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真田 優介は疲弊していた。朝の教室、自分の席。彼が喋る事も無く過ごしているのはいつもの事だが、今日の無言はいつもとは少し勝手が違う。
ここ二日間は本当に大変だった。夜中に出かけたと思えば襲われ、次の日は人助けをしようと思えば襲われる。肉体的にはアシストのおかげもあって筋力はあまり使わず、傷も回復もできたのでそれほどではなかったが、精神的な疲労は相当なものだ。
あのような事の後では食事も喉を通らず、昨夜も真田はろくに眠れずにいた。心の疲労は僅かほども癒せなかったのだ。
肉体的疲労が少ないとは言っても、二日も続けて眠れていないとなるともう体はボロボロだ。頭は痛いし瞼は下がるし思考もままならない。
普段は意図的に誰とも喋らない真田だが、今日は何も意識せず、ただただ喋るだけの体力も無く黙っているだけなのだ。もっとも、どちらにしても話す相手など最初からいないのだが。
どれほど疲れているのか、それは気付いていない内にいつの間にか朝のホームルームが終わっていた事からも明らかだ。椅子に座って放心していた間に安本がやって来て、ホームルームを始め、そして終わっていたらしい。当然、話されていた内容など少しも聞いていない。
しかし、そんな安本が教室に入って来た事にも出て行った事にも気付かなかった真田がこうして意識を取り戻している理由。それは現在、極めて珍しい状況に陥っているためだった。
「真田君、聞いてる?」
「あ、はい……その、ごめんなさい」
自分の席に座っている真田の目の前には一人の女生徒が立っていた。そう、なんと真田はクラスメイトと会話せざるを得ない状況に陥っていたのである。極端に他人への関心が薄かった真田はほとんどのクラスメイトの名前を把握できていない。それでも会話の機会がほとんど無い上に、その数少ない機会も相手の名前を知らなくても困らないような事務的なものだったため問題があるとは感じていなかった。
しかし、この女生徒はクラスの中でも目立つ部類であった。この学校に学級委員などと言ったようなシステムは存在していないが、彼女は自然とそのようなクラスを纏める立ち位置になっている。数少ない名前を把握している生徒の一人である彼女は雪野。名前を把握しているとは言っても名字しか知らない。下の名前までは把握していないので、名前で呼び合っている事が多いこのクラスでは誰を呼んでいるのか聞いただけではサッパリ分からない。
長い黒髪で眼鏡をかけた美人、カッチリとした見た目から受ける印象通りに真面目な生徒だ。その真面目さは校則通りに膝丈のスカートからもよく分かる。そんな彼女がわざわざ真田に話しかけた事にはもちろん、しっかりとした理由が存在している。
「さっきホームルームで先生も言ってたけれど、昨日の数学の課題を私が提出しないといけないの。私の所に課題を持って来てもらったはずなんだけど、真田君と宮村君だけまだ提出されてないわ」
課題。宿題。その言葉を聞いて昨日のホームルームを思い出した。そう、安本が確かに言っていた、宿題を忘れるなと。その後に進路指導や道案内、そしてその後には命懸けの戦闘まであったせいで、そんな事は僅かほども頭の中に残ってはいなかった。
真田は目立たない事に対して本気だ。変わりたいとは思うようになったが、そもそも目立つ事は苦手であり、いきなり目立とうとするようなそんなダイナミックな方向転換は求めていない。
目立つという事は良い意味でも悪い意味でも注目を浴びる事。目立たないようにするという事はそれらを全て回避する事だ。何事にも決して良い結果は残さず、失敗も限りなく減らす。
しかし、宿題を忘れてしまう事、意識を半分失っていてホームルームでの話を聞いていなかった事は真田にとってあまりに大きな失敗だ。
「宮村君は仕方がないけれど、真田君は? ちゃんとやってあるの?」
「え、と……あの……ごめんなさい」
真田はただただ口ごもって謝る事しかできない。自分に非があるので謝るのは当然だが、そうでなくともクラスメイトと会話する時でもこんな話し方しかできないのだ。謝罪も口癖のようなものだ。
恐らく雪野の方からは前髪に隠れてほとんど見えていないだろうが、真田の目は一切相手の顔を見ていない。普通に話しているだけにも拘らず萎縮しているように視線は下がっている。雪野の特徴として早い段階でスカート丈を思い浮かべるのもそれが理由だった。
髪型と分かりやすい眼鏡のような特徴を挙げてしまうと次に出てくるのはもうそれくらいのものだ。スカート丈の次の特徴を挙げるとするならば黒のハイソックスを履いている事くらいだろう。つまるところ、極めて人聞きの悪い言い方をするならば、真田は主に人の下半身にしか目が行かないのだ。
「はぁ……やってないのね? 良いわ、お昼までに提出しろって言われているから、それまでに終わらせて渡して。間に合わなかったらそのまま出しちゃうからね?」
そう言い残して雪野は去って行く。結局、滅多にある事ではない会話は真田がほとんど言葉を返せないままに終わってしまった。昨日は見知らぬ他人と少しはまともに会話できた事もあって、今までと比べると変わる事ができたのではないかと思っていた。
しかし、それは大きな間違いだったようだ。昨日はあくまで他人だったから割り切って話す事ができたのだと分かる。明日も顔を合わせるような相手に対しては思い切る事ができない、恥をかいても良いとは思えない、そのために少しでも上手く喋れないかと変に考え過ぎる、そして最低限の事しか発する事なく終わってしまう。
(……あー……考え事してる場合じゃないな。早くやってしまおう)
そうして真田は宿題に手を付けようとした。このままでは何か他の事に意識を向けないと思考が悪い方向へと向かい続けてしまうと無意識に判断したのだろう。
宿題自体は簡単だ。今回の宿題は教材として使用している問題集を数ページ解くものであり、その問題集には巻末に模範解答がご丁寧に途中式まで掲載されている。もちろん褒められた事ではないが、それを見ながら書き写してしまえば昼までかける事もなくすぐにでも終わる。
真田の学校生活の過ごし方として、提出の必要が無い宿題はそもそも取り組みもしない。そして今回のように提出の必要がある宿題は一応悪い印象を与えないように適当に解いてしまう。しかし、今回ばかりは緊急事態だ。早急にこの宿題を完成させて提出しなければこれは目立ってしまう事となる。提出していないのが宮村と真田だけであるといった事態は避けたい。
黙々と巻末の解答を見ながら宿題専用のノートに書き写す。もちろん、解答を見ながらやっている事を悟られないよう途中で上手い具合に誤答を混ぜ込むのも忘れない。むしろ上手く間違える事の方に頭を使うくらいだ。ここで計算をこんな具合に間違えてみよう、ここの二問は連続で間違えてみよう。そうなってくると徐々に誤答を考えるという事が面倒になってきて結局最後の方は全問正解という事になる。後の方が問題としては難しいはずなのに不思議な話ではあるが。




