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真田がまともに動けるようになったのは、それから数分後の事だった。一気に押し寄せてきたあらゆる種類の動揺は、頭の働きのほとんどを停めてしまうには充分過ぎたようだ。通常通りに回り始めた頭の中の大部分を占めるのは、やはり最後に見た姿。
女性、と言うよりは少女のようだった。全てが黒く染まった視界の中で、まるで浮かび上がるように、輝くようにそこにあった白い姿。見えたのはほんの一瞬、それでも驚くほどに印象に残った。その場に存在していてはいけないような、この世界から離れた存在のような気すらした。光だと、そう思ったのは存在そのものが輝いていると感じたからなのだ。
有り体に言えば、彼女はとても美しかった。
直前には恐怖から動揺をしていたはずなのに、その事を少なくともこの日の内は忘れてしまうほどの衝撃があった。この出会いとも呼べない出会いの事を、真田はずっとずっと忘れずにいる事となる。
時に、人生において発生するイベント数は固定されていると思うだろうか。何かが起こる日があり、何も起こらない日がある。何かが起こる年もあれば、何も起こらない年もある。晩年まで何も起こらない、恐ろしいほど平坦な人生を歩んだ人間は、年老いた時に今までの分を取り返すかのような、それこそ異世界にでも行くような超展開が起こるだろうか。
答えは否だ。イベント数は収束などしない。何も起こらない人生はあり得るだろうし、何かが起こり続ける人生もまたあり得る。思い返せば真田の人生は、特にここ数年でとても大きなイベントが起こっているように思われる。だからと言ってこれからの人生は落ち着いていくのだろうか、そう考えるとそんな事は分かったものではない。
つまり何が言いたいのか。それは「日々何が起こるか分からないよ」というまるで馬鹿にしていると思うような当たり前の事と、「もう今日はこれくらいで良いんじゃないかな?」というギブアップ宣言なのだ。
「キミは! 真田 優介くんだね?」
(あーーーーーーー、もう!)
家に帰ろうと歩き始めて約三分、後方から何か面倒そうなものに絡まれた。なんとなく頭の中にやたらと張り切って声を出す役者志望のようなイメージが浮かぶ。声はとにかく大きければ良いのか、いや、場面に応じた声と言うものがあるはずだ。時間帯、場所、どう考えてもこのシーンには相応しくない。
何事も起こさないよう振り向く事すらせずにしれっと返事をする。
「いえ? さなだ……ですか、僕は違いますけど」
「あれ、そうなの……?」
声だけでもシュンとしてしまったのがよく分かる。嘘を言う時ばかり言葉に詰まらない真田の無駄なスキルがどうやら通用したようだった。それにしても二言目にしてキャラが崩れている。仕上がりの甘い男である。
顔を認識されたくないので相手の方を向いていなかった真田だが、そのために気付いていない事があった。後ろには声を掛けてきた男だけではなくもう一人居たのだ。このまま終わってくれそうだった話を、もう一人の方が改めて動かそうとする。
「大丈夫だよ、お兄ちゃん! たぶんお兄ちゃん間違ってないよ!」
女の声だ。作ったような高くて甘い声が励ましている。その呼び方から察するにどうやら男の妹らしい。とりあえず関わりたくない雰囲気は変わらないどころか人数が増えて倍増傾向。
「でも今、違うって……」
「嘘だよ、嘘! ごまかしてるんだよ! ほらほら、写真ともそっくりだし」
「え、写真あんの?」
思わず反応してしまった。ついつい振り向けば二人して携帯の画面を食い入るように見ている。どうもブラフではなく本当に写真を持っているような様子だ。個人情報どうなってるんだ。
(……ん? この二人……)
恐らく画面に表示されているのであろう写真と比べるかのように代わる代わるチラリとこちらの様子を窺う二人だったが、その姿にどことなく違和感という訳ではないが引っ掛かるものを感じる。
その感覚の正体を掴みあぐねている内に、二人は満足したのか携帯を仕舞って、そして同時に顔を上げた。
「よくも騙してくれたな真田 優介! だが許してあげよう。何故ならぁ! キミは今から! このボクの正義に滅ぼされるからだっ!」
「ぃよっ! お兄ちゃんイカしてるぅ!」
片手で顔を覆うような気取ったポーズで高らかに言い切る兄と、少し姿勢を低くして下から煽る妹。果たして今の時代、「イカす」という言葉はイカしているのだろうか。その点に関して大いに疑問を抱いたが、そこを議論するような暇も勇気(最重要)も無い。
