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梶谷 栄治は考え続けていた。
スマートフォンを耳に当て、その先に存在している相手の声を聞きつつ、自らも口を動かしつつ、それでも頭の中ではまた別の事を考え続けているのだ。
「――ああ……そんなところだ。すまないが、またの機会に。ああ、それじゃあ」
梶谷の方はもちろん、相手の方もそれ以上の用件は無かったのだろう。一瞬だけ生まれた微妙な空気を察した梶谷がすかさず通話を打ち切る方向で話を進め、そのまま勢いに任せて画面をタップ。それで傾き始めて赤みを増した日の光が差し込む室内に静寂が戻った。
机の上にスマートフォンを投げ出して深い溜め息を吐き出す。電話が特別に苦手という訳でないが、この相手ばかりはどうも電話で話すと変に緊張してしまう。嫌いな相手ではない、好きも嫌いも通り越して感情としてはもはや無に等しい。ただひたすらに、相手が気難しいので顔を見ながら様子を窺いながらの方が接しやすいのである。
(あの男がまた電話を……出ない訳にもいかないから忙しいと言ってたまに出るような形にしているが……今回は何だ?)
電話の相手の名前は笠原 正、古くからの付き合いだ。この日は昼を過ぎた辺りから三十分に一度ほどの頻度で電話が掛かってきていた。今日は忙しくて私用の電話には応答できない日、という設定のつもりで無視をしていたが、これほどまで電話が続いたので根負けした形となる。
(普段は見舞いに言っていない事への文句に終始するが、今回は飲みに誘われた……顔を合わせて文句を言う算段か? いや、しかし応じない事は分かっているだろうに……)
考えれば考えるほど違和感を覚える。もちろん自分には知り得ない相手側の何かしらの事情という事もあるだろうが、何かが起ころうとしているような予感が拭い去れないのだ。予感は予感、そう言われると否定は出来ないが、それを無視していたら上手くいかなかった事は沢山あるだろうと確信している。予感とはつまり認識はしていないが視界や耳には入っていたりするような情報であったり表面的には忘れているが脳の奥底の方に刻み込まれた記憶などが警鐘を鳴らしているようなものだと梶谷は考えているのだ。笠原とは付き合いが長い。もはや忘れてしまった大昔の会話や彼の一挙手一投足が何か異常が起こっている事を違和感という形で示している。
(やはり、妙だ。忙しくて電話も出来ない、話もすぐに切り上げるような相手を、そんなタイミングで飲みには誘わないだろう……)
何かが起きているかもしれない事は分かった。だが、何が起きているのだろう。そのヒントは電話中の会話だけだ。難しい話も込み入った話もしていない、極めてシンプルな会話のみ。梶谷にも明白なおかしな点といえばやはり電話をしてきたタイミングだけなのである。
(タイミング?)
自分の頭の中を巡った言葉の中に一つだけ強い引っ掛かりを覚えた。タイミングが不可解なのだ。忙しいと分かっているはずなのにそのタイミングで電話をしてきた、そう考えると実におかしな話だ。何故そんな事をするのか分からない。だが、ここでもう一つの要素と合わせて考えれば一気に辻褄が合ってくる。即ち、梶谷が忙しくしている本当の理由を知っていて、そのタイミングに合わせて電話をしてきたのではないかという可能性が生まれる。
(話した事はある、だが……クソッ、どれだけ考えても接触した可能性が高い! あの馬鹿め、変な所で行動的に!)
