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「いただきます」
「…………ます」
そもそも元気な人間ではないが、僅かばかりの元気もどんどんと失われているような気がする。個人的な好みを無視して考えれば文句なしで美味しかったはずのこの家での食事も、少しずつ味が落ちているように感じる。いや、正確には味覚が鈍ってきているのだろう。食に逃げ込む事も出来ないのなら、本当に休まるのは閉じこもった部屋の中だけという事になってしまう。
(美味しくない……早く部屋に戻りたい……)
賑やかなテレビの声は真田の気持ちを隠してくれても味まで誤魔化してはくれない。味の認識が出来ない白米がこれほど美味しくないものだとは。無味のやたらと柔らかい物体が、潤いを失った口内や喉に貼り付いているように感じられる。それはまるで自らの感情のよう。飲み込んだつもりで、どこかに残って違和感を与え続ける。これなら飲み込める分だけ、消しゴムでも砕いて食べた方がマシかもしれない。
主菜も何が何だか分からない。メニューとしてはピーマンの肉詰めだ。くり抜いたピーマンに挽肉ダネを詰めて焼かれている。数も多く、その数だけピーマンをくり抜かれているのだから手が掛かっているように感じる一品。タレも掛かっていて、肉ダネにも味が付いているだろう、ピーマンはもちろん苦味がある。白米や酒と合わせられるだけの味の濃さがあると思われるのだが、そこまでしてやっと微かに塩味のようなものを感じられる程度。
地獄だ。ただの栄養補給でももう少し楽しいか、あるいは諦めがつく程度に簡素だろう。家庭的な華やかさのある食卓でこれだけしか楽しみを感じられないのだから、そのギャップが堪らなく辛い。
部屋を出てからというもの、どうもフラフラして気分が悪い。特にテレビの音が聞こえ始めてから顕著だ。そこで何となく理解した、ただでさえ低下している聴力がさらに落ちている。いい加減気にならなくなるほど慣れた音量バランスが崩れているのだ。これほど短時間で味覚聴覚に影響を及ぼしているのだから、なんとストレスに弱い事か。真田にはまだストレスに押し潰されそうになった時に踏み止まるだけの力が無い。
これでは食事が済むまでテレビに意識を向けて時間を過ごす事も出来やしない。中途半端に音が聞こえなくて気分が余計に悪くなるだけだ。
この空間にはどこにも逃げ場がない。口の中に残り続ける異物を、深いブラウンの液体で強引に胃袋へと流し込む。どんな方法でも構わないから全て飲み込んでしまえばこちらのもの。急いで風呂に入れば部屋から出る必要も無い。
「美味しい?」
「んっ、んんっ!? ……は、はい……」
急いで食事の時間を終えようとしていたのを誤解したのであろう質問に対して咄嗟に返す。もちろん嘘ではあるが、それはあくまで個人の主観的な感想だ。実際はまず間違いなく美味いのだろうから、そこは認めているという意味で全てが嘘ではない。
会話するにも聞き取りにくくて気分が悪い、この微妙な空気の中に居るのも胃が痛い。とにかく目の前にある物を飲み込む作業に戻ろうとした真田であったが、その手はすぐにピタリと止まってしまう事になる。
「ああ、優介君。明日また休みを貰えたんだ。どこかに出掛けないかい?」
「は? はぁ……」
急にこんな事を言われては手も止まる。正直に言うと気は進まない。外出する事それ自体はもしかすると気分転換になるかもしれないが、そこに自分の意思が介在しないなら効果は無い。むしろ余計にストレスを抱えるだけだ。ただそれでも拒否は出来ない、しないつもりだ。
「やっぱり部屋の中に居てばかりじゃ良くないからね、たまにはそういうのも良いだろ?」
「…………は?」
気に障る言葉だった。少し、ほんの少しだけではあるが。
(いや……何? この感じ、ちょっと……は? 良い事してると思ってるの?)
ほんの少しの感情のざわつき、それで済む話ではあった。揺らめく蝋燭の火のような、風が吹けばその内に消えてしまうようなささやかなもの。ただそれが、中に極限まで詰め込まれた火薬庫の近くにあるのならば話は変わってくる。
伯父がその先に何を言っているのかはもう聞き取れない。もう自分の感情も分からない。
(こっちが何を考えて部屋に居ると……ずっとこの家に居るワケじゃないから、部屋で我慢してれば時間が過ぎるから、こんな風に思わなくて済むから、だから……っ!)
