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進路指導が終わってから次の生徒を呼ぶように言われたのが、教室の中を覗き込むだけで気付いてくれて勝手に指導に向かってくれた事は人に声を掛ける事を苦手とする真田にとって大いに僥倖だった。
相手をどう呼び、どう話せばいいのか分からないのでクラスメイトにすら話しかける事ができない。真田が自覚する数多くの短所の一つだ。
そうして帰り道。頭の中は色々な考えで埋め尽くされている。進路の事、成績の事、性格の事、等級の事、変わりたいと思う事、そして魔法の事。魔法の事に考えが至ると体育の時間の事を思い出し、その後の陰口を思い出す。そうすると胸中には普段よりも更に暗い感情が湧き出て、気持ちが沈む。
そんな、どうしようもなく暗い気分とは正反対に空はスッキリと晴れていた。マイナス26.7等星の太陽が少し傾きながらも明るく照らしている。もう夕方と呼ぶべき時間なのだろうが、春の夜はまだ遠い。明るく、暖かく、麗らかな世間は少し浮かれているようにも見える。街も人も動物も植物もすべてが少し明るく暖かい、そんな気がした。
真田の家は住宅街の端。帰るには住宅街を抜ける必要がある。昨夜、恐らく迷惑をかけてしまったであろう全力で駆け抜けた道だ。住宅街から真田の家を挟んで向こうにコンビニがある。家に帰る前にコンビニで野菜ジュースを買い直そう、そう思いながら角を曲がった時だった。
(ん……誰だ、あれ)
住宅街を黒いスーツ姿の一人の中年男が歩いていた。それは普通だが、気になったのはその男に見覚えが無い事だ。仮にも一年間歩き続けた道、様々な人を見てきた。登校する子供、通勤する大人、下校する子供。早めに家を出る真田がこの道を通る時はちょうど登校や通勤のために家を出る時間であるため、どの家にどんな人物が住んでいるのかは大まかではあるが把握している。
角を曲がって左手の一軒目、表札を見ると《芦川》と書かれたその家からは黒縁の四角い眼鏡をかけた夫と小学生の息子が出てくる。どうでも良いが、息子が玄関を出て来る時に夫婦が軽く揉めている声を聞いた事があるため、仲の方は少し怪しい。
右手にある三軒目、《鷹野》と書かれた家は子供はいない。夫婦の共働きで、こちらは反対に仲睦まじい様子でスーツを着た二人が出てくる姿を見る。
このように、持ち前の記憶力で妙にこの辺りの家族事情に詳しくなっている真田だが、今目の前にいる男には見覚えが無かった。イメージチェンジ、転職、再就活。様々な可能性を考えたが該当しそうな人物はいない。そんな怪しい男は周囲をキョロキョロと見渡していた。セールスマンかとも思ったが手には荷物など何も無く、その可能性も低い。そんな様子であるため泥棒と言うのも考えにくかった。これでは仲間でもいない限り盗品を運ぶ事ができない。
(じゃあなんだ? 見覚えが無いから多分この辺の人じゃない。でも荷物が無いのは何でだろう。荷物が要らないって事がハッキリ分かるほど目的がしっかりしてるって事か? で、でもでも、何か探してるみたいにキョロキョロして……ん?)
いくつもの考えが頭の中で渦巻いた真田が至極当然な一つの考えに到達した瞬間、その男はそれが確信に変わる《ある物》をポケットから取り出した。
(紙だ……やっぱり、道に迷ってる……とか?)
