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「クソが……吹っ飛べぇっ!」
男が素人臭いフォームで手にしていた石を投げつける。その石は風に乗り、真っ直ぐに真田の顔へと向かった。
しかし、真田はそれを避けようとはしない。両腕を上げ、顔の前に置く。防御とは言っても両腕の骨をへし折らんばかりの勢いで飛ぶその凶器に対しては明らかに意味が無いと言えた。
そして真田の脳に響く初めての音は間違いなく、骨が真っ二つに折れた音だ。足を止める真田、会心の手ごたえに笑う男。背後で麻生は見ている事しかできない。そんな三人全員に聞こえるように、また音が鳴った。
ターンッと高らかに響いた音。それは渾身の気合を込めて踏み出された足の音。再び右足、そして左足。真田はまた歩き始めた。
下ろされる両手。その腕は何事も無かったかのように自然に動き、現れた顔には先程まであったはずの傷一つ残ってはいない。
いや、正確に言えば無傷ではない。口から血が出ている。自らの唇を強く噛み締める事で流れた血だ。真田の表情はほとんど動かない。しかし、その血液こそが真田の強い意思を、感情の動きを表現している。
少し高く上げた足は力強くアスファルトを叩く。真田を退けようとする意思よりも攻撃しようとする意思が勝った風では彼の足を止める事は不可能だ。
「ふざけんなよ……来んな……テメェ! こっち来んなよ!」
それでも足は止まらない。男の意思が負けを意識し始める事で折れようとしている。だから真田は歩みを速めた。歩く事に集中して力を込める必要がなくなったため心にさらなる余裕が生まれ、その余裕は魔法に回す。
下ろしていた完全に無傷の両手を炎が包み、ジリジリと後退する男についに肉薄した。そうしてまた力強く踏み込んだ右足を軸に、炎を纏った左腕を振るう。
殴ろうとはせず、腕を畳んで決して触れないよう。炎で焼こうとだけする動作だ。しかし、小さな動きになる事がむしろ回転の速さを生み出す。
だが、それでも男もまだ完璧に負けてはいなかった。必死に腕を伸ばし、真田の手を叩き落とす。軌道を逸らされた炎は男の体には触れずに焼く事は叶わなかったが、炎の中に飛び込んできた腕を焼く事はできた。しかし、その炎も火傷も一瞬にして腕輪が飲み込んでしまう。
また後退する男に詰め寄るように今度は左足で踏み込み、右腕を振る。その腕もまた叩かれ、男の腕は焼かれ、そして完治する。
攻撃に対する超反応、そして同時にほぼ無意識での回復。それこそがこの男にとっての生きたいと言う意思の表れなのかもしれない。この男もまた、今まさにリアルな死の恐怖と戦っているのだ。
人に対して攻撃などほとんどした事の無い真田の動きが稚拙な事もあるが、そこから一度、二度、三度、四度……全ての攻撃に対して男は防御と回復を成功させた。
「うああああああぁっ!」
「う、うわあああああああぁっ!」
同じような声を発する二人。しかし、その意味合いは大きく異なる。片やこれで決めてやろうとラッシュをかける気合。片や命からがらの防御を続ける悲鳴。
拳で語り合うなどという言葉があるが、今のこの二人の間には意思の疎通など少しも無かった。ただただ意味を持たない声を発しながら次こそは燃やし尽くしてみせるとタガの外れた暴力的な思考に身を任せる男と、恐怖以外の感情を持たない悲鳴を発しながら着実に歩み寄ってくる死の存在を気休め程度に遠ざけようとする男。
力任せでワンパターンな攻撃とそれに対応するワンパターンな防御の応酬は、二人をある種のトランス状態にまで引きずり込むほどだ。
しかし、そんな二人の攻防は唐突に終わりを迎えた。互いの行動は少しも変わらない。真田は変わらずラッシュを続け、今度は左腕を振るう番だった。男もそれを右腕を伸ばして叩き、燃える腕をすぐさま回復させる。
違うのはここからだ。炎を吸い込んだその瞬間、男の腕輪が突如として眩しく光り始めたのだ。
その光は昨夜目にしたものと同じであると主張するかのようにすぐに収束し、そして砕ける。
「えっ……」
二人の動きが完全に止まった。男は信じられないとばかりに小さな声を漏らす。腕輪が無くなってしまった以上はもはや回復は不可能だ。回復が不可能という事はつまり、防御も不可能であるという事。
腕輪は致命的なダメージを受けた時にそれを無効化する代わりに砕け散る。そして戦闘中に受けた傷を吸収して擬似的な回復効果をもたらす。だが、その回復効果も無限に続くと言う訳ではなかったようだ。
(そうか、これは代わりの命と言うよりも体力ゲージ……ダメージの蓄積でも壊れるのか!)
死の無効化がノックアウトだとするならば、これはいわばテクニカルノックアウト。腕輪に戦闘の続行が不可能だと判断されたのだろう。
男の顔は恐怖に震え、引き攣っている。それも当然だ。男の目の前には寸前で無理矢理に止められた炎を纏った真田の右腕がある。そして先程までとは違ってこの炎は間違いなく実際の、本物の自分の命に対して致命傷となるだけのダメージを与えられるのだ。
「ひ……ひぃぃぃぃ……」
動きが止まって数秒、このまま攻撃をするつもりは無いのだろうと判断したのか男はジタバタと逃げ去った。今は命まで奪うつもりは無いので止まっているが、気が変わって殺される前に逃げようとでも思ったのだろうか。
そうして男が居なくなって、真田はようやく油の切れた機械のようにギギギッと鈍く動き始める。
「止まっ……た……」
表情のあまり変わらない真田だが、それ以外の場所は案外と感情を表現している事が多い。今も同じだ。叫ぶとき以外は噛み締めていた唇が解放されている。気の抜けた証。無表情に呟いた真田の手は小刻みに震えている。これは恐怖の証。
真田は恐ろしかった。もう少し手を止めるのが遅かったら、あの男を《本当に》殺してしまっていたという事実が。