この想いが怒りから来ているのか、悲しみから来ているのか、嘆きから来ているのか。それすら分からない。しかし後ろ向きな負の感情から生まれている事だけは間違いない。
口の端から何かが流れている事を感じる。血だ。昂った感情、それを表に出さないための防衛本能のようなもの。唇を噛み締めて、感情を押し殺す。問題は無い。心の中がどれだけ荒れていようとも、表に出ていないのならば自分以外には何も影響を及ぼさない。ただ当たり前のように時間が流れていくだけだ。これこそが周囲から目立たないように習得した技。まだ爆発はしない、まだ爆発には一押しが足りていない。
とは言えども、大いに荒れている事には間違いない。最後の一押しはほんの些細な事でも充分過ぎるのだ。不意に聞き取る事が出来た、その言葉だけでも。
「僕は優介君のお父さん、家族だからね」
暗転。
そして爆発。
真田を止めるものはもはや何も無い。
「――いい加減にしてください!」
手にしていた箸をテーブルに叩き付けるように置きながら叫ぶ。日常生活の中でこれほどの声が出せるとは思いもしなかった。積もり溜まったものが全て、唯一の出口から溢れ出した強烈さ。
「本当に、もう……いい加減にしてください……人の気も知らないで……子供はこんな感じで扱っておけば良いみたいな風に! 僕には僕の考えとか! 性格とか! あるんですよ……」
言ってしまった。一度こうして吐き出してしまったら、もう最後まで止まる気がしない。急に怒り出して失礼な事を言ってしまっている。しかし二人は、目を丸くして驚いている事もあるが口を挟む事なく聞いていた。だからなおさら、止まらない。
「そりゃあね? 感謝してますよ、してるんです。色々と本当にお世話になってますから、感謝してる事はいつも忘れた事がありませんよ。でもそれまでです。大体ずっと気に入らなかったんですよ、僕の生活とか価値観とか、そんなのと違い過ぎて。そっちの家庭の事ですから何も言わないで我慢しましたけどね?」
口の端の血を拭う。あれを言おう、これを言おうと考えている訳でもないのに口を開けば止め処なく言葉が出てくる。これはもう思った事がすぐ口から出るなどという域すら超えている。近頃は考えた言葉を脳内の審査を待たずに発する事が出来るようになったが、考えるより先に口が動くのは経験していないかもしれない。
そうして発しているのは思ってもいないような事ではない、本当に思っている自分の中の真実だ。
「面倒を見てくれる他人ならそれで良かったのに……感謝したまま、不満があっても飲み込んで……でも! 家族を名乗るなら話は別です。何かもう……違和感だらけなんですよ、一緒に居て! そっちが家族を名乗るなら、こっちはそれを否定します。あなた達は僕の家族じゃない、あなた達を家族だなんて認めない!」
「…………」
言葉は何も返ってこない。俯きがちに言い切ったまま、顔を上げてその表情を確認する事は何だかとても恐ろしい事のように思えた。もし確認したとして、どんな表情だったら自分は納得できるのか。悲しんでいれば満足なのか、怒っていれば嘆くのか。
どんな表情であろうと、抱えたこの感情と既に始まっている後悔の念を晴らす事は出来ないだろう。
振られた賽はもう戻らない。どれだけ感情が巡ろうと、どれだけ言葉を重ねても、それが元通りになる事だけは決してありえない。何かしらの結果が表れるのを待つ事しか出来ない。
いや、正確に言えばもう一つ出来る事はある。もっと言うなら、出来るけどしない、するべいではない事だ。しかし真田はそれを選ぶ。
「……っ」
「あ、優介君……」
食卓を飛び出す。ようやく声が掛けられたが、それに反応しているような余裕は無い。賽の目が出る前に、そこから居なくなってしまえば良い。そうすればどんな結果にも直面する事は無いのだから。
向かった先は自分の部屋、自分に割り当てられた部屋だ。ここで外に飛び出す事が出来ないのは彼の弱さか、それとも完全に逃げ出す事まではしなかった最後のプライドか。
扉に鍵を掛けて、外部から自分を隔離する。電気は点けなかった。そんな気分でもなかった上に、部屋が明るくなると自分の淀んだ暗さが浮かび上がるような気がした。
カーテンも閉めて、すっかり真っ暗になった部屋。それなのに、さっきは探しても見付からなかった携帯電話が枕元にあっさりと見付ける事が出来る。
「ぁ……」
伸びかけた手を、すぐに引っ込めた。電話を手にしてどうしたいのか、それがまったく分からなかったから。誰かに連絡したいのか。誰に、何を。こんな自分のこんな嫌な部分を、自分と一緒に居てくれている誰に吐き出せると言うのか。
この一線を越えてしまったら、もう二度と仲間達に会いたいと思えなくなってしまう気がして。もう一度、口に強い痛みと雫が流れる感覚を覚えながら、ベッドの上へと倒れ込んだ。




