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「あのー、荒木さん? って、営業やってるんスよね?」
「ええ」
「どうスか」
「どうとは?」
「やりがいとか……まあ、そんな感じの」
自分でも何が聞きたいのかが分からない。何を聞けば自分にとって参考になるのかが分からないのだ。だから、と繋がるのかどうかは不明だが、荒木は答える事無く目を閉じる。恐らくは考えているのだろう。返事をするのが面倒で眠った訳ではない、そう思いたい。
返事が返ってくる、そう思えば待たされる事は怖くない。だが、この空気は如何ともしがたいものだ。会話の必要が無い赤の他人でなければ、沈黙が気にならない親しい相手でもない。ちょっと会話しておいた方が良いかな? 程度のとても中途半端な他人との間の沈黙ほど恐ろしいものは無い。この沈黙は埋めるが吉、宮村の直感がそう告げている。
「俺、アレなんスよね。卒業したら家出て就職しないといけなくて。でも働いてる自分って想像できないんですよねー。それでまあ、誰かに聞いてみようと思ったんだけど、考えてみたらイマイチ聞けるような相手が居なくてさぁ。そんでどうしようかなって思ってたら何か丁度良い感じで話を聞けそうな人が来た! って思って。アドバイスってワケじゃないけど何か聞けたらなーって。…………なーって」
ペラペラと話してみたは良いが、いい加減に喋る事も無くなってくる。チラリと様子を窺ってみれば、荒木は未だに目を閉じて聞いているやらいないやら。これはまだ場を繋がなければならないか、そんな思考にまるで割り込むかのように、呟くような言葉が発せられた。
「やりがいは……無い、ですね」
「は?」
長考の末に導き出された答えはまさかの否定的なもの。その長考がただの勢いではなく本気で言っているのだと雄弁に語り掛けてくるようだ。
「ええっと……無いッスか」
「ええ、無いです。少なくとも僕にとっては」
即答、断言。これはもう疑いようのないほどの本心だ。人間、仕事に疲れて辞めてやりたいなどと思う事はあるだろうが、これほど本気のトーンで言う者は探さなければ出会えないだろう。テンションが完全に転職を考えている人間のそれだ。
思わず呆気にとられて口を閉ざす宮村であったが、その代わりにこれまでが嘘であるかのように荒木が喋り始める。
「僕は……まあ、見ての通りの人間ですから、向いてない事は分かると思います。ですが君は体力もありそうで、明るい人のようですし、人と距離を詰める事も苦手ではなさそうですから……言葉を正せるなら、向いていると思います」
「――ッスか。ありがとう、ございます?」
まさかのお墨付き。何となくのイメージではあるがやはりいわゆる体育会的な方が良いのだろうか。礼を言うタイミングなのかもよく分からないまま疑問形で返せば、それに続くようにして新たな疑問が頭を上げる。おかしな話である。宮村のような人間が向いていると思っているようだが、そんな宮村と目の前に居る実際にそれを職業としている荒木はまるで正反対の人物だ。
「何で荒木さんはその仕事をしてるんスか?」
「…………」
即答はされなかった。得に何の意図も無い、極めて率直な質問だったのだが、これはあまりに不躾だったかもしれない。
「あのー、アレですよね! 何かこう色々と……アレがあったんですよね!」
まったくもって恨めしい語彙力。語彙力の低い者であってももう少し言葉を巧みに操る事だろう。少なくとも焦ったからと言って片っ端から『アレ』の二文字で片付けようとはしないはずである。それだけ宮村が必死にフォローしようとした、という事でもあるが。
ただそのフォローも虚しく、荒木はそれを無視して語る。
「簡単な話、人事部長が大学の部活のOBなんですよ。それで、部内ではとりあえず受けてみる人が多くて……僕もその一人です。実際、内定が決まる確率も高いです。ここを滑り止めとして別の所に就職する人も多いですけど。でも僕は楽に決まればそれで良いと思って……」
何ともリアクションに困る話である。夢も希望も無いリアル感に溢れる話を聞かされると精神的な部分を削られるような気分。一体これは何の話を聞かされているのだろうか。全て宮村が聞いた事に対する答えではあるのだが。ここまで生々しく話してくれるのはある意味で誠実なのかもしれない。
