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真田 優介は――
「あああああっ!?」
苦戦していた。
「……そんな苦労するなら治るまで本読むの止めたら良いんでないの?」
「いや、そういうワケにも……思ってたより面白いんですよ、これ」
そう言って真田は本の表紙を見せる。以前買った、何となく面白そうだった小説である。同時に買った本命の漫画よりも楽しんでいるのだが、その本は読んでいる間に何度も何度もバラバラと閉じて表紙に戻ってしまう。
真田はいつもの店にやって来ていた。アイスティーを注文して、ダラダラと本を読んでいる。極めて自然体、何か変わった所は無い。いや、正確には一つだけ。左手の中指と薬指が纏めて包帯を巻かれ固定されている。いわゆる一つの、骨折である。
叶との戦いの後、怪我はほとんど無くなっているが、叶の顎を砕いた時に折った、あるいは砕けたであろうその二本の指だけはどうしても治療が出来なかった。そして珍しく病院になど赴き、正式な治療を受けた結果がこれだ。左手が使いにくい事この上ない。こちらの手でグラスを持つ事は出来ず、細かな動きをさせられず、包帯のせいで感覚も鈍く、開いているページを留め置く事も出来やしない。まったくもって大変だ。
「じゃあわざわざウチに来て読まなくても良いでしょうに。そうやって真面目に椅子に座って飲み物なんか飲みながらだから苦労するんだよ、家でダラダラ読みな」
「僕、あれから外出したのは病院だけです。食事も買い置きのカップ麺……ああ、昨夜は何か吉井さんが来ましたけど。流石の僕も日の光を浴びたい気分になったんですよ、悪いですか」
「別に悪かないけどね。悲鳴を上げず、私に愚痴を言わず、色々と注文をしてくれるなら」
「当軒は注文の多いカフェ……」
「出てくかい?」
「サンドイッチで」
即答の追加注文に対して「あいよ!」と威勢の良い応答をされる。何とも雰囲気にそぐわない。ここはラーメン屋か何かだっただろうか。
「しかし、随分と平和だこと。つい最近まで『こうして殺す、ああして倒す』って話題で持ちきりだったのに」
「結構な事ですよ。ぼかぁ少なくとも指が治るまで変な事に首突っ込みませんよ、もう」
死ぬ気で頑張った反動か、それとも指を折った不便で心まで折れたのか。真田はすっかり休眠モード。叶と戦う前も休眠モードであったが、その時よりも気持ちは前向きなので悪くはない、と思いたい。客観視すると前向きかつ行動的な方が良いに決まっているのだが。
世間は夏休み。平日の昼を多くの人々が過ぎて行く。昼食を食べたいのか、夏の日差しから逃げたいのか、それとも仕事が忙しいのか。慌ただしい人の流れはしかし、決してこの店には寄り付かない。
(来る度に不安になるな、この店……)
好き勝手できるのでありがたい事は違いない。
そんな基本的に誰も訪れない店のドアが開く。(こんな事を思っては失礼だが)信じられないとばかりにそちらの方を目を剥いて見ると、そこに居たのは二人組の客――と言うよりも身内の二人。
「こんにちはー! あれ? ゆーすけだ! 昨日ぶり、ヤッホー」
「えっ、真田君? ――その、こんにちは。指、大丈夫?」
吉井と雪野だ。すっかり仲良しの二人は今日も共に行動しているらしい。微笑ましい事だ。そしてこの店が更に騒がしくなる事を予感する。
「こんにちは。指は……まあ、不自由ですけど、お陰様でとりあえず過ごせてます」
カウンター席に座った二人に左手を見せながら曖昧に笑う。実際は「まあ」どころではなく不自由を感じているのだが、そこはちょっとした見栄やプライドと言った問題だ。駄目だ、とても不自由だと素直に言わない美学。しかし全然問題ないとも言わない中途半端な所が実にダサい。
「へへーん、昨夜みたいに私の愛情たっぷりの料理で治るまで面倒見てあげちゃう!」
「結構です、適当に自分で何とか……と言うか、僕――」
「香澄!? 昨夜って、まさか真田君の家に……っ!」
言葉を遮られる。考えてみれば雪野に敵対視されていたのは吉井が真田の家に居たためであり、それを踏まえると今の発言は真田に変な汗をかかせるには充分なものだ。
(あーあーあーあー、うるさくなってきたなぁ)
真田一人でもうるさい状態だったのが思った通り悪化した。
「カナも行く? 一緒に優介のお世話するの」
「そ、そんな……迷惑だと思うし、それにやっぱり男の人のお部屋に入るなんて……」
(これは美味しい、この玉子サンド……具もさることながら、辛子が実に良い塩梅で利いている。そしてそれらを纏めるパン、まさか自作かっ!)
