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「ゆーすけぇぇぇぇぇっ!」
「へぅえぁおっ!」
走る足を止め、気持ちを落ち着かせながらゆっくり歩いて帰ったカフェ。中に多くの気配を感じるそこに、このような精神状態で入るのは勇気が必要とした。何だか光溢れるようなそこに自分が相応しくないような、そんな感覚。
それでも中に入らない訳にもいかない。中に入る事で注目を集める事は仕方がないと、そちらにも勇気を必要としながら軽い軽い扉を重々しく押し開けたその直後の会話(とも呼べないような何か)が前述の通りである。
出来事だけを列挙するならば、真田が扉を開け、吉井がヘッドスライディングでもするのではないかくらいの勢いで飛び付いて来て、真田の腹部に頭から突っ込み、真田がクリエイティブな悲鳴を発した。ただそれだけ。
図らずも抱き止める形となった真田は、冷たく感じる体を引き離す。冷静な対処のように見えたかもしれないが、いくらなんでもこのような状況は経験値が少なすぎる。表面上は冷静さを装いつつも、名を呼ぶ声は震えている。
「よ、吉井さん……?」
「見て見て! ほら! この私の、可愛い可愛い、シミも火傷もない顔!」
まさに喜色満面。そんな様子で見せ付けられた彼女の左頬は、確かに火傷の痕一つ残ってはいない、ただただ滑らかな白い肌。
作戦は完全に成功していた。目的を果たし、それによって最終目的も達せられている。きっと、これで良かった。ひとまず今はこれで良かったのだ。彼女は喜んでいる、心から。この笑顔を見る事ができただけでも、意味があった。
そう考えなければ、真田の心は砕けたままだ。行ないは間違った事ではなかったと自分で思い込む。そして、もう間違えない。これが、最終的に彼が至った考えであった。
ある意味で、彼女は救いの神と呼んで良いだろう。心を落ち着かせる事はできたとは言え、こうして彼女の顔を見なければどこまでも闇に呑み込まれていくようだった。そこに今は少しだけ光が差した、自己の正当化と表現するとあまり人聞きはよろしくないが、気持ちの整理という光が。光とは言っても、せいぜい一本の蜘蛛の糸が微かに反射した程度のものだ。これからいくらでも千切れ、見失う事ができる。
その糸を切らさないために、そっと。その糸を見失わないために、正直に。彼は思ったままに返事を口にした。
「……はい、凄く綺麗です。良かった……」
傍から見れば、きっと面倒なほど二人の世界だったに違いない。正確に言えば真田の頭の中に自分の事と彼女の事しかなかっただけなのだが。
それをありがたい事に打ち破ってくれたのは宮村だ。打ち破ったというのも読んで字の如く実力行使、二人の会話が終わったであろうタイミングを見計らって真田の肩をスパーンと良い音を立てて勢い良く叩いたのだ。
「真田、お疲れぇ!」
「くはっ……」
被害は甚大。宮村は未だに現在の自分の腕力というものを理解していない節がある。いや、肩が砕けたりはしていないのだから充分に力を抜いて叩いたのかもしれない。何故だかこのようなダメージは回復できないので、その加減は助かった。叩かなければ最初から助かるも何もないのだが。
そんな少々暴力的な遣り取りによって、どうやら本格的に自分達も会話に加わって良いと判断したのだろう(加わってはいけないという訳でもなかったのだが)、他の面々も声を掛ける。
「お疲れ、優介クン。本当に、よくやったわ」
「上手くいったじゃないか。おめでとう、真田君」
「俺……ちゃんと頑張れて良かったです。先輩のお役に立てて良かったです!」
口々に作戦の成功を祝う三人。日下だけは一体どんな感動があったのやら涙ぐんでいる様子であるが、それも含め、外からも感じられたような明るい雰囲気。人の心を察する事が苦手な真田でも分かる、心からの祝福だ。そもそも作戦だって全員が全力で力を合わせなければ成功などしなかっただろう。もちろんそれは駒ではない。仲間として。それぞれが上手くやるだろうと信頼をしていた……いや、信頼とは違うだろうか。それぞれ勝手に自分の仕事をこなした、その結晶かもしれない。
同じ目標に対してそれぞれがそれぞれの方向に動き、最終的に目標を叶えるのがこのチームだろう。人数が増えても厚くなっただけで合板は合板だ。そんな単板仲間がいなければ何もできなかった、それには自分も心からの感謝の言葉を伝えねばならない。
「はい。皆さん、ありがとうございました。おかげで……何とか、あの人を倒す事ができました」
深々と頭を下げた真田を、三人は笑って見ていた。頭を上げるきっかけになったのは、先程とは違ってポンと優しく肩に置かれた手。その手の主である人物、木戸店長はその後に手を打ち鳴らして宣言した。
「ほぉら、入り口で突っ立ってないでテーブルかカウンターの方に来る! 約束通り、祝杯だよ!」