「えー……と、辞めたり、とか?」
「いえ、今から転職するつもりはありません。十年以上も勤めてますし、他の仕事が向いているとも思いませんし、妻も居ますから」
「えっ、あっ! 結婚してんスか! あ、そう……」
まさかの事実。しかし、本人が言うには大卒で十年以上働いているのだから変ではない。それならばなかなか仕事を辞めようとは思わないのだろう。現実的な仕事をしている人から話を聞いてみた結果、これ以上に無いほどの現実的な話を聞く事になろうとは。何となく参考にはなったが、元気も何となくなくなった。今は不安に満ち溢れている。
本来ならばここからさらに何か聞いてみたりして話を広げるのが良いのだろう。それはもちろん分かっている。しかし、宮村にはそれがどうしても出来なかった。沈黙は破りたいのだが、今は何を聞いてもマイナスの方向に話が転がって行くような気しかしない。そんな相手の気分をせめてこれ以上は落とす事無く送り出したい。そのためならば恐ろしいほどの沈黙すら保ってみせよう。
しかし、その沈黙は簡単に破られる。宮村でないならあとは一人しか居ない。他ならぬ荒木の口が開かれる。
「生きるために、お金は必要です。そのためには諦めがある程度は必要です」
「はぁ……」
「ですが、諦めすぎるのも考えものです。精神的に来ますから」
(おお……自分からそっちの方に行き出しやがった……)
自ら地雷原に突入して行く男、ノーブレーキ荒木。地雷も気遣いも全て踏み抜く勢いである。無言を貫いていた男がこうして話し始めたのは良いのだが、一体どのタイミングでここまでブレーキを破壊してしまったのか。誰の仕業だ。宮村の元気は吸い取られ、代わりに荒木が元気になった訳ではない。ならばどこに行ったのだ。ただの元気の無い二人による元気の無い会話が続く。
「生活費は二人分、保険、貯金……まだ予定はありませんが、子供が出来れば必要な額は跳ね上がります。その辺りと諦めのバランスが重要です」
「あ、はい……」
まるで親しくない人物を相手にした時の真田のような言葉少なな対応。荒木との相性の悪さが浮き彫りになっている。自分から始めた会話ではあるものの、想定外の転がりを見せたために今なんの話をしているのかが見えにくくなっている事がまた宮村の口を重くする。結局の所、何が言いたいのか。まるで霧がかかったような不明瞭な話、だがその霧は驚くほどあっという間に晴れる事となった。
「……けど、一人なら何とでもなるでしょう、若いですし。妥協せず、やりたい事を探すのも良いと思いますよ。自分一人の内は好き勝手に生きましょう」
「……はぁ」
「それでは、失礼します。木戸さんによろしく伝えておいてください」
そんな言葉から流れるように立ち上がって、あまりにスムーズに荒木が店を出て行った。ドアベルの音が一人残った宮村の耳に響く。
「――あ、ありがとございやしたー……」
もはや見えない背中に向かって一応の店員代わりとして声を掛ける。何が起こったのか理解が追い付かない。何かを言われて、そのまま立ち去ってしまった。何だかんだで来店してからほとんど会話をしていたように思える。とても静かな嵐のようだ。
次第に会話の内容が頭に染み渡るように理解できるようになってくる。何を言おうとしていたのか、何を考えていたのか。
(ん? 俺、応援された? 励まされた? んんっ?)
働かなくてはいけないが、どうしてもよく分からない。そんな風に言った宮村に対して、一人だし若いのだから自由に生きろと荒木は返した。諦めて自分を曲げなくても良い、と言う事か。型にはまった人生を送る必要は無い、そんな事を自分の経験に基づいて話していたのではないか。
「わっかんねぇ……何考えてんだ?」
単純に理解すればそういう事なのだろうが、荒木という男は全く読めない。単純な理解で良いのか分からない。
(真田に話してみたいな……似たようなジャンルだし)
そんな事を考えて密かに笑う。レベルは違うが、失礼ながらどちらも同じ面倒なタイプの人間だ。相談してみればとても簡単に心理を読み取ってくれるかもしれない。
今、こんな考え事をしていると分かっているかのように真田が来店すれば良いが、そんな事はありえない。遠い所に居るのだから。普段はそこまで思わないが、こうしてみると顔を合わせて話したくて仕方がない。何とももどかしく、夏の日は過ぎる。




