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共にいる時間が長くなるという事はそれだけ会話をしないといけない、会話が無ければ空気に耐えられない。そう思っていたために最初は早く別れようと思っていたのだが、実際に共に歩き始めると男はすぐ自分から話しかけてくるのだった。これに返事を返すだけで自分から話題を持ち掛け必要がなくなる事に真田は安堵する。
「案内してくれるんだから自己紹介もしっかりとしておかないとな……私は麻生だ、五十も手前なんだが、年始早々から風見の方に転勤になってね。まぁ、この歳になっても独り身だったのがむしろ幸いだったと言うべきか……」
そう言って男、麻生は自嘲気味に笑った。《風見》とは電車で三十分ほど離れた場所にある都会だ。まさに閑静な住宅街と言うべき特徴の少ない旧杜市一帯と比べるとビルも立ち並び、ショッピングにも適しているし、飲食店も多い。つまるところ、いわゆるデートスポット的な場所が多いのだ。もちろん、真田は時々近場で見付からなかった本を買いに大きな書店に行くと言ったような用途でしか訪れない。
「……飛ばされたんですか?」
「どうして君はそういう事はハッキリと言えるんだい?」
思わず口を突いて出てきた言葉は苦い笑みを浮かべていた麻生を驚かせるには充分過ぎた。どうやら麻生も真田が何かを喋る時にスムーズに言葉が出ていない事に気付いてはいたようだ。
「一応、私の名誉のために言っておくが、飛ばされたであるとか、そう言った事ではないんだよ?」
「本当ですか?」
「いや、何で疑われたのか分からないんだが……何だい、君は物事を悪い方へ捉える癖でもあるのかい?」
「ご、ごめんなさい……その、えと、あまりプラス思考とか得意ではなくて……」
「いや、そんな話ではないと思うけれどね? 人の事までマイナスの方向に考えなくても良いんじゃないかな?」
そんな気の抜けたような会話を経る事で真田はさらにこの男とはあまり苦の無い時間が過ごせるだろうと確信した。
道案内に意識を持っていかれていた真田はあまり頭を使わずに言葉を発していた。相手に失礼ではない言葉を選びに選んだ結果として言葉が出て来ずに話す事ができなくなる彼にしては珍しい事だ。思い返せばとても失礼な物言いで呆れてしまわれたようではあったが、それでも特別に気分を害しているようには見えない。
もっとも、気分を害している事を隠しているだけかもしれないが、それができる大人な相手というだけで真田にとっては気が楽だった。
「まったく……ところで君は……えーと……」
「あ、ごめんなさい、その……真田です」
「真田君か。真田君は高校生かい?」
「あ、はい。その……今年で二年です」
「そうか……学校は楽しいかい?」
「え……は、はい。勉強は、あまり好きじゃないですけど」
大嘘だ。学校を楽しい場所だと思った事は無い。もちろん、特別に嫌な場所だと思った事も無い。楽しいと思うほど親しい友人も嬉しい事も無く、嫌な思いをさせられるほど誰かと関わる事も無い。学校は真田にとって心の底から《無》の場所だ。
しかし、そんな事をいくら話しやすい相手であろうと先程会ったばかりの見も知らない人物を相手に話すほど愚かではなかった。当たり障りのない、極めて一般的な高校生の言うような言葉で返す。
その返事を聞いた麻生は、どうやらその言葉を信じたらしく笑い始める。
「ははは! そうかそうか、私も学校の勉強は好きじゃなくてねぇ。でも学校は良い。高校での友人は一生ものだと言う……多くが詰まった三年間だ、大切に過ごしなさい」
「は……はい……」
その大切に過ごすべき三年間の内、一年間は無の時間を過ごした。残りは二年、その時間を大切に過ごせるだろうか。真田は変わりたいと思った。しかし、それがいつ叶うのかは分からない。腕輪を巡った戦い、それはいつまで続くのだろう。腕輪が無くなっても変わるために行動する事はできるはずだが、いつか本当に変わる事ができた時、その大切な時間はどれほど残っているだろう。残っているのかも分からない。そう考えると真田の返事は無意識ではあるが、暗いものへと変わる。
すると、その変化に気付いたのだろうか、麻生は微笑みながら口を開いた。
「真田君……《ライフ・イズ・マジック》だ!」
「は……はぁ?」
あまりに唐突だったその言葉の意味は分からなかった。しかし、マジックという単語にはドキリとさせられる。マジック、つまり魔法。それはまさしくピンポイントに現在の最大の懸念事項である。
「ふふ、私のモットーだよ。人生というのは凄いんだ。君は将来の夢はあるかな?」
将来の夢。幼児期ならまだしも、この歳になって一日に二度も聞かれるとは思っていなかった。つい先刻も口にした答えを繰り返す。
「いえ……まだ、特には」
「そうか……真田君、夢は大きく持ちなさい。世の中のプロスポーツ選手、パイロット、医者、お花屋さんにケーキ屋さん。それらは誰かが夢見て叶えた姿なんだ。……まぁ、家業を継いだだけの所もあるかもしれないが、それはともかく。他にもミュージシャンや俳優、漫画家、芸人。実際に叶えるのが難しい職業も多い。叶える事など不可能だと言われてきただろう、それでも叶えた姿なんだ。叶えてみせると胸に想いを抱き、人生を駆け抜けた姿。分かるかい? 人生にはね、やってやれない事は無いんだ。人生に叶えられない夢は無い。もっと言うと、人生はどんな夢でも叶えてくれる。どうだい、それって魔法みたいだろう?」
大人の声、大人の話し方。しかし、その顔は、その目は、まるで子供のようにキラキラと輝いている。
「さっき、君の様子が少し変だと思った。きっと何か思う所があったんだろうね。それは私は知らないし、正直に言うとそんな事を相談されても困る。だから、その想いは自分の中に閉じ込めて、全力で生きなさい。その想いを遂げようと努力したのなら、そこに必ず魔法は生まれる。《ライフ・イズ・マジック》、人生は魔法さ」
この男は一体どこまで見透かしているのだろう。先程の真田の様子だけで、下手すれば学校が楽しいと言った嘘まで繋げられたかもしれない。もしかするとそんな自分を変えたいと思っている事も。
だが、そんな事を直接口にはしない。何かを察しても少し遠回りにアドバイスを送るだけに過ぎない。
初めて知った。これがきっと大人というものなのかもしれない。麻生の優しげな笑みに釣られて真田は小さく笑った。本当に小さな表情の動きではあったが、これほど表情を動かしたのは久し振りだった。
そして、限りなくゼロに等しい真田の中の尊敬する大人に一人加わった瞬間でもあった。
《ライフ・イズ・マジック》、そんな言葉を胸にしまい込んで考えに耽りつつ歩く。そうすると会話は無くなったが、最初に不安がっていたのとは違う、いわゆる気にならない沈黙と言うものだ。視線は地面に落とし、たまにその視線を上げて現在地を確認して道を選択する。頭の中ではルート検索と考え事が同時進行している。
悩み事について考え込んでいると汲んでの事だろう、麻生も話しかけるような事はしなかった。




