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そこからはと言えば、もはや策と呼べるようなものは存在していなかった。あったものと言えば、ただひたすら頑張るという意志だけ。自分の魔力の高まりと同じくして、宮村の魔力も高まっている事を感じる。そして新たに感じるもう一つの魔力。確実に近付いている。魔力を感じられるほど近くに敵は居る。
走れば走るほどに強くなる魔力に導かれた先、そこには地上から見ればそびえ立つような、パッと見た限りでは恐らく十階建てほどのマンション。高さにするとおよそ三十メートル、先を急ぐ身には考えられない高い壁だ。だが、激しい魔力の高まりをこの場所から感じる。間違いなく、敵はこの上に。
(これは……エレベーター、いや、階段を全力で……駄目だ、中に入った段階で逃げられる。そうなったらもう追えない! そもそも、中に入れるか? クソッ!)
まったく敵の位置取りは厄介なものであった。接近を嫌うあまりに根本的にそれを許さないポイントを見付けてしまうとは。
独立していて一番近くの建物からでも高さが足りず飛び移る事は不可能、中から昇ろうとすればその隙に逃げられる、しかもこちらが飛び移る事が出来ないのに対して敵は飛び降りて移動する事が出来るのだ。そして下手すれば中に入る事も出来ない。こちらは二人居るので対処は可能だが、そのためには戦力を分散させる事になってしまう。万が一の事も考えて、少しでもバラバラになる事は避けたい。
マンションの足元まで来ると攻撃は止んだが、それはつまりいつでも動けるように準備する時間を与えた事でもある。こちらが次の行動を始めたと認識すればすぐに対応してくるだろう。悩みは尽きない。
だが、その悩みを解決するのはやはりと言うべきか、宮村であった。それも、あまりにシンプル過ぎる方法によって。
「よっしゃ……上るぞ!」
「は? いや……えええっ!?」
言うや否や、宮村は真っ直ぐ走り出す。そして上る。あるいは登る。そのマンションの外壁を。確かに、別にツルツルで油が流れていたりする訳ではない。何よりもベランダなどというものもある。いくら強化されていても屋上までジャンプ出来る訳ではないが、強化されているのだから一番下のベランダの手すりまでジャンプする事くらいは余裕で出来る。そして同じく強化されている握力や腕力は、小さな取っ掛かりでも掴んで離さない。自らのイメージで動く体は絶妙なバランスを理想通りに保つ。
どうかしている。が、これなら恐怖さえ無視すれば中から屋上に行くよりも早いかもしれない。そして恐怖さえ無視すれば常に屋上の様子にも気を配る事が出来て、さらに真田が恐怖さえ無視すれば行動を共にする事が出来る。
「うーわー……」
「行くぜ!」
いや行くぜではなく。そう言おうにも、もう宮村の耳には届かないだろう。既に五階ほどの高さに居る。我が道を突き進む男である。
どうしたものか、などと考えている余裕など無い。今この瞬間にも動き出さなければ、結局は別行動だ。選択肢すら与えてはもらえない、早急に覚悟を決めて動き出すより他にはない。
(ああもう……ああもう、あぁもぉぉぉぉ!)
頭の中はこれだけで一杯。余計な事を考えるような心の余裕も持てず、手を掛け足掛けひたすら宮村を追って登る。能力的には当たり前と言っても良いほどなのだが、見事なまでに安定していた。人間離れした軽業、極めてフィクション的な忍者のようだ。
(ごめんなさいごめんなさい、マジでホント、迷惑かけてごめんなさいっ!)
自分でも驚くほど安定したために少しは余裕が出たのだろう、少しは別の事を考えられるようになった。もっとも、その内容はひたすら謝罪の連続なのだが。マンションの中で安らかに眠っている皆々様方に騒音被害を与えてしまっている。しかしこちらも命の危機だ。心から謝罪はするので許しはせずとも見逃してほしい。
だが考え事が出来るのも考えものだ。その分だけ気が抜ける。気が抜けたら安定感など無に帰る。掴めば離さないとは言っても掴めないと意味は無い、一つ上の階の手すりを掴もうと伸ばした手は空を掴み、足は既に空中に放り出されている。即ち、ここからはもう落ちる以外の未来は無い。
(あ、ヤッバ……)
そう思っている間にも、重力に全身が捕まえられる。まるで地獄の底に引きずり込もうとする亡者の手。そんな例えがリアルタイムで浮かんでくる謎の余裕。ただ体は動かない。相応に動揺はしているのかもしれない。無駄な思考しか出来ないようになっている。
今の動体視力や力ならば下の階の手すりに掴まってリカバリーする事も可能、むしろそんな事くらい遊び感覚で出来る。ただ、それが出来るのはもちろん思い付いた時だけである。こんな普通ではない状況で普通の思考をする事はなかなかどうして難しい。普通ではない状況で浮かんでくる考えと言うのは、やはり普通ではないやたらと大胆な事だけであった。
「っしゃ!」
壁を全力で蹴って空中で体を移動させる。その脚力から生み出された移動距離、それは道の向こうにある電柱まで――
「よぉっしゃぁ!」
そして到達した電柱を再び強く蹴って、またマンションに向かって飛ぶ。恐らく、これは三角飛びと言うものなのだろう。身体能力をフルに使った、異様に面積の大きい三角形が空中に描かれる。