手にしている紙には住所が書かれていて、その場所を探しているのだが地理に疎いその男は迷ってキョロキョロとしながら歩いている。こう考えれば一番自然であり、まずはこのように考えるのが当然なのだ。
そして真田は悩み始める。家に辿り着くためには今いる道を真っ直ぐ進む必要がある。そうすると困っているであろう男の横を通り過ぎる事になる。今までならばそんな事を何とも思いはしなかった。困っていようが自分には関係は無い、そして人助けなんて恥ずかしい。そんな思いでごく当たり前に無視してきた。だが、変わりたいと自覚してしまった今はどうだろう。これは自分が変わるための一歩なのではないだろうか。他者に興味を持つ、それはついさっき自覚したばかりの課題だったはず。
悩み続ける。真田はクラスメイトのような顔見知りにも話しかけられないような人間なのだ。見ず知らずの赤の他人に話しかける事などできるだろうか、いや、できない。できないからこその人見知りなのだ。少し歩く速度を速める。このまま通り過ぎよう。
しかし、そんな時にふと思い至った。
(でも、この人とは二度と会わないんだよな……次の日また会うクラスメイトの前で恥かいたりしたら嫌だけど、もう会わないなら……)
旅の恥はかき捨てと言うが、似たような事だ。その場限りの相手なのだから恥をかくような事があっても自分が忘れてしまえば良い。それで全部お終いだ。そう考えると真田は気分が少し軽くなったように感じた。さらに少し勇気を振り絞り、歩調を速めて口を開く。
「あ、あの……その、な、何か、えっと、お探しですか?」
言葉に詰まったのはご愛嬌と言う事にしたい。それだけ彼にとっては勇気の必要な行動だった。声を掛けられた方の男は真田を見てキョトンとした表情を見せたが、その顔はすぐに迷惑がられたらどうしようと言う真田の不安を打ち消すように笑顔へと変わる。
「ありがとう。君はこの辺りに住んでいるのかい?」
「は、はい。えっと、この先にちょっと行った所に」
男の声は低く、そして穏やかだった。落ち着いた大人、それが真田にとって一番まともに話せる相手だ。相手の熱量が大きいと着いて行けず、熱量が少なければ空回る。相手が自分の熱量に合わせてくれる事、それが非常に話しやすくさせる。
「実はこの住所を探してたんだが、迷ってしまってね。私としては方向音痴のつもりは無かったんだが……」
そう言って差し出された紙を手に取って、そこに書かれた内容を確かめる。住所には間違いなくこの一帯、旧杜市と書いてあったが、その後に続いた文字には思わず首を傾げる。
「えっと、東旧杜町……ですか?」
「ああ。旧杜駅の前にあった案内掲示板を見て、そこから真っ直ぐ東の方向に向かったはずなんだ」
男は近くの電柱を見る、そこには現在地の住所が書いてあった。書かれている町名は新山町。それがここら一体の町名だ。
「旧杜町から東に行ったはずなのに新山町に着いていたんだ。通り過ぎたかと思って注意しながら道を戻ったけれど、また旧杜町。もう一度戻って来て、今度はもっと東に行ってみたんだが……ふむ」
どうやらそれでも辿り着かず再び戻った時に真田が声を掛けたらしい。その話を聞いて得心したように頷く。その混乱の理由をしっかりと説明できるためだ。
「その……ですね、まぁ、お分かりとは思いますけど旧杜町の東隣には新山町があります。その東には大室町、そこから東に行くと風見市に入ります」
「なにぃ? だったら東旧杜町はどこにあると言うんだい?」
「えと、南です」
「南ぃ?」
「いえ、その……正確には南東と言いますか……。旧杜町の南東、新山町の南西という微妙な所にありまして」
「それは……ふむ、間違いなく《東》旧杜町ではあるね。一応ではあるけれど。でも何だろうな、納得いかない微妙な気持ちだ」
初めてこの辺りにやって来た人はいちいち地図を見て移動するような性格でない限りほぼ例外無くこの三つの町の位置関係に混乱させられると小耳に挟んだ事があった。
「南東の方に行けば良いのか……いや、ここは新山町だから南西か。ややこしいな……君、良かったらで良いんだが、ここからの道順を教えてもらって良いかい? 目印になるような物とか」
「め、目印、ですか……?」
最もマシに話せるとは言えどもそこはやはり極端なまでの人見知りである真田、常に大きな負担の掛かっている会話だ。頭の中に道順を描こうとしたが目印となる物があるかどうかが抜け落ちてしまっている。歩いた距離の感覚と視覚情報があれば案内はできるだろうが、それが無い口頭での案内は難しい。
可能な限り短く会話を終わらせたかったという思いはあったが、ここまで位置関係を細かく教えた身でありながら案内はできないと言ってしまう事もまた不可能だ。そして渋々ながらも決断する。
「えーと……その、目印とかは、ちょっと分からないんで僕も着いて行って案内しましょうか?」
「良いのかい? 学校の帰りだろう? 君の帰りが遅くなってしまうが……」
「は、はい。少しくらいなら遅くなっても大丈夫ですから」
「うーん、そうか……よし、ではお言葉に甘えさせてもらおうかな。ありがとう……! とても助かるよ、本当にありがとう!」
男は破顔して大いに喜んだ。その顔を見ると自分は良い事をしているのだろうと理解できて、少しだけ自信が付く。その少しの自信は少しだけ緊張を緩和した。その緩和が先程よりかは少しだけ滑らかに言葉を発する事を許す。
「では、えっと、早速行きましょうか?」
「ああ、お願いするよ」
そうして二人は連れ立って歩き始めるのであった。