「現実逃避しないの」
「痛いっ!」
突然、頭頂部に訪れた痛みに耐えながら手にしていたサンドイッチを皿に戻すと、そのサンドイッチを運んで来たばかりのお盆を縦に持った店長がこちらを見ていた。縦は危険だ、風を切って凄まじい威力を誇る一撃を放つ事が出来る。覚悟が出来ているかどうかの差だろうか、戦っている時よりも不思議と痛く感じる。この店では聞いていられない話から自分の世界に逃げ込む事すら許されないらしい。
(どうしてこう、加われない所で自分の名前が出ると聞いてられなくなるんだろう……ん?)
未だワイワイと続く話に極力耳を傾けないようにして、視線も逸らしてドアの方を見た時、そこにまた二つ人影が見えた。新たな客……ではなく、新たな身内だ。
「オーッス、今日もあっちぃよな……」
「あっ、先輩、こんにちは!」
一人は外気の暑さにやられながら、そしてもう一人は暑さを感じさせない涼しげな顔で入ってくる。ルックス特権階級は自分の周りだけ温度をコントロール出来るのだろう、そうでなくては汗一つかいていない事の説明がつかない。
「宮村と青葉君じゃん、こんちはー」
「今日は二人で来たの?」
「ああいえ、お店に向かってたら偶然会ったんです」
「そうそう、真田ん家に行ったら留守だったから暇潰しに来ようと思ったんだけど、ここかよ!」
「連絡すりゃ良いでしょうが……」
そんな会話を交わしながら、二人は真田のいるテーブルに座る。当たり前のように相席してくる押しの強さは少し見習う価値があるかもしれない。
「真田先輩、大丈夫ですか? 俺も折った事ありますけど、何か腕は自由に動かせるから余計に不自由に感じると思いません?」
「ああ、ちょっと分かる。普通に左手使おうとしちゃってビックリするの」
「そういや俺、見舞いとか以外でちゃんと病院行った事ってあったけなぁ」
「病院の世話にならない人生を送った方が良いさ。私も歳で病院にはよく行くが、面倒なものだよ」
「それもそうだよなー、金も掛かるし……って、おっちゃん!?」
テーブルの三人が全員飛び上がらんばかりに驚く。そこにはいつの間にか梶谷が接近していて会話に加わっていたのだ。よく見れば他の面々はそれを笑って見ていて、さらにドアの所には鴨井まで立っている。
「悪趣味な爺さんだ……ったく、コンビニをクビになってイライラしてんのにこの騒ぎはたまんねぇっての」
「え、クビなったんですか」
「君は表情をもう少し柔らかくする事を覚えるべきだと思うね。出来ないなら裏方に回った方が良い」
「裏の仕事……」
「今、変な事言いやがったのは誰だぁっ!」
怒り出した鴨井の視界から外れようと犯人(真田)が体を小さくする。考えずに口を開いてしまうと言うのも考えものだ。いや、本来はこう言ったマイナスな方向が強い言葉のはずなのだが。
他の誰もが真田が犯人だと分かってはいるが助けようとはしない。どうも口が災いを生んだようである。誰も頼りになりやしない。真田の頭の中の辞書で『自業自得』という言葉は太いマジックで塗り潰されていた。
「何を騒いでんの? 表まで聞こえてるんだけど……」
「典子ちゃん、オレンジジュース!」
そこに割って入ってきたのは案の定と言うべきか、篁とマリアの二人。篁は呆れ顔で鴨井の頭を叩いて大人しくさせる。その腕力たるや、今はただの一般人である鴨井が一撃で沈められるほど。そしてマリアはそんな事は完全に無視だ。マイペース極まりない。この店に集まるのは、そんな人の流れに逆らっていけるような人間なのかもしれない。
「客が九人、この店もまだ戦える……」
「店長、客がみんな知り合いな事実を冷静に考えてみると良いわ」
「そういえば、あの時は言えなかったですけど梶谷さん、ありがとうございました。助かりました」
「礼には及ばないよ。私は自分にできる事を全力でやったまでさ」
示し合わせた訳でもなく全員が揃った所で真田が話題に上げたのはあの戦いの時の事。最後の一押しをくれた梶谷には礼を言わねばと思っていたのだが、あの後で店に帰った時には結局言えず仕舞いだった。
勝利に沸き返る店内。揉みくちゃにされる真田。喜びのあまり宮村が何度も真田の肩を叩くせいで危うく死ぬところであった。それから抱きつく吉井を引き剥がしたかと思えば雪野は感極まって泣き出す。それを落ち着かせたかと思えば、そこで真田のアドレナリンが完全に切れて指の痛みに耐え切れなくなって夜中ではあるが梶谷の車で病院に連れて行かれた。まったく思い出すだけで頭が痛くなるような混沌の時間であったのだ。
「むしろ、おっちゃんは俺らに謝ってほしいくらいだっつーの。戻ってみたら居ないんでマジで心配したんだからな?」
「まったくだわ、おじ様が戻ってこないのがどれだけ不安だったか……戻って探しに行くのも危険だし……」
「はっはっは、すまないすまない。だが私も大変だったんだ、悟られないようにジッと動かずに息も潜めて……節々が痛いったらない」
梶谷の気配を消す力はなかなかのものだ。そしてその魔法は不意を突いてほんの一瞬の足止めをするには最高。なので真田としてはもうほとんど感謝しかない。
「へぇ、梶谷のおじさん活躍したんだ。凄いじゃん!」
「本当に。真田君が無事に帰って来てくれたのも梶谷さんのおかげです」
「いやぁ……若い子に褒められると張り合いがあるものだね」
吉井と雪野に口々に褒められて、どうやら悪い気はしないようである。どれだけ歳を重ねても、男と言うものは根本的な部分では成長しないものなのかもしれない。男の本質は根深く、そして強い。
なお、そんな二人の横では――
「典子ちゃん、ケーキも!」
「……一番若い子は話を聞いてもなさそうですね」
全員でひとしきり笑い、それが自分を見ての事だと気付いて不可解そうに首を傾げるマリアにまた笑い。空気はすっかり和やかムード。床に座り込んでいた鴨井も頭をさすりながら何とか復活して立ち上がる。場の流れが分からず困惑するその姿は、三度みんなを笑わせるには丁度良かった。
そして笑いも収まった時、篁が手を打ち鳴らす。何となく光が発せられそうで思わず身構えかけるのは真田だけではないだろう。
「はい、アテンション。みんな掲示板は……見てないでしょうね、どうせ。店長、パソ――」
「あいよ」
「あら話が早い」
言い終えるよりも早くカウンターに置かれるノートパソコン。とうとう文句すら言われなくなった。協力体制がなくなればお約束の流れなど一巻の終わりだと思い知らされる。
いつもの操作だけは完璧に体に染み込ませているのだろう、篁はとてもスムーズに掲示板のページを画面に表示させて全員に見えるようパソコンを回転させた。いくつかのレスが並んでいる。
『あのキャンセラーを倒すんだから、やっぱすげーわ。最初から睨んでた通り』
「おっ、俺達の事か?」
宮村が嬉しそうに声を上げる。少し調子の良い書き込みのようにも見えるが、それは良いとしよう。しかし倒したと言う情報がどこから出回ったのか。どこにでも目があると考えるべき、まったくもって恐ろしい社会である。油断も隙もあったものではない。
『マジでヤバい 神すぎる』
『俺も仲間入っておこぼれもらえないかな』
『凄いわホント。ボクサーチーム完全に勝ち馬じゃん』
「待て」
唐突に静止した宮村に全員の視線が集まる。もっとも、何が言いたいのかは分からないでもないのだが。
「何だ、この……ボクサーチームってのは」
「何って、チーム名じゃない? 私達の」
「どこから来てんだ、このボクサーチームって名前は」
「そりゃあ宮村先輩からじゃないですか?」
「何で俺が由来なんだよ!」
「まあ、宮村君は目立ちますし、宮村君が戦う直前に見てた人は居なくなりましたし? あの流れだとみんな宮村君が倒したと思うんじゃないですかね」
「なんじゃそりゃぁ……」
ガックリと項垂れている。あまりのシンプルさ故にあまり気に入っていない呼び名がここまで大々的なものになってしまった事が悔やまれるのだろう。とは言え、仮に真田が由来だと《前髪チーム》とでもなりかねない。つまり、これが一番丸く収まる形なのである。なので全員、笑いはすれどフォローはしない。まったく、最高の仲間である。
「良いじゃないですか、ボクサーチーム。分かりやすくて。頼りにしてますよ? 宮村君!」
そう言って真田がバシッと宮村の肩を叩けば、みんなもそれに倣って次々に肩を叩いていく。
「お前ら、他人事だと思いやがって……絶っっ対に認めないからな! いつか返上してぇ、チーム名ももっとカッコいいヤツに変えてやるからなぁっ!」
そう騒ぎ立てる宮村を見ながら真田は笑う。そう、彼らはチームとして動く。戦いはまだ終わりはしない。
荒木という男も魔法使いなら、夜の町を徘徊する謎の着ぐるみ魔法使いだって存在している。そしていつかはこの仲間達と雌雄を決する日だって来るのかもしれない。
戦いは終わらない。それでも、魔法使いとなった今ならば。仲間と心が通じるならば。戦い続ける事がきっと出来る。
けれど物事には休憩だって必要だ。今は夏休み。それは子供にとっての天国。丁度良い口実も持っている。
(怪我が治るまでは、ただ楽しいだけでも良いよね?)
口にしたアイスティーはすっかり温くなっている。しかしそれは不思議ととても美味しい。
きっとこれは空気の味だ。幸せの味なんだ、と、心の中で噛み締めるのであった。