その言葉を聞いて、カウンターの後ろからマリアがお盆を持って出て来た。上にはナポリタンと明太子パスタの乗った二枚の大皿が。続いて店長がホットサンドの大皿と取り皿を持って来る。どうやら食事まで用意されているようだ。確かに祝杯とは言っていた。が、想像よりもずっとしっかりと準備している。必ず成功させると信じていたのだろうか。いや、それよりも成功するんだろう? と圧力を掛けていたと考える方がしっくりくるかもしれない。
最後の最後に全てを出し切れたのは他でもない、その圧力、念に尻を蹴飛ばされた結果なのかもしれないと考えると、先程までの悩みが随分と下らない事のように思えて笑い飛ばせそうではないか。
そのように考えて密かに笑っていた真田に向かってズイとグラスが突き出される。一体誰がとその先を見れば、思いの外、下の方から手は伸びていた。そう、最も身長の低いマリアだ。彼女は何が不満なのか少し頬を膨らせている。
「はい、これ。……マリアだって頑張ったんだからね!」
グラスを渡すだけ渡して、言う事だけ言ってマリアは離れて行く。何が言いたかったのだろう。頑張っていた事など分かっているのに。
先程の真田の感謝の言葉が自分には向けられていなかったのではないかと考えて少し機嫌が悪くなって文句を言いながらアピールしてきた事を、彼には知る由もなかった。
烏龍茶が注がれたグラスが全員に行き渡った所で、宮村が店の中央で仁王立ちをした。片手にはグラス。せっかくの祝宴、思い切り盛り上げようとしている。
「よっしゃあ! そんじゃ、無事に作戦成功! それと吉井の復活を祝してー?」
威勢良く問い掛けるように語尾を上げた口上に続いて、「乾杯!」と全員の声が揃って店内に響いた。それぞれ近くの面々とグラスをぶつけ合って、軽やかな音があちこちから聞こえてくる。なお、当然のように真田はそれには加わらず隅の方でグラスを掲げるだけにしていた。
「いやー、ホントに俺の見事な走りを見せてやりたかったぜ。サッカーやってた時よりマジで走ったかも」
会話の中心となっているのはやはり宮村。彼の妙に高いコミュニケーション能力によって場はやたらと円滑に回り、これだけの人数がいて一つの話題だけで見事に盛り上がれている。こういうのが、いわゆるパーティーピープルとか言う輩なのだろうか。基本、相容れぬ存在。
とは言えども、宮村のドヤ顔活躍アピールにまで付き合うつもりはないらしく、同じ話題ながらも別の方向へとシフトしていく。
「あたしとしては、見たかったと言えば優介クンの戦いぶりよねぇ」
「宮村君側の作戦だと最後は誰も見ていないんだったね」
「そうなんです、おじ様。私も直前までは近くにいたんですけれど……んぐ」
口調はお嬢様状態なのにホットサンドを豪快に口に放り込む潔さ。これがギャップというものか。仲間が近くにいると最後の一撃を奪われる可能性があると考え極力、最後の戦いから仲間を遠ざけていたためこのような話になってしまった。自分の事が話に上がってくるとどうにも居心地が悪く、カウンターの端の席で少し尻を上げて座り直す。
「吉井先輩も気になるんじゃないですか? 真田先輩の戦いっぷり」
「え、私? うーん……気になると言うか、やっぱりちょっと怖いと言うか……」
「優介なんだから、カンペキに戦って勝ったに決まってるでしょ!」
「いよっ、出た出た、信頼感」
何故か全肯定するかのようなマリアの発言に対して宮村が茶化すと、場は笑いに包まれた。
妙に敵視されていたマリアの発言の意味も分からなければ、それによって笑いが生まれた意味も分からない。この何ともしがたい疎外感は、少し考え事をするには丁度良かったかもしれない。周りが賑やかだからこそ考えに集中する事ができる。考える内容はもちろん決まっている。
(僕は多分……これからも怒ってしまう事はあると思う。でも、それでも間違えないようにしよう。僕は魔法使いで……殺すために戦うんじゃない。絶対に……)
何かがあった時、それを抑える事ができるかどうかは分からない。やはり怒りに任せて行動する事もあるかもしれない。それでも常に、心の中に魔法使いとしての誇りを抱いておくべきだ。そうすれば、ここぞという時に愚かな殺人者にはならないで済むはずだ。彼にとっての魔法使いとは変わる事の証、この仲間達と共にいる事なのだから。きっとその事実が、怒り以外の感情を無理矢理に引っ張り出してくれるはず。ならばきっと、間違えない。
すると、そんなずっと一人だった真田とカウンターを挟んで店長が、中身の減っていたグラスを取り上げて注ぎ足しながら話し掛ける。
「アンタは混ざんないの? 主役なのに」
「ううん……僕はちょっと、苦手なんで。見てる方が好きです。宮村君が盛り上げてくれてますから問題ないですよ」
「……まっ、確かに。あんなのが先頭立って盛り上