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真田 優介は逡巡していた。
午前十時、世の中はとっくに動き始めている時間。ドアスコープの向こうを覗き込み、この扉を開けるべきか否かを彼は大真面目に悩んでいるのだ。
夏休み。それは子供の天国、大人の地獄。無邪気に自由を謳歌する子供達と、それによって生活を乱される大人達との戦いの日々。
別に子供を名乗るつもりはないが、真田にとっても天国と呼んで差支えない日々だろう。夏休みに突入してからの彼の生活はごくシンプルだった。朝起きてはテレビを点け、朝食を取る。そしてゲームに興じたり録画した番組を視聴しながら時を過ごし、夜になったら夕食を食べ、テレビを観たりゲームをしたりして夜が更けるのを待ってから眠る。この繰り返しだ。
誰とも関わらない、関わる必要のない生活。一年前、初めて一人暮らしをして迎えたこの生活は本当に素晴らしいものだった。ここには何にも邪魔される事のない自由が、素晴らしき孤独が存在していたのだ。
そして今、彼は再びその素晴らしき孤独を心の底から楽しんでいる。誰かと関わる事が増えてきた事が、改めて一人でいる事の楽しさ、快適さ、自由さを教えてくれる。
この日、午前七時に携帯電話のアラームに叩き起こされた真田はとりあえずテレビを点けた。するとバラエティ色の強い朝のニュース番組が流れる。どうしても陰鬱とした気分になる朝を強引にでも盛り上げてくれるようで割と嫌いではない。先程まで話題のスイーツとやらを口にしていたアナウンサーが直後に神妙な顔と声でニュースを読み上げる役者顔負けの切り替えには感心するほどだ。
今日の朝食はパックのご飯に明太子、味付け海苔、インスタントの味噌汁。流石の彼も朝から鶏肉を摂取はしない。いや、食べたい事は食べたいのだが少し面倒なのだ。彼に作り置きと言う発想は存在しない。作ったら作っただけ食べちゃいたい。なので朝から料理もしたくないと鶏肉は諦めている。
食べ終え、片付けてから数時間。ダイニングのテーブルでお茶を飲みながらテレビを観ていた彼の耳に突然届いたのはドアチャイムの音。何故かリズムに乗ったその音は、誰がやって来たのかをこれ以上なく分かりやすく教えてくれているようだ。
本来、真田はドアチャイムが鳴ったからと言って対応などしない。何か荷物が届くならばそれは把握しているし、何より大切な用事なら不在の通知でも入れられる事だろう。某テレビ局にも受信料はしっかりと支払われているので集金もない。そんな状態で急な来客。それはつまり高確率で勧誘などのろくでもない用件であると断じても良いのだ。
よって、普段ならば対応しないのだが、今回ばかりはそうはいかない。こんな鳴らし方をする勧誘もそうはいないだろう。こんな鳴らし方をする相手は思い当たる彼の持論は間違ってはいない。確実に、ろくでもない。
そうと分かっていても無視する事はできず、(何となく気配を殺しながら)扉の前に立ち、スコープを覗くと、そこには手持ち無沙汰な様子で立っている男――宮村の姿。あまりに予想通り過ぎて、そして自由を謳歌していた朝から相手をするのはあまりに面倒過ぎて。彼は思わずこのまま無視してしまおうかと本気で悩んでいたのだった。
結果として、扉は開けた。いくらなんでもわざわざ訪れてきた友人を無視して追い返す事はできなかった。真田にもそれくらいの考えをする事はできたようだ。
「おっすー」
「……ども」
ローテンションな挨拶。一応出迎えはしたものの、真田はその来訪を喜んでいる訳ではない。この二文字だけの短すぎる挨拶は「何しに来たんですか早く帰ってください」と暗に言っているのだ。
しかし宮村はそれに気付かない。この男もなかなか人の考えを察する事のできない自分本位な人間ではないだろうか。
「つーか……ヒゲ剃れよ」
「はい?」
「その前髪はもう、アレだ、キャラとして認めるから……せめて他のとこは清潔感みたいなのを出せって」
「えぇー……」
確かに、鏡を見るとヒゲが生えているなぁと思う程度には伸びていた。しかし剃るのは面倒だ。肌が強いという訳ではないので気を遣うのだ。それにしてもこの不満げな反応、何となく誰かの影響を受けているような気がする。
「僕ってヒゲ伸びにくいんですよね。一週間くらい放置してやっと『あ、ヒゲ生えてる?』くらいなんですよ」
「ふぅん……ってこたぁ一週間以上は外に出てねぇから伸びてんじゃねぇか!」
「チッ……こんな時だけ推理力……」
「良いからさっさと剃れ!」
真田の胸を軽く押して部屋の中へと押し込みながら、宮村は言った。このまま引き下がると侵入を許す羽目になるなぁと思いつつ、渋々と真田は従って洗面所へと向かうのだった。
「知ってるか、宗教法人の設立には三年くらいの実績が必要なんだぜ」
「……急になんちゅうトークテーマですか……」