そして今、こうして二人の顔を同時にハッキリと(片方は手が邪魔だが)見る事で先程まで抱いていた感覚の正体がハッキリした。この二人、顔がそっくりなのだ。似ているなどと言うレベルを超越している。少し怖いくらいに、同じ顔をしている。髪型こそ違えど、両者ともに目を奪われるような見事に整った美しい顔をしている。世の中は不公平だ。
「双子……?」
「すぉのとぅーりっ!」
恐らくは「その通り」だと言ったのだろう。かなり勢い余ったアグレッシブな発音をしていたが。別に喋りかけた訳でもないちょっとした呟きに全速全力で答えてくるものだから恐ろしくて仕方がない。圧が凄すぎてストレスで今にも嘔吐いてしまいそうだ。
「このボク! 白河 和樹と実和は双子の兄妹であるっ!」
特撮番組のアバンあたりで言っていそうなテンションだった。それにしても声が大きい。こんな所で思い切り名乗っているが、どうやらこの男の頭の中には個人情報保護の観念が存在していないらしい。
そんな事を思っていると、不意に傍らで煽っていた妹の方、実和が静かに近寄ってきた。
「初めまして、こんばんは。白河 実和です。兄はあの喋り方が気に入ってますので……私の方から改めてご挨拶をと思いまして。よろしくお願いしますね?」
小声で言うだけ言って、実和はまたそそくさと兄の隣へと戻る。
「うむ、挨拶をしていたのか、妹よ。良い! 良いぞ! 挨拶すると気持ちが良い、かの偉人もそのような事を言っていた!」
「キャッ! お兄ちゃんってば博識! トレンディー!」
何故いちいち出てくる言葉がトレンディーではないのだろう。そしてトレンディーはこの場面で使うのに適切な言葉なのであろうか。古い言葉を使おうとする気持ちに引っ張られていないだろうか。
そしてそんなザックリとした名言を改めて吐くような偉人は存在するのだろうか。
それより何より――
(えぇー……キャラ作ってんのぉ……?)
もちろん素であんな喋り方をしている訳ではないと分かっている。が、これほど変わるものとは。素の自分のデフォルメとは全然違う。無から有を生み出している。
なお、ここまでに真田が言葉を発したのは「違います」と「写真あんの?」と「双子」の三回だけである事に留意しておきたい。ほとんど二人だけでこれだけ賑やかに喋っているのだから大したものだ。そこに加わりたくないので、ツッコミは完全に飲み込む事にした。特に関わる事なく、穏便にこの場を流してしまいたい。
そう思ってはいても、希望通りに進まないのは間違いないだろう。何よりの根拠は相手の一番最初の言葉だ。
(あの人、普通に名前呼んできたからなぁ……《前髪》とでも呼んでりゃ分かんないけど、名前を知ってるって事は偶然会ったワケじゃない。タイミング的に十中八九、梶谷さんの送ってきた刺客……)
梶谷が今、何をしようとしているのかは分からない。ただ常に情報を集める、あわよくば戦力を削げるよう刺客を送るかもしれないとは考えていた。一番分からないのは何故この二人を選んだのか、という点だが。まあ目立ったのだろう。そして集団戦がポピュラーになっていない現状で兄妹という絶対的なコンビを組んでいる事も大きいかもしれない。
(ヤバい、あっちは僕の能力も知ってる。その上で接触したって事は対策が出来ている可能性が高い。この場で襲われたら……負ける)
再び命の危機。相手の能力が分からない以上は考えるだけ無駄だ、一も二も無く逃げ出す事が最善だろう。未だ目の前で二人は賑やかに勝手に喋っている。和樹の方が真田に何事か言って、実和がそれを囃し立てる。とりあえず今すぐどうこう、という様子は見られない。二人の意識がお互いの方を向いた、その瞬間が逃げるタイミング。
「マブい! お兄ちゃんマブいよ!」
「そうだろうそうだろう、妹よ! ちょっと言葉の意味は分からないけど……そうだろう!」
あまりに真田の方からの反応が無いからか、和樹は妹の言葉に対して返事をする。まさに今、この時以外に機は無い。
(よし、逃げ――)
「時に真田 優介!」
「っ!?」
動き出そうとした瞬間だった。狙ったのか天然なのか、そのあまりに完璧すぎるタイミングに真田の体は過剰に跳ね上がる。ウトウトと眠りに落ちようとしたところを叩き起こされたような感覚だ。
「――な、なんですか……」
「宮村 暁はどうしたのだ! どこに隠れている!」
