもそれを行なうには更なる特訓で体に染み込ませる必要となるだろう。眠っていても出来るほどに。
もう梶谷は自分の姿が見えている事は分かっている。だから警戒心を強めていたところに工夫も何も無いパンチを放たれたので軽々と避けてみせる。梶谷の背後で壁が揺れた。伸び切った宮村の右手、それを梶谷は見逃さない。
左の手首の先がまるで消えてしまったかのように素早く動いて水滴を宮村の拳に命中させる。それから間もなく、右手もまた動いていた。水滴が付着して、能力を発動させて、右手が凍てついた宮村の拳を粉砕する。費やした時間は一秒にも満たない。
「ぐぅああああああああ!」
痛みはさほどではない。だが、視覚などのショックは計り知れない。彼はまだこのような負傷を経験した事が無かった。五体満足に生まれたのならばあまり自らの体が欠損している光景を見る事などは無いだろう。梶谷の能力はこの精神的ダメージを容易に与える事が出来る恐ろしいものだ。
悲鳴を発しながら先を失った手首を抱きかかえるようにすると、周囲に散らばった氷の欠片、即ち宮村の手の欠片が消滅して、輝きと共に宮村の拳が復活を果たした。
その時、蛍光灯が再び点灯する。こうなっては本格的に旨味は少ないと、梶谷は後退を選ぶ。チラリと視線を天井に投げかけて、小さく一度舌打ち。
(消えない、か……復旧後に再起動する物を選んだつもりだったが。真田君か、やってくれる)
停電を引き起こした方法はシンプル。音声による遠隔操作で他の部屋に設置した電化製品を起動させ、ブレーカーを落としたのだ。そもそもあまり大きい契約をしていなかった事もあるが、ほぼほぼ無用の長物となった監視カメラの力でもある。単体ではあまり消費電力が大きい訳ではないカメラだが、この建物の内部にはそれはもう馬鹿みたいに大量に設置されている。塵も積もれば何とやらだ。全館に暖房を入れて、ついでに消費電力の大きい古い冷蔵庫なんかも仕入れてみた。カメラを停止させられた時は少しだけ焦ったものだが、計算してみた結果もう少し余裕があって安心したものだ。
暗闇になれば戦闘のフィールドはここしばらくずっと居座っていた部屋、その中は目を閉じても配置が頭の中に正確に浮かんでくる。真田が炎で照らせばむしろ照らされたその範囲の外から奇襲を仕掛ける事が出来るし、篁が照らすなら彼女の動きをほぼ封じる事が出来たはずであった。もっとも、現実には真田はこの場にいない訳だが。
壁が破壊されてすぐに、停電後は真っ先に日下を狙うと決めた。ちょろちょろと邪魔な雑魚は早く排除してしまいたかった。だが、手に馴染んだ得物を持たせておくと気配やら何やらで反射的にカウンターを喰らいそうだったので得物を排除するための行動を起こした。
これが、ここまでの梶谷の大まかな思考と行動である。まさか真田が戦闘に参加しないとは思わなかった、それが誤算だ。彼は停電を察知するや否や、すぐにブレーカーの異常を考えただろう。そして、炎で照らしながら電気を復旧させた。手ぶらで広範囲を照らせるあたり、携帯電話のライトよりも高性能かもしれない。誰かが復旧させるかもしれないと予想はしていたが、その誰かが咄嗟に光源を用意できる上に、原理に気付いて恐らくは冷蔵庫あたりのコードを抜いてから復旧させる頭があるとは思わなかったのである。同じ条件ならば篁にも当てはまるが、彼女の用意できる光は前述の通り不器用で、身体能力でも真田には少し及ばないだろう。偶然、彼らは最速の選択肢を選ぶ事に成功していたのだ。
一瞬、マリアの姿が見えたような気がして、そしてすぐに消えた。それは床に座り込んでいた日下も同時に。どうやら運び去ったらしい。
日下を殺すには及ばなかったが、意識を失わせる事は出来た。どこにどのような衝撃を受けて気絶したのかは分からない以上、強引に叩き起こすような真似は出来ないだろう。つまり、彼と戦うような事はもう無い。意識を取り戻すより前に戦闘が終わっているか、もしくは戦線復帰するような事があればその時にはもう梶谷の方の気力体力が限界を迎えて降参するしかなくなっているだろう。
だからもう彼の事など考える必要が無い。それよりも何よりも優先的に考えなければならない存在が居る。マリアに運ばれてやって来たのだろう、その人物は梶谷のすぐ近くに瞬間移動するかのように現れた。
(来たか……っ!)
謎の魔法使い、荒木 知之、参戦。
「っしゃあ!」
これまで接してきた中では想像も出来ないような強い掛け声と共に、彼は前置きも無くハイキックを放つ。速く、鋭い。まずは状況を整えるべきだと判断し、体勢を低くして回避してから大きく後ろに――
「喰らえ!」
下がる事は出来ない! 宮村がそこを狙うようにして風弾を撃っている! 下がろうとする体に強引にブレーキを掛けて踏み止まらせる。下がれない、どうする。目の前では既に荒木が次なる攻撃を仕掛けようとしている。けれどそれでも、やはり距離を取る事は出来ない。宮村が、彼の攻撃が退路を塞ぐ。
(どうする……どうする! 甘んじて受けろ!)
右手を挙げてガードを固める。視界の中央では、荒木が深く腰を落としていた……。