梶谷が忙しくしている本当の理由、それはもちろん真田達との戦いに備えているためだ。深い部分までは知らないかもしれない。しかし、笠原が真田達と接触し、連動している可能性は充分に考えられる。笠原は積極的に他人と触れ合おうとする人間ではないが、笠原がどんな人物であるかを真田と吉井の二人に伝えた事はある。そして、笠原に対して近頃よく顔を出している店があるとちょっとした会話の中で口にした事もある。その時は本当に明確な目的もなく、ただの会話の入り口として話しただけであった。どうせ笠原が訪れる事はない、梶谷がよく出入りするのならば尚更、そう思って。
その結果がこれだ。何を言っても取り合わない梶谷に対して痺れを切らせた笠原が思い切った行動に出てしまった。
(何が狙いだ? 飲みに誘わせる理由? 接触したのならある程度は状況を把握しているだろう、まず間違いなく断られると分かっているはず、その上でなお電話をさせた、その理由は……)
接触した結果としてどのような会話があったのかは分からないが、笠原が自ら何らかの協力を申し出る事はありえない。絶対にありえない。そこについては確信を持っている。ならばこの電話は真田達の方から持ち掛けた作戦の一部であると考える方が自然だ。
(僕は何と答えた? 「例の新事業で忙しいのか」と問われて、僕は「そんなところだ」と返した……電話自体は短かった、誘いが本題でなければ狙いはここにしかない)
ちょっとした挨拶と誘いの遣り取り、そして特に意味の無い部分を除くと目的が介在する余地が存在するのはこの一ヶ所のみとなる。つまり、ここから作戦に繋がる意図をこじつけなければならない。
難しく考え過ぎては沼に沈み込むだけ。まずは最初の一歩目からゆっくりと考える事が大切だ。投げ付けられたボールを投げ返す、この1ターンでどんな意味が発生するのか。これだけで確定する情報は何か。
(つまり僕は仕事をしている訳だ、ここで。僕はここに居る事になっている、そして実際にここに居る。問題は無い、無いようだが……僕がここから出られないという事でもある。これは、あまり良い傾向ではないんじゃないか? そう、そうだ、カメラの牽制の効果が薄れるかもしれない……)
カメラに映ってしまえば真田達は逃げられない。決着をつける事なく戦闘を終えたなら梶谷は不法侵入があったと通報して映像を提出する事が可能となってしまうのだから。
その脅しの意図が伝わらない彼らではないだろうとある種の信頼を置いている。だからこそ、この手は牽制に対する応手なのだと確信した。梶谷はこの場に居るが、真田達への対応は何よりも優先される事だ。そして通報は最も優先順位が低いと言っても良い。真田達が現れたから通報する、警察が駆けつける、逮捕される。それでは意味が無い、戦わなくてはならないのだ。
こうして梶谷が存在できる場所の範囲を狭められてしまうと非常に困る。大量の監視カメラ、モニター、同じ建物の中に居る。それなのに何故か通報が遅れに遅れる。これでは通報した後の話に少しずつ違和感が生じていってしまう。するとどうだろう。梶谷が通報できなくなってしまえば。真田達には逃走も含めた無限にも等しい行動の選択肢が追加されるのだ。無限という事は梶谷にもどうしても対応がしきれないという事になるのである。
(この場に居て、侵入に気付かなかったはずもないのに通報しなかった合理的な理由を用意できるか……? いや、難しい。今からでもどこかの店に口裏合わせの連絡を……? 駄目だ、嘘が重なる事は避けたい。眠っていた……戦闘による痕跡は隠し切れないだろう、派手に暴れ回られている中で眠れるはずもないか。面倒な事をしてくれる……)
直接拳を交えるより前から既に戦いは始まっていた。先手を取ったのは梶谷だ。一夜とは言わないが白河兄妹に時間を掛けている間に築城してみせた。それに対して荒木が飛び込んで来るという返し。梶谷は用意していた監視カメラで動きを制限できるという手を見せる。そして今、真田達は逆に梶谷の動きを制限している。
まったく、胃が痛い思いをさせてくれるものだと両手で顔を覆った。ああ言えばこう言う、手を打てば打ち返す。どこまで行っても喰らい付いてくる厄介な相手。向こうの方が頭数も戦力も上、若さも当然上だ。梶谷は一人、自分の領域に招き入れてようやく対等。いや、それでもまだ敵わないかもしれない。真田達の出方は梶谷には分からない。殺すつもりで来るのか、それとも生かして再び仲間に迎えようなどと甘い考えで来るのか。どちらでも構わない。どのようなモチベーションで来たとしても、ただ全力で立ち向かい、機会が訪れたならば迷わず殺す。それだけである。
目的がある。そのためには味方など必要ない、誰も彼も殺すだけ。良い戦いをしようなどとは思っていない。少なくとも目指すべきなのはもっともっと高い所だ。絶対的に不利な中でも目指さなければならない。そのためには、何としても動かない体の分まで、いやそれ以上に頭を動かさなければ。
昼頃、秘書として雇っている女性が外から帰ってきた際に妙なものを見たなどと気になる事を言っていたのを思い出す。どうやら電話以外にも動いているらしい。何を企んでいるのか、どのように動けば良いのか。夜が近付く中で考えなければならない。
(誘いは今夜、つまり攻め込んで来るのも今夜という事だ。恐らくアレも作戦の一環か何かだろうな……まったく、今から行動を起こすには時間が無さ過ぎるな……もはや祈るか、考え続けるしかなさそうだ。さあ何が出来る、残った時間で、何が!)
足は震えている。重い肩には力が入っている。しかし目はギラギラと暗い輝きを放っていた。気力ばかりは若い頃に戻ったような気がする。背負うものがいくらでも重くなっていった、戦えるのは自分だけだと思っていた日々。経営者として、人としても良くはなかったかもしれないが、その時が生命力は最も満ちていた時期だと梶谷は思っている。
さあ、皆殺しにしてやろう。