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(にしても、宮村君は凄かったなぁ……知らない所であんなの練習してたとは)
先程の宮村のアッパーカット、それは何度でも鮮明に思い浮かべられるほど衝撃的だった。しばらく行動を共にしておらず、会話もろくにしていない。そのせいで知らなかった。真田が提案して覚えさせたボクシングのスタイルを自分の力で発展させていたとは。強くなろうと、前に進もうとした宮村の意思が胸に届く。
(僕は捨て駒だけど、やれる事を全力でやる事は悪くない、はず。勝つ努力をしたって良いはずだ)
胸に届き過ぎて、思わず真田までもが前向きになってしまう。ただの空振りしたパンチではない。一人の人間を突き動かし、それどころか諦めて死を受け入れようとしていた人間に残酷にも希望を与えた上で死なせてやろうとする、ある意味で凶悪すぎる威力を持っている。
だが、そんなパンチに殺されるのも、悪くない。
「さあ、これで後は俺達だけだ。やっと、テメェを殺してやれる」
額に滲む汗を拭って男が笑う。ここまで大きな消耗をしていない真田とは違い、疲労感を隠し切れてはいない。途中からの動きの悪さもそれが原因か。その点においては真田が有利と言える。が、それを覆して釣りが出るほど相性が悪い。結局は不利という事だろう。
「――叶 正治」
「叶……」
「冥土の土産ってヤツだ。これでお約束ってのは大事にするタイプでな」
男――叶が自ら名乗りを上げる。それはタイマンの礼儀作法と言うものなのだろうか。しかし真田は名乗らない。こちらの名前が既に把握されている事もあるが、何よりもプライドがある。意地でも個人情報を自分の方から漏らしてなるものかと固く心に誓っているのだ。
叶が指の関節を鳴らし、左足を引いて半身に構える。相性から防御に限界まで気を遣う必要が無いが故に取る事が出来る戦闘態勢。
「さっきまでは数も居たから戦いに付き合ってやったけど、こっからは違うぜ。さあ……殺し合いだぁぁぁあっひゃっひゃっひゃっはぁ!」
瞬間、まるでその場だけ重力が何倍にもなったかのような圧を感じ始める。地面がひび割れ、足が沈んでいる――というのは流石に錯覚だが、体が竦んで動かなくなったことは確かだった。全開も全開、攻撃らしい行動など少しもせずただ立っているだけで立ち向かう気力を削いでくるような圧倒的な魔力。戦闘中は滅多に気になる事のない手首の疼きが止まらない。
(先に動くのは……どっちだ)
ひとしきり笑った叶はまだ笑っているように口の端を歪めたまま真田を睨め付けている。好戦的ではあるが攻め込んでくるつもりは無さそうである。先程の宮村戦で少し懲りたのか、接近には注意しているようだ。もちろん接近しなければ戦えないのだが、タイミングをしっかりと見ている。
ゆっくりと真田が体勢を低くして、足に力を込める。ジリ、と靴に踏まれて地面が呻く。もちろんこちらは単純な接近戦に持ち込むつもりは無い。戦う術を持たないのだから当然。正確に言えば、ボクシングの本に書いてあった事は覚えている上に動きは鮮明にイメージ出来るのでそれを使って戦えない訳ではない。ただ強く大きくした真田の炎は至近距離では常に相手の魔力圏に入っていると言っても過言ではない。小さくすれば与えるダメージも落ちる。炎の大きさとダメージ量、これらを両立がどうも出来ない。
だからと言って炎を消して単純な殴り合いにすれば真田としては自分の能力の全てを捨てる事となる。相手だって身体能力は上がっているのだ、魔法使いでも何でもないただの真田と叶が殴り合っているのと変わらない。喧嘩となれば勝てるはずがない。
策なし、勝機なし、攻め手なし。これから戦おうとしているというのに初手が一つも思い付かない。もっとも、そんな事は予想していたから死ぬ事を前提で考えていたのだが。
(ホント、どうしたもんかなぁ……とりあえず何かやってみるしかないんだけど、何かって何だろ)
初手をいくつか考えて、そこから次の行動をいくつか考えて、相手のあらゆる行動に対しての対応を考えて……そうして如何に戦うのか考えるのだが、いくつかも何も一つたりとも思い付かないのだからどうしようもない。
(とにかく無策、直感でやれるところまで頑張る!)
両腕を激しく燃やす。無効化されてしまうが、これしか出来る事は無いのだ。あわよくば呑み込むように燃やす事も可能かもしれない。あるいは何度も足を焼き蓄積ダメージで腕輪の破壊を狙うか……何にしても『運が良ければ』という前置きが付く事は避けられない。
右手は軽く握って、左手は親指に他の指を引っ掛けていつでも弾く事が出来るように準備。そして一気に前進。遠距離は不利でしかない、近距離も不利だが一縷の望みくらいは残されているはずだ。
叶もまた両の拳を握り締め、顎の辺りの高さで構える。衝突する視線、叶がニヤリと笑う。到達した中距離と近距離の中程のポイント、手は届かないが、長物か何かの武器があれば届くようなそんな距離。左腕を思い切り伸ばして、指を弾く。炎から火の粉が分離して、叶の顔面へと飛ぶ。ダメージは小さいだろうが動揺を誘うには充分。それだけのダメージを与えられるならば、相手も防御せざるを得ない。
相手も腕を伸ばし、出来るだけ遠くで火の粉を消滅させる。小さいので消えるのは一瞬だ。顔面に向かって来る攻撃を防御する事で、一瞬だけ視界を手が遮る。その一瞬。
「っ!」
景気付けに発しようとした声を途中で飲み込む。出来るだけ気取られないように。右腕を横薙ぎに振るう。低く、足元を狙って。上下のコンビネーション、宮村の戦いを見て覚えた事。反応が遅れ、無効化も回避も難しいはずだ。反応が必要ならば、だが。
「ォラァ!」
喉の奥を抉りながら出てきたようなガラガラと涸れた声。それと共に行なわれた行動は、そもそも真田の攻撃に対する応手ではなかった。地面を蹴って、勢いをそのままに飛び前蹴り。体は空中、炎は空振り、そして叶の蹴りが真田の胸に突き刺さる。体の内側から、戦いの中で何度か聞いた事があるような嫌な音がする。肋骨の音。一撃でへし折られる、侵食した魔力をも利用した強力な蹴り。
「がっ、ぐ……ふっ……!」
体のどこかを掴まれていた訳ではない、少し離れた場所からの飛び蹴りだ。骨を折るほどの威力を持ったそれは真田の体を吹き飛ばすにも充分なもの。体が転がる、胸の辺りが痛みを通り越して熱い、声を出すつもりも無いのに口から勝手に零れ出る。
(一発当てればそこから流れで……なんて思ってたけど、駄目か! こっちの攻撃なんか完全に無視……というか読まれてた? 分かりゃしないけど、とにかく冷静だ……面倒だなぁ)
慌てて立ち上がる真田であったが、叶はその光景を見ているだけだ。追撃しようとする素振りも見せていない。恐らく、少なくとも真田に元気がある内は攻撃を誘ってカウンターダメージでの殺害を狙っているのだろう。自分から行動して窮地に陥る事は無く、何より相手の攻撃を叩き潰し、侵食した上で打撃を与える快感がある。なるほど殴り合いが似合うと思っていたが、このような戦いも叶の好みかもしれない。
汗で貼り付く前髪をかき上げると少しだけ視界が鮮明になったような気がする。目を細めて相手の様子を窺う。どこかに隙が無いか、どうにかすれば一撃くらいは叩き込む事が出来ないだろうか。
「良い目じゃねぇか、真田ァ。何とかして全力で殺してやろうってぇ目だ、テンション上がってきたぜ」
「まあ、どうにか倒そうってのは確かなんですけどね。隙の一つでも見せてくれれば、もっとテンションの上がる戦いをプレゼントするんですが」
「そいつはお断りだ。自慢じゃねぇが、こんな苦戦したのは初めてでなぁ。これ以上にボコされちゃあ堪ったもんじゃねぇ」
会話をする間も叶は付け込めるような隙を出さない。真田の手足を注意深く観察し、僅かな動きも見逃さない構え。目線ではなく実際に行動を起こす手足だ。以前、宮村と戦った時に行なったようなフェイントもきっと叶には通じないだろう。あれはあの場の独特の緊張感が作用したものだ。すっかり調子を取り戻し、強者の傲慢さと冷静さを持ってこちらを見据える叶はフェイントに釣り出されはしない。
「僕がボコボコに出来ると思ってるなら、買い被り過ぎですね」
「舐め過ぎると痛い目を見る。戦いの中で成長してるってワケだなぁ」
(本当に……さっきまでの勝てて当然って感じが薄れてる。ムカつく奴……)
脳内だけではあるが、真田は大いに苛立っている。思えばこれは叶との初めてのまともな会話であった。
真田も人との付き合いが増えてきて、少しだけ自分の事が分かってきているつもりだった。自分の素を出しても良いと思える、頭を使わずに会話して良いと思える好ましい相手とは比較的すぐまともな会話が出来るようになる。今までは好ましいと思うほど人に接していなかっただけなのである。
ならば、これほどスムーズに会話をしている叶の事を好ましく思っているのか。答えはもちろん『否』だ。少なくとも好意は微塵も無い。つまり、真田は嫌われても構わないような好ましくない人間に対しても素を出して普通に会話が出来る人間であるのだ。
憎しみとは少し話が違う。ただ嫌いなのだ。その感情をも魔力に変えて、まだ戦う事が出来る。拳を握れば力がこもる、気合を入れれば炎が灯る。
(コンビネーションが見切られたワケじゃない……んだよな、多分。それならまだ使える。目がよく動いてる……大方、手と足を見てる。だったら近付いてしまえば手足を捉えにくくなる! や、でも近付いたら魔法もろくに使えなくなるし……)
思考は暗い迷宮の中。相手が待ちの姿勢でいてくれるために生まれた時間、使わねば損とは言え、答えの無い疑問に随分と頭を回している。
選択肢としては、文字通りの『当たって砕ける』しかない。しかし、真田は既に希望を見てしまっていた。希望があるから、勝負を諦められない。希望があるから、それは駄目なのだ。
真田の頭の中で何かがチクチク、シクシクと訴えかけている。