「はぁ?」
相手が宮村の名前を知っているのは別に良い。ただ、今その名前を出される意味はよく分からない。
「ボクは、ボク達はコンビとして、キミ達二人を倒すためここに居るのだ! さるお方の情報によればキミ達はコンビなのだろう? 相方はどこに隠れて機を窺っている! 正々堂々と勝負しようじゃないか!」
何らかの大きな誤解がそこには存在している、真田は確信した。さるお方、というのは梶谷だろうが、よもや彼はそう認識していたとは。
「や、別に僕達正式にコンビ組んでたりするワケではないですし……一緒に行動する機会はそりゃ確かに多いですけど、基本はこうして独自行動ですから」
「なっ……何だとぉぉぉっ!」
和樹は大いにショックを受けている様子だ。ちなみに真田の中でこの二人は「気を遣うと話が進まない相手」としてカテゴライズされたため口調が身内向けの適当なものになっている。
地面に膝をつき、手までついて項垂れている和樹。見ようによっては土下座の直前だ。しかしここまでダメージを受けるような事だろうか。
「お兄ちゃん! ガンバ!」
妹の声援は驚くほど無感情だ。迫真なのに伝わるものが無い。
それでも双子の兄はその声援の奥の奥の奥の隅あたりに存在しているのであろう応援しようという気持ちを確実に受信したらしい。勢いよくガバリと立ち上がっては、真田に向かって人差し指を突きつける。
「認めないぞ! 少なくともキミ達は現状、最強のコンビだ!」
「最強を選ぶにはサンプル少ない気がしますけど」
「故に、ボク達は挑まなければならない!」
「故にと言われても……と言うか義務なんですか」
「即ち、キミ達はそれを受け入れなければならないのだ!」
「即ちときましたか。そして僕ら側にも義務あるんですか」
勢いを削ってしまおうと真田がどれだけ口を挟んでも相手は聞く耳を持たない。勝手に無敵モードに入ってしまっている。何を言おうと止まらないのだ。この手の人物への対処法を、対人経験値が圧倒的に少ない真田はまだ習得していない。
「……一週間、待つ。それまでに二人揃ってボク達と戦え! それが出来なければ……仕方がない、キミ達を各個撃破させてもらう」
「!」
各個撃破、なんて恐ろしい言葉だろう。協力する事で力を高めて何とか勝利を収めている人間を個別に倒そうとは。戦隊ヒーローを一人ずつ闇討ちするようなものだ。マナー違反も甚だしい。正々堂々はどこに消えてしまったのか。
「すまないが、ボクにも事情があってね。キミ達を倒す……少なくとも戦う、それを条件に情報を譲ってもらったんだ。付き合ってもらおうか!」
そう言って和樹は笑う。自らの誇りより約束を大事にしようとしている姿は割と気に入ったかもしれない。残念ながらそれ以外の要素は大嫌いだが。
「ええっと……その提案グッドだよ! 絶対チョベリグ宣言だよ、お兄ちゃん!」
ゼロからキャラを作り上げているせいか、妹のボキャブラリーが危険領域に突入している。明らかにワードが適当になっている。
(もう帰ろうお兄ちゃん! 妹がショートしちゃうよお兄ちゃん! ついでに僕も帰りたいよお兄ちゃん!)
頭の中で強く念じていたその言葉が伝わった訳ではないだろうが、和樹は話は終わったとばかりに背を向ける。そして気取ったような様子で言うのだ。
「では、期限以内にキミ達二人が揃っている姿を見られるのを楽しみにしているよ? ふぅーっはっはっはっはっはっ!」
高笑いをして去って行く和樹。「お時間頂いてすみません、お休みなさい」と素に戻って挨拶をする実和。どうやら本気でこの場で事を荒立てるつもりは無いらしい。一週間、それが真田、そして宮村に与えられた時間だ。
普通に考えれば簡単な事。ただ、今の真田達は普通ではない。それが大問題。
(あー、もう少しゆっくり状況を見てたかったんだけど)
現在、真田と宮村は冷戦状態。その内にタイミングを見計らって仲直りをしようと思っていた真田に突如訪れた試練。
一週間と期限を切られ、これまで喧嘩する相手も居なかった真田に果たして勇気を出して仲直りする事は出来るだろうか! などと、頭の中で盛り上げてみるがその度に気分は底なしの泥沼にゆっくりと沈んで行っているような気がした。
(出来るだろうか、って……やるしかないんだよなぁ……)
不思議とキリキリ胃が痛んだ。空腹だろうか、コンビニで何か買おうか。
原因はそれではないと当然分かりつつ、真田はちょっとだけ現実逃避を始めた。




