1
真田 優介は緊張していた。
辺りに人影は無し。けたたましい蝉の声がまるで苛んでいるかのように聞こえる。周りにはいくつもの家が建っているが、外には誰も居やしない。そんなどうしようもない孤独感。遠くから小さく聞こえてくる車の走行音だけが、世界中に自分しか居ないのではないかと言う空想を打ち砕いてくれる。
「……はぁ」
夏休みも後半戦。暑さには強いはずの真田でも気が滅入る。夏、真夏、猛暑だ。「冷夏」という言葉と「全然勉強してないよ」という言葉は信用してはならない。何故ならば夏は暑いからであり、死に物狂いで勉強しているからである。冷夏と言っておけば暑くなった時に「これでこそ夏だ」と感じさせる効果があるとは思う。夏らしくなった喜びが予想を外しているという事実から目を背けさせるのだ。一流の手品師の如き腕前。冷夏と言ってしまえばその時点で天気予報側の勝利だ。
さて、そんな不毛な思考の迷宮から這い出て現実を見てみたならば、真田はそんな酷暑の中で立ち尽くしていた。降り注ぐ太陽光が着実に水分と体力を奪う。溜息の一つや二つも出ようと言うもの。幸せが逃げると言うが、無い袖は振れないとも言う。今も未来も幸せが見当たらないのだから、ノーリスクで溜息のつき放題。
もちろんわざわざ暑い中で過ごして溜息をつくような、そんな趣味に目覚めた訳ではない。むしろ同じ溜息をつくならば冷房の効いた屋内が良い。それが何故、このような真夏の炎天下なのかと言えばそこには当たり前のように理由と言うものがある。あるいは小さく聞こえるかもしれないが、切実だ。それを愚痴る相手も近くには居ない。今晩も明日も会えない。真田は今、一人だ。孤独な戦いを強いられている。
ここで具体的に現在の真田の状況を記してみよう。夏の屋外。周囲は普段とは違う家の立ち並ぶ風景。人通りは皆無と言って良いほど少なく、言ってしまえば田舎だ。手元には大きめのスーツケース。そして目の前にはとある一軒家の玄関。和風の佇まいのそれはもちろん真田の住むアパートではない。一軒家だから当然。ならば誰の家なのか。そこが溜息の理由だ。
敢えてもう一度言おう。真田 優介は緊張していた。常に緊張しているような状態だと言っても良いような彼が敢えて緊張していると記すような状況なのである。
唯一の友人の家にでも行ったか。否、恐らく今はここまで緊張しない。多分、きっと。
ならば女性の家にでも行ったか。否、緊張以前に行く勇気が無い。絶対、間違いなく。
入る事を躊躇うほどに緊張する家。それは端的に言えば、彼の『家』だった。もちろん先程も書いたようにアパートではない。彼のもう一つの家、即ち『実家』である。
(実家……実家、かぁ……)
真田は夏休みの後半を使って地元に帰省していた。目の前にあるのは実家と呼ぶべき家。しかし、彼はそれを実家と呼ぶ事にも躊躇している。彼にとってこの帰省は『実家に帰る』のではなく『地元に帰る』と表現すべき旅だった。
そう、ここは真田が生まれた時から過ごしていた家ではない。両親を失い、自分を引き取った伯父夫婦の住んでいる家だ。父の兄と名乗っていたか、それを示すかのように表札には「真田」の文字。実家と呼ぶ事は出来なくとも、帰るべき、帰らなければならない家である。
(あー……気ぃ、重……)
胃の奥底からこみ上げる吐き気と弱音とストレス。それらをひとまず飲み込んで、ゆっくりと玄関のチャイムに指を伸ばす。震え過ぎたその指が、つい二度も連続で押してしまって立て続けに音が響いて焦らされる。その音が消えると訪れる、永遠のようにも思える無音の時間。聞こえていたはずの車の音も聞こえない、蝉の声も意識の外。
だが、実際はそこまで長い時間ではなかっただろう。恐らく十秒ほど。玄関の戸が開く音で現実に戻れば目の前にはすっかり見慣れたと言っても良い男性の姿。
「――おかえり、優介君」
「……お邪魔します」
二人の交わした挨拶は完璧にすれ違っていた。
この『真田家』に住んでいた期間はとても短い。両親が死んだのが中学三年の夏、そして春には一人暮らしを始めた。《リヴェール旧杜》に住んでいた期間はそこから今現在、高校二年の夏まで。こちらの方が遥かに長い。それでも、彼の高い記憶力はハッキリと正確に、未だ家の内部を覚えていた。それがこの家に慣れているように思えて少しだけ微妙な気分になる。別に嫌と言う訳ではないが、微妙なのだ。
与えられた自室は最後に見た時とほとんど変わっていない印象だ。掃除されて少し整理されてはいるが、基本的な配置などに変化は無い。ベッドがある、テレビがある、アパートに持って行かなかった本の詰まった本棚がある。そして本来の実家から運び込んだ学習机が肩身の狭い思いをしながら座り込んでいる。机と自分だけが発する微かな異物感。
スーツケースを適当に転がして、ベッドに寝転がる。一息つきたい、そんな気持ちを掻き乱す、どうしても拭えない違和感。
(他所の家の匂いだ……)
