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真田 優介は焦っていた。
サンドイッチを食べ終えて、篁に会えない以上はもう用件は無いと店を後にした時の事。そのままアパートに帰るのも良いが、他に何かする事がないかとボンヤリ駅に向かって歩いていた時の事だった。
つい先程まで晴れ渡っていた空が急速に曇り始め、いきなり強い雨が降り始めたのだ。いわゆるゲリラ豪雨とかいうものだ。いくらなんでもゲリラ過ぎるだろう。雷まで鳴っている7.恐ろしいものである。
何が恐ろしいかと言えば、真田の手にはついさっき買ったばかりの本があるのだ。袋には一応入っているが、そんなものノーガードと変わらない。このままでは濡れてしまう。そんな理由で大いに焦っていたのだが、焦っているばかりではどうにもならない。服の下に袋を入れて何とか守ってはいるのだが、既に頭はビショビショだ。
(ヤバい、ヤバい、ヤバい……傘! は、駄目だ、雨強すぎて濡れる。雨宿り! コンビニ!)
運の良い事に、駅に向かっていた真田の近くにはコンビニがあった。駅前のコンビニ。距離にしておよそ二百メートル。走って大体十秒。ザックリ世界記録の倍のスピードだ。これ以上は濡れずに済む。
そう思って走る事十秒。自動の扉が開くのをじれったく待ってから中に滑り込んでしまえばもう一安心。服の下から本の入った袋を取り出して深く息を吐き出す。この激しい雨足では傘を開いても効果は薄いだろう。どうせ少し待てばすぐに晴れる。それを待った方が得策。
などと考えていた真田の耳に、小さな声が聞こえてきたのは視線を上げたのとほぼ同時。そして、その声を聞いた直後に、真田もまた声を上げる事となる。
「あ」
「あっ……あぁぁぁ……」
真田が見たのはレジに立った人物の姿だった。どこか見覚えのあるような気がするその姿。別に、普通の男だ。少し顔は厳ついだろうか。頭髪は短い。短いというか坊主だ。剃り込みが入っているせいでより印象を厳つくする。個性を出しているつもりかもしれないが、それくらいどこにでもいるだろう。普通の男なのだ、本当に普通の男。問題はそんな普通な男に見覚えがあるという事。
どこで見たのか。学校でだ。ならば生徒なのか。いや、違う。教師なのか。そうでもない。だったら何者なのだ。いつ会ったのだ。そう、あの日の夜。学校のグラウンドで出会った男。
「お前は……っ」
「!」
その男が呟くように言った瞬間、真田の思考は高速で巡り始める。どのように行動するのか。踵を返して店から出る、それはありえない。絶対に動揺を悟られるべきではないし、悟られたくない。答えは割と簡単に出た。何もなかったように店の奥に行けば良い。こちらが知らないフリをすれば向こうにはどうしようもないのだ。これは調子に乗っているのではなく厳然たる事実として、単純な戦力としては自分の方が強いのだから。
決してレジの方を見ないようにして歩を進める。あからさまな視線が背中に突き刺さっているが、それを気にしてはいけない。そして、陳列棚を挟んで相手の視界から逃れた所で、再び小さく息を吐いた。どうしてこのような状況になってしまっているのだろう。
あの男が誰かと聞かれたら、知らないと答えるしかないだろう。何故なら名前を知らない。強いて答えるならば、《海坊主》。そう、真田が初めて戦った相手。水属性の元魔法使い。真田に敗れて腕輪を失った、あの男だ。
かつて戦い、何も知らなかったとは言え殺した男が今、こうしてコンビニ店員などしている。何なのだろう、このシュールな状況は。一番厄介なのは、この店に真田以外の客がいない事だ。どこのコンビニもカフェも経営難なのだろうか。それともこの店が特別に入りにくいのだろうか。主に輩に見えるレジ係のために。この豪雨を受けて、他の人々はみんな駅の方に行ってしまっていた。電車には乗れる、広い。納得の選択である。真田もそちらに行けば良いのかもしれないが、一度入ってしまった以上はすぐに出るというのは変に意識しているようで躊躇われる。プライドが許さない。ここで他の客がいれば会計中にこっそり、あるいは背中にくっつくように一緒に店を出る事もできただろうが、そのどちらも自分一人ではできようはずもない。
(もう……何でこんな所で働いてんだ! めんどくさいなぁ、もう……)
そんな悪態は心の底からの叫びであったが、理不尽なものだ。本当に死んだ訳ではないのだからどこかで生活しているに決まっている。そして、一度は会った人物だ。遠くに居るはずがないのだ。もしかしたら今までもどこかでニアミスしていたかもしれない。それが今日、互いに認識したのである。
まったく、どうしてこうなってしまったのだろう。こんな事ならば少し濡れる事を覚悟して駅まで行ってしまえば良かった。そう考えても後の祭り。この状況をどうやって乗り切るのかを考えるのが先だ。
先なのだが、もうどうしようもない。どうしたってレジに接近しなければ外には出られず、他の客が入ってくる様子もない。
ならばどうするべきなのか。雨が止んで、普通に客が入ってくるのを待つのか。すぐにでも晴れるだろうと思っていたが、それも確実ではない。それに何より、真田としてもこんな面倒な思いをしたせいで疲れ切っている。もう早く帰ってしまいたい。正直、もう頭がどうかしていたとしか思えない。真田は軽く諦めた。「もう良いや、出ちゃえ」と、非常に軽い気持ちで決めてしまったのだ。
もちろん、そう簡単に出られるとは思っていない。なので、彼はとにかく集中した。ずっとレジに居る訳ではないだろう。奥に引っ込む事もあれば清掃をする可能性もある。意識をふと他に向ける事だってあり得る。いや。向かせれば良い。
真田の狡猾な頭脳が働き始める。店内には他に誰もいないので静かだ。音楽は流れているが、それもすっかり聴き慣れてしまったのか意識が向かなくなっている。真田ですらそうなのだから、あの店員だって曲はあってないようなもののはず。
飲み物を置いているエリアを見ると丁度良い事に、一本取ると奥から前進してくるタイプにもかかわらず、前から二本を取られているのに詰まっているのか一切前進していない、二本分他の商品よりも先頭が奥まった所に居る商品が目に留まった。その先頭に少し触る。本当に少しだ。動き出さない程度。しかし、その少しの接触によって絶妙なバランスは崩されている。じきにその商品は摂理に従って二本分前進する事だろう。他の音など耳に入らないも同然な店内にカラカラと音を響かせながら。
そう、真田はその僅かな音に一瞬だけ男が反応をした、そのタイミングで脱出しようと企んでいるのだ。無駄に回りくどい計画である。プライドその他諸々をかなぐり捨てて一気に走って逃げ出した方が良いのではないだろうか。とは言え、それができない所が真田の小さい所だ。
足音と気配を殺して棚の影を移動する。決して見付からないように、気付かれないように。気分はステルスミッション。息を潜めて、耳を澄ませて、彼は音がするのを待った。そもそも、この段階で何か間違っている事に彼は気付けていない。耳を澄ませなければ聞き取れないような音に頼ろうとしている辺り、相当どうかしていると言うかテンパっている。
まあ、このようなガバガバな考えが成功するはずもない。音が聞こえてきた直後に全速で店の外に出ようと思った真田であったが、扉が開くよりも早く低い声が耳に飛び込んできた。