洗面所から出てダイニングへと向かった真田の耳にまず飛び込んだのは、そんな謎の話題であった。ちなみに目に飛び込んだのは当たり前のようにコップでお茶を飲みながらテレビを観ている宮村の我が家同然のくつろぎっぷり。この図々しさは少しだけなら見習えば、もしかすると良いものなのかもしれない。なお、もはや人間離れした体温になりつつある真田が点けていなかったクーラーが了承なく入っているあたり本格的に図々しい。ここまで図々しくなるのは少々アレかもしれない。
あまりに脈絡がなかったのでテレビに視線を向けてみれば、そこではニュースバラエティ番組が放送されている。コメンテーターが最近急激に拡大してきた新興宗教団体について話をしている。どうやらそこで法人化がどうとかの話をしていたのだろう。まさかこれほどまでに出処が分かりやすい知識をひけらかしてくるとは。
「僕は朝っぱらから宮村君と宗教について議論を交わしたくないんですけど」
「まあ、俺もだけどさ。――お、前髪フルオープン? 珍しいじゃん」
「顔洗う時に前髪上げるの忘れがちなんですよね」
真田は珍しく黒いカチューシャで前髪を上げていた。ちなみにこのカチューシャを彼はアクセサリーとは認識していない。認識としては前髪ストッパーだ。
後ろに持っていかれた彼の前髪は水で濡れている。どうせ前髪を上げる事となるのなら最初から上げる事を徹底すれば良いのに、彼はそれをしない。今が楽ならそれで良い、最高に規模の小さな刹那主義者だ。
真田が新しいコップを取り出して椅子に座ると、リモコンを手に取った。
「と言うか、勝手にチャンネル変えないでくださいよ」
「あれ、見てたん?」
「当たり前じゃないですか」
そう言って合わせたチャンネルからは、高らかな金属音が響く。映っていたのは高校野球だ。良い音を立ててヒットを打った打者が一塁を回って二塁へと到達する。いわゆる地方予選、その決勝戦だ。二対一で迎えた六回裏。ノーアウトで二塁の大チャンス。決勝戦と呼んで差支えない熱い戦いだ。
「お前、スポーツ嫌いだと思ってたけど野球とか観るんだな」
「観戦するのは別ですからね。野球は良いですよぉ、シーズン中はほぼ毎日、二時間以上も時間が潰せるんですから」
「なんて目的で野球観てんだ、お前は……でもこれ高校野球だろ?」
「目ぼしい選手の名前を覚えておくと良いですよ。目を付けて、ドラフトに引っ掛かるとテンション上がります。超上がります」
「結構ガッツリな楽しみ方してんな……」
元サッカー少年(現ボクサー)である宮村はルールはしっかり把握しているようだが、大いに興味があるという訳でもなさそうだ。頬杖をついてボンヤリとした目でテレビを見詰めている。
「今年は九重高校に面白いピッチャーがいまして……まあプロは難しそうですけど。あと、高校生の時は特に楽しいですよ。不意に知り合いが出たりしますから」
「あー、そっか。コイツらって同年代なんだよなぁ」
「もう負けましたけど、観てたら中学まで一緒だった人が出てまして。こっちに進学してたんですねぇ」
真田は一人暮らしをしている。それはつまり家を離れたという事なのだが、その家が近くにある訳でもない。彼は県外の高校に進学したのだ。なかなかの思い切りではないだろうか。そして、テレビで観戦していたら元クラスメイトが出てきたのだから面白い。高校生の時だからこそ可能な楽しみ方だろう。三年になった来年の夏はもっと面白いかもしれない。
「やー、ボッコボコ打たれましてね? エース負傷で二番手が先発、それが炎上してから登板したんですけど、はっはっは! ボロカスですよ。その人、なんかもうクラスを支配するタイプでですね? 体も声も大きくて、中学に上がって早々にスポ少で築いたコミュニティを最大限に活用して派閥を作り上げてまして……いやぁ大炎上でしたね!」
「お前、マジ性格わりぃな!」
前髪を上げているからこそ分かる、実に嬉しそうな笑顔。それはもちろん知ってる人間が試合に出た事が理由ではなく、気に入らない人物がボコボコ打たれて炎上した事が理由だ。
分かりやすい不良などだけではなく、威圧的な人物も真田は苦手だ。もちろん気の小さい人間は大抵そうだと思うが、彼に関してはその人物がちょっとしたトラウマのようなものになっているのかもしれない。過去の話、今ではもう気にするような事ではない。しかし、好きじゃないものは好きじゃないからしょうがないのだ。もう、これはどうしようもない。性格が悪いと思われてもどうでも良い。
「でも二年でベンチ入りして……三番手ですかね? 立派なものです。来年の夏に期待したいですね」
「ああ、そう……」
そんな謎の上から目線の発言を聞いて、宮村は呆れた様子でお茶を飲んだ。それに合わせるようなタイミングで実に気分良さげに自分もコップに口を付けた真田は、ブルリと身震いをしてから椅子の上で膝を抱えるものの、その顔はそれでもなおやたらと嬉しそうに緩んでいたのだった。
本当に、これが活躍を祈る表情ではない事が残念で仕方がない。