嗅覚というもののなんと敏感な事か。視覚から得られる情報は何だかんだで覚えのあるもの、自分の家として認識している。ただ、この匂いだけはどうしても馴染まない。二日ほど過ごしてみれば気にならなくなるのだろうが、それまで心は擦り減り続ける。まるで瘴気のようだ。
伯父夫婦と初めて会ったのはいつの事か分からない。真田と言えど覚えていない事だってもちろんある。そもそも、年に一度ほどしか会わない興味もそんなに無い親戚の顔を認識している人間がどれほど居ると言うのだろう。もっとも両親は兄弟という事もあり遠くに住んでいる訳でもないのでちょくちょく会っていたらしいのだが。真田はよく知らない相手に会いたくないので機会があっても同行しないのだ。
なので、この伯父夫婦を初めて認識したのは両親を亡くした直後と言って良い。さらに離れた関係性の親戚と共に葬儀などのあれやこれやを取り仕切ってくれた。そして葬儀の後で呆然としていた真田を安心させようとしたのか自分達が引き取る事になったと教えてくれた。不思議と最近の事のように感じられるのは、本当につい最近、走馬灯の中で追体験したせいだろう。
いくらなんでも当時の真田もいい歳だ。住む場所も食事も何もかも与えてくれて心から感謝はしている。ただ、いい歳だったからこそ家族とは呼ぶ気になれなかった。その気持ちはある程度は容易に想像できるだろう。理不尽に扱われる事は無かった、悪い目的などあるはずもなかった、ただひたすら家族になろうとしていた。本当にただの良い人達だった。
(良い人だから、凄い申し訳ないんだよなぁ……ちゃんと話した事もあんまりないし)
真田も当初は上手く接するよう少しは努力をした。これが学校ならば少し一人で耐えていれば帰る事が出来る。しかし家は帰る場所、これ以上の逃げ場は存在しない。その拠点の環境は少しでも良くしておくべきなのだ。
だが、失敗。両親を失って呆然としたが、意外と悲しくはなかった……と思っていても実の所、精神は追い詰められて疲れ切っていたのだろう。当時の真田は現在とも比べ物にならないほど人と話す事が出来なかった。
こんな話をしてみよう、こんな反応をしてみよう。そんな計画はいくつも立ててみた。それでもこれがフリートークの取っ掛かりだと思うと二の足を踏み、驚くほど声を発する事が出来なくなってしまったのだ。
一番多くの言葉を交わしたのは、現在通っている高校に進学したいと告げた時。一人暮らしをしたいと告げた時だろう。頭の中で綿密に作り上げた台本に従って、ありとあらゆる質問に対しての回答集を用意して。自分の想い、自分の言葉の表面をなぞってぶつけた説得。そこに宿っているのは自分の魂ではなく、その模倣だ。それがどれほど二人の心に響いたのかは分からない。あるいは、少しも響いてはいなかったのかもしれない。
それでも気持ちを汲んで認めてくれた。それどころか、極端に無駄遣いをしなければバイトもせずに金の心配もしなくて良い悠々自適の嘗めた生活までさせてもらっている。本来的には頭が上がらない相手だ。それなのにどうしても二歩も三歩も引いてしまう、乗り越えられず壊す事も難しい壁を作り上げてしまう。
(恩知らずのクソ野郎って感じ……)
自覚はあってもどうにもならない。悩む所だ。
携帯電話を開いてポチポチと操作する。画面に並ぶいくつもの名前。梶谷さん、鴨井さん、木戸店長、篁さん、日下君、マリアちゃん、宮村君、雪野さん、吉井さん。一部、手放しでそう呼ぶ事は憚られるものの、頼れる仲間達だ。連絡すればきっと力を貸してくれる事だろう。心の扉の施錠を欠かさない真田でもそう思うほどには心を許している。丸くなったものである。
だが、今は連絡しても誰も助けてはくれない。話くらいは聞いてもらえるだろうが、直に顔を合わせて協力する事は不可能なのだ。孤立無援。味方しか居ない敵の居城で独りきり。そんな不思議な矛盾に満ちた状況。
それでも名前を見ているだけで力が湧いてくるような気が少しだけする。次に会える時を楽しみに、その日を迎えるために今日を耐える。思っていた以上に誰かに依存するタイプなのかもしれない。
こうして改めて見ると、最初に出てくる名前は梶谷である事に気付かされる。もちろん可能性としてはそういう事もあるかもしれないが、真田の場合は間違いなく登録している数が少ない事が原因だ。そう思うと悲しくなってくる。でもまだ伸び白はある。荒木という男、二度しか会っておらず深い交流は無いが、今後は分からない。もし連絡先を交換すれば晴れて電話帳のトップに躍り出る。
連絡先を交換していない相手と言えば葛西・堺コンビもそうだ。もっとも彼らと交換した時は名前で登録するだろうが。未だにどちらがどちらか正確に認識できている自信が無い。とは言え、気に掛けてくれている相手だ。夏休みが明けたら少し勇気を振り絞って提案してみるのも良いかもしれない。休みが明けたら――などと言っていると、休みの間に死んでしまいそうではあるが。
ともあれ、そんな未来に想いを馳せて今日と言う日と必死に戦う。
(今頃、何してるかなぁ)
昼も過ぎて、まだまだ明るい午後三時。遥か遠くの仲間達の顔を順に思い浮かべ、静かに目を閉じるのであった。




