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普段ならば終わり次第すぐに教室を出て行く真田であったが、この日はまだ座ったまま。立ち上がるにはまだもう少し勇気が必要だった。そんな彼の所に荷物を持った宮村がやって来て声を掛けるのだが、それに対して真田は申し訳なさそうに首を左右に振る。
「真田、行こうぜ」
「ん……ごめんなさい、先に行っててもらえますか?」
この返答には宮村も驚いたのだろう。漫画のように目を真ん丸にしている。それもそうだろう、この後ですぐに同じ場所に行く事が決まっているのだから、普通に考えて行動を共にした方が良い。まして、そうそう用事など入らないであろう真田なのだ。驚くのも仕方がない。
「先にぃ? どした」
「や、まあ、ちょっと用がありまして」
「用ねぇ、待つぞ?」
「悪いですよ。それより先に行ってちょっと遅れるって伝えてください。僕、連絡取るのって苦手なんで」
正直に言って真田は電話もメールも大嫌いだ。もちろん仕方のない状況ならば腹を括って電話でも何でも掛けるが、そうでなければ連絡を受ける事だって避けたい。そんな性格は宮村も把握はしている。だからこう言えば呆れ半分で従ってくれると確信していた。どんな話になるにせよ、宮村には知られたくはなかった。そもそも雪野と揉めている事も察してはいるのだろうが、正式に知られたくはない。
もっとも、割合で言うと七割程度は連絡を自分で取りたくないという理由が占めている事は否めないのだが。
「苦手だからってなぁ……ま、良いか。そんじゃ、遅れ過ぎんなよ?」
「はいはい、分かってます」
思った通りに、苦笑いしながらも宮村は納得してくれた。持つべきは理解のある友(だと少なくとも自分は思っている存在)である。言い方は悪いが、これほどまでに都合良く動いてくれるともう感謝感謝である。
軽く手を振りながら、宮村は足早に教室を出て行った。一息ついて雪野の方を見てみれば、まだ教室の中に居て、朝と同様に吉井と会話をしている。今日は時間があれば常に一緒にいるように思える。すっかり仲直り、良い事だ。
(さ、て……)
鞄を手に取り立ち上がる。少し勢い付けられたような気がした。まだ覚悟は決まりきっていないが、現場には行けそうである。
呼び出されたのは体育館の裏。外だ。靴に履き替えるとそのまま帰りたくなってしまうのは真田の意思が弱いせいだろうか。いや、あまりに強すぎる帰巣本能だと思いたい。その方が何となく良さそうな表現ではないだろうか。
普段は真っ直ぐに歩いて帰る道を途中で曲がって寄り道をしなければいけない。それも大いに気の重い不本意な寄り道である。
(あー……胃が痛い。ただ行かないって選択肢も無いんだよなぁ……)
ここ一ヶ月ほど胃を痛めっぱなしのような気がする。状況という存在は常に真田を振り回してくる。かと言って避ける事、関係を断つ事もできない。誰よりも何よりも厄介な相手なのかもしれない。
体育館の方に向かうには特別教室棟の近くを通る必要がある。体育館へは校舎の中から行けるので、放課後は即帰宅派の真田は二年生ながらもこの辺りにやって来た事は無かった。学校自体は通い慣れたものだが、意外と新鮮に映るものである。
その時、コンコンと軽く窓が叩かれるような音がした。別に気にするようなものではないのだが、そこは小心な真田。思わずチラリとそちらの方を見てしまう。すると、校舎の中から真田を見て手を振っている人物が居た。
「お、だっちゃん。やほー」
「ああ、どうも――」
「フルネームで」
「ぐ、ぅん……ど、どうしたんですか、こんなとこで」
レージ氏(苗字不明)である。考えてみれば相方共々、教室から出た様子は無かったがどうして特別教室棟の方に居るのだろうか。疑問に思って問うてみた。決してフルネームがパッと思い出せなかったので話を強引に逸らしてしまおうと思った訳ではない。ただこれほどまでに確実に真田の弱点を突いて来るとはレージ氏もなかなかやるものである。
真田は純粋に疑問に思っただけであるが、聞いている分には話を逸らしたようにしか思えないだろう。純粋に疑問に思っただけなのだが。だが彼はそれを気にする様子もなく笑っている。まったく好人物だ。宮村にレージにショーゴ。身の回りがやたらと善人なせいで真田が相対的にさらに価値の低い人間のように思えてくる。マイナス思考加速中である。
「あ、誤魔化した。まぁ良いけどさ。俺はちょっと職員室にお呼ばれしちゃっててさー」
「何でそう頻繁に呼び出される事があるんです」
「いやいやいやいや、きっと《真面目で賞》的なのを俺にくれるために呼んだんだって」
「仮に貰えるとしてもどんだけ中途半端なタイミングでどんだけひっそり表彰するんですか」
「なっはっは、やっぱ違うかなぁ。しゃーない、ちょっと怒られてくるわ」
気の抜けた笑いと諦めたような物言いに思わず真田も釣られて笑ってしまう。この瞬間、間違いなく何の憂いも無く普通にリラックスしていた。考えてみればレージとショーゴは出会ったきっかけ以外は魔法に一切関わりの無い存在なのだ。これが青春。悪くないではないか。
「ま、頑張ってくださいね」
「おう。そんじゃ、またな」
「はい、また」
適当にも聞こえるエールを送って別れる。先程よりもさらに気分はマシになっていた。最初に比べると雲泥の差と言っても良いほどの気分である。
(よし、ちょっとだけ気が紛れた。ありがとうございます、なんとかレージさん……僕も頑張ります)
ただフルネームはやはり覚えきれていなかった。
どちらが堺でどちらが葛西なのか、何とか上手く定着させる方法がないものかと思案している内に目的地へと到着した。注目すべきは、そんなどうでも良い(と言うのも凄まじく失礼な話だが)事を考えながら訪れたという事である。
これから始まる事を考えると気が滅入ってしまうのは変わらないのだが、それを考えないようにする事ができるほど気が楽になっている。つくづく、周りの人々に支えられて生きている。もっとも、それを自覚するのはもっと後になってなのだが。
「ふう……ううううん、つっかれたぁ……」
トスッと鞄を地面に置いて大きく伸び。そもそも朝には学校に行く事に対して気を重くしていたのだ。それどころではない感じで半日を過ごしたが、知らず知らずの内に授業を受け切った疲れは溜まっていた。
(今日はこれからもっとバタバタすると思うと、地獄だな……)
話をする、カフェへ向かう、会議をする、話が纏まると下手すれば今夜から何かしらの行動を始める羽目になる。激動の一日だ。不思議と良い事も悪い事も、出来事と言うのは一日に徒党を組んでやって来る。もう少し何でもない一日に割り振ってくれても良いものなのだが。
(とりあえず、できるだけ早く波風立てないように話を付け――)
何とか話を早く終わらせようなどと、失礼な事を考えていた真田。その時、彼の背後で何かが動いた。それは人だ。人の気配。先程までは誰も居なかった場所に今、誰かが居る。物陰に潜んで気配を殺していた誰かが。
背中に感じた気配に真田が振り返ろうとしたその時、彼の右手首をその誰かの手が掴んだ。そして、世界は変わる。
まるで全身の末端という末端に重石をぶら下げられたかのようだった。圧し掛かるようではなく、地面に引っ張られているかのように体の重量が増す。体中にまるで力が入っているように感じない。それでいて、体の動きそのものが止まる訳ではなかった。手首を掴まれたままで振り返ったそこには、知っている人物の姿があった。
「ぃよう。こんにちは、真田 優介君?」