落下中ではなく正面から向かって行く事でようやく普通の行動を取る事が出来た。手すりを両手でしっかりと掴んで一気に体を持ち上げる。そうなってしまえばこちらのもの、次は利き足の右で思いっきり手すりを蹴れば、通常状態(と言う名の異様な状態)に返り咲きだ。勢い付いた凄まじいスピードで再びマンションを駆け登る。
「ふっ……へへへ……うふははははは!」
気持ちの悪い笑い声もご愛嬌。命の危機から無茶な行動で復帰したのだ。胸の辺りがフワフワして少し熱い。それでいて背中や股間の辺りはやけに寒い。全身を生と死が駆け巡っている。これでハイにならなければ嘘と言うものだろう。まともな精神状態ではやってられない。
この万能感。今ならば何でもやってしまえる気がする。今この瞬間だけ、真田は精神的に無敵だった。
「よし着いたぁ!」
頭上から宮村の声が聞こえる。振り向かない性格と言うべきか上を向いて歩く性格と言うべきか、真田の危機には気付いていないようだ。
無敵状態の真田もすぐに屋上に到着する。一度地面に落ちかけたとは思えない速さ、真田の精神が振り切った時の勢いは驚異的であると言える。大人しい人間ほどキレると恐ろしいのだ。
飛び上がり、屋上に着地する。気分は完全にフィクション忍者。頭を素早く左右に動かせば、宮村の姿ともう一つ、知らない怪しい人物の姿があった。敵が移動したような様子は感じられなかった。今回の真田は信用ならないが、宮村も真っ直ぐ登っていたという事は、やはり移動はしていないのだろう。そしてその人物は背中にライフルケースを背負っている。間違いない、逃走の準備を整えた敵である。
「よっ、顔が見れて嬉しいぜ」
ニヤリと笑って宮村が言う。苦労かけさせやがって、そんな気持ちがあまりに分かりやすく滲み出ている。真田にも感じられたそれを、相手が感じ取れないはずがないだろう。敵も苦笑いで返しながら、ゆっくりと手を動かす。その動きはあまりに遅くて、魔力も感じられなくて、つい見逃しかけてしまった。魔力が膨れ上がり始めるその瞬間を感じるまでは。
「あっ……ぶない!」
「!」
その場から素早く一気に跳び退く。声に反応して宮村もまた跳ぶ。直後に爆発的に肥大化する敵の魔力。確実に発動した敵の能力だが、傷を負った痛みも宮村の声も無いのでどうやら回避に成功したようだ。どちらが狙われたのか分からない。それどころか、何となく避けただけであるため何が起こったのかもまったく分からない。いくらなんでもこの距離でライフルを撃つとは、それ以前に敵はライフルを手には持っていなかった。ならば、一体何をしたと言うのか。
「――サイドアーム……っ!」
敵の手にはハンドガン。あれなら素早く取り出して発砲する事も可能だろう。
(スナイパーライフルだけじゃない……いや、当たり前か。クッソ、しっかり装備固めて来てくれるなぁ!)
敵は接近されるのを嫌っているとばかり思っていた。もちろんそれは正しいのだろうが、接近されても充分過ぎるほどに戦える準備も整えられている。姿が見えて同じ土俵に立っている分だけ前進だが、極めて厄介な状況である事は少しも変わっていない。
そこで敵が初めて口を開く。
「いやー、悪いね。俺、ゲームとかサバゲーとかでも狙撃すんの好きでさぁ……こっちで戦うのはちょっと不本意な訳よ。でも、ヤバいのはこっちの方だ」
殺気は無い。強い敵意も無い。ただひたすら、真剣に能力をぶつけ合うゲームとして参加しているような口振りだ。邪な気持ちが無いのならば、それ自体は好感が持てると言って良いだろう。だが、その攻撃は間違いなく殺すために放たれる。
「なぁっ!?」
この距離から放たれた銃撃、その弾速は目に留まらない。ハンドガン戦においては開き直ってエイムを重視しないのだろう、とても大雑把だ。腕の横をBB弾が飛び去って行った。
だが、こちらはとにかく速い。セミオートで一発ずつ、フルオートでばら撒かないのは一応のプライドか、そもそも機能が無いのか分からないが、とにかく発砲間隔が非常に短い。常に狙って撃たれているので動き回らなければ当たる。いや、むしろ動いたら当たるのか。分からない。取るべき行動が分からない。
「こっちだ!」
動けない、止まれない。幸運にも当たらなかっただけの、いつでも撃ち抜かれかねないそんな中途半端な状態にあった真田の手を、宮村が強引に引っ張った。その力たるや流石の一言。引っ張られる側の体が浮き上がるなど、まるで漫画のようだ。それだけ意気込んで、真田を救おうとしている。
宙に浮いた足をBB弾が掠め、鋭い痛みが走るが深い傷ではない。宮村が向かった先は屋上に出るための扉だ。ここには遮蔽物が無い。貫通するとは言え、身を隠す事が出来るのは扉の先の屋内しかない。
幸いにも扉には鍵が掛かっていなかった。もっとも、鍵が掛かっていても渾身の力でドアノブを捻って破壊してでも中に入るつもりであったが。ともかく開いた扉の隙間に体を滑り込ませるようにマンションの中に入る。しかし扉は完全には閉じない。様子を窺う事が出来るように少しだけ開けて、命からがら身を隠す。
「よーし、良いね良いね。お互い最善を尽くそうや」
扉の向こうから楽しそうな声が聞こえてくる。好感が持てるとは言っても、その声と攻撃の威力のギャップが恐ろしくてしょうがない。真田、再びクールダウンで無敵状態終了。感情の起伏が激しくて疲れる日である。




