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敵影は二つ。立ち塞がる宮村と、その後ろで構える日下である。真田は一連の戦闘に紛れてその姿を消している。確実に存在しているはずのマリアは姿を隠し、恐らくは指揮をしているであろう篁も居ない。二人は一緒に居るという予想はきっと外れてはいないだろう。そしてもう一人、荒木も顔を見せない。能力の行使に接触を必要とするのならば近接戦闘は必須だ。それならば、後に控えているのかあるいは戦う意思は持っていないのか。当然、梶谷は前者として考える。
付き合いがあるとは言え、篁の戦闘指揮のスタンスまでは分からない。荒木の能力は正確に分からないままで、マリアは神出鬼没で、真田はどこに居るのか分からなくて。不確定な要素があまりにも多過ぎる。
(いいや、気にし過ぎるな! 考えてどうしようもない事は切り捨てる覚悟を持て!)
例えどのような状況であったとしても、戦う相手はあくまで目の前の存在だけ。誰がどのような指揮をしようと、遠くから何かをしようと、どこかで様子を窺っていようと何も気にする必要は無い。目に見えるものが全てではないが、だからと言って目に見えないものだけを見ようとして目の前の存在に対する意識が疎かになるなど愚の骨頂。
(相手は二人、優先すべきは……当然こっちだ!)
迷わず宮村と正対するように体を向ける。視界の端には日下の姿も確実に入れておく。比重はこれくらいで良い、これがベスト。梶谷にとって少なくとも今の日下はこの程度の注意を払えば充分というほどの価値しか存在していないのである。日下はちょっと見えていれば充分で、宮村は真っ直ぐに相手しても厄介な相手、それが梶谷の評価。
(この場は突き進む!)
梶谷、決死の前進。遠距離の戦いとなると宮村の方に圧倒的に分があり、宮村との接近を果たせば日下は攻撃する事が難しくなる。
「来やがったな!」
ジリジリと後退しながら宮村は真っ直ぐに風弾を飛ばして迎撃を試みる。向かって来る相手に対して変化を付けた攻撃を仕掛けるのは得策ではない。ここは当てやすく、かつ当たればその威力も増してくれるストレート一本勝負あるのみ。
しかし梶谷は怯まない。ストレートだけならばそれはもはや見えているも同然の攻撃。無意味、無価値。攻撃をしなければならない上に後方のスペースの残りを気にする必要がある宮村の後退スピードと何も気にする事の無い梶谷の前進スピードの差は歴然。距離を詰めるまでに放つ事ができたのは三発。その内の二発は動作の中で自然と避けられそうだったので回避、残る一発は胴体に当たりそうだったので、ポケットから出したハンカチを丸めて凍らせ、思い切り投げ付ける。万全の状態で放たれたものに比べれば威力が低下している風弾に対し、渾身の力で投げ込んだハンカチは相手方を消滅させるほどではないがその威力を大いに減退させる効果を発揮した。ブチ当たっても多少は痛いなりに動揺を一切見せずに済む程度には。
「っ!」
二人が最接近を果たす、そのポイントを狙い澄ました日下の一刀が力任せに振り下ろされる。出来る限り気配を殺そうとしたのだろう、気合の吐息が口から微かに漏れるだけで声も発していない。しかし、その姿を見逃してはいない梶谷にとってはただの浅知恵。バランスを取るように腕を振り回しながら回避。その流れの中で、一瞬だけ視線を別の方向に向けた。
この状況では相手は梶谷と距離を離したいと考えるだろう。そのために使える最も有効な手はマリアの能力だ。ただ、梶谷の体を引っ張って動かそうとするとどうしても移動を止めなければならないと考えれば、背後からでは前に押し出す事しかできない。後ろに押そうにも宮村が邪魔だ。ならば横からのタックル、それが唯一残された手である。なので視線によってそれを牽制した。篁ならここで無理はさせないだろうと確信している。
始まるショートレンジの格闘戦。とは言え見栄えは少々地味なものだ。宮村はその距離の近さ故に能力を使う事が出来ず、梶谷の方は能力の使用に大きな動作を必要としない。むしろ最小限の動作で放てた方が良い。自然、フックを回避しながら水滴を放つ梶谷、それを避けながらやはりフックやショートアッパーを打つ宮村というやり取りが何度となく繰り返され、その様はちょっとしたドッグファイトのよう。
梶谷は若者に比べてどうしても体力と反応速度で劣ってしまうが、ここまで死の気配に近付いた状態で戦い始めると神経が昂って疲れも知らなければ体が思い通りに動いて仕方がない。
「フッ……しゃあっ!」
唸りを上げるような切れ味鋭い左のフック、それをダッキングで潜って避けた梶谷であったが、そこを目掛けて右の拳が真っ直ぐに振り下ろされる。威力を生み出す距離は充分、喰らえば悶絶必至。
「なんの……っ」
沈み込んだ体は攻撃を見切っても回避するための動き出しが遅れてしまう。そのため強引に体を倒す事でどうにかこうにか回避してから腕を振り回して必死にバランスを立て直す。そしてそのまま、状況も立て直すように少しだけ下がって宮村との間に距離を置く。
「貰っ……た!」
瞬間、そんな声を発したのは日下であった。梶谷と宮村の距離が近すぎるあまりに迂闊に攻撃ができず待機する羽目になっていた間、ずっと力を貯め込んで竹刀を大上段に構えていたのだ。それを距離が生まれた今、ようやく振り下ろそうとする。そう、ずっと日下は構えていた。それをずっと梶谷は知っていた。ずっとずっとずっと、視界の端に入れ続けていたのだから。
「あ、れ……」
そんな声が聞こえたきり、竹刀が振り下ろされる事は無かった。それどころか、竹刀は完全にバランスを崩して頭の後ろへ行ってしまっている。
梶谷の能力の対象は水滴が最初に触れた物。それは変わる事はないが、その範囲を変える事は出来る。例えば水滴が相手の指に触れたとする。その場合、能力を発動させる時の梶谷のイメージ次第で肘の辺りまで凍らせる事も出来れば、触れた指先だけを凍らせる事も可能なのだ。範囲を広げたところで氷の強度などが低くなる事はない。だから基本的には範囲を狭くする事のメリットは無い。
ただ、数少ないメリットの生まれる状況が今だ。梶谷がここまでにどれだけの水滴を放っただろう。宮村と戦いながら、その全てを回避されたが、その内のどれだけが宮村を狙ったものだったか。攻撃の目的以外で腕を振った時、どれだけの水滴を天井スレスレの死角を通して発射した事か。狙ったのは日下の持つ竹刀、その先端一帯。
仮に十発の水滴が当たっていたとすれば、その全てを触れた最少範囲だけで一気に能力発動させたとすれば。その分だけ竹刀の先端には氷の重量が加わる。散々使い慣れた竹刀の重量バランスが大いに狂ってしまえば、もはや日下にはその竹刀を用いて満足に戦う事は不可能だ。
片手間でも相手できる者と、全力で戦っても苦戦するであろう者。優先すべきは当然、弱い方だ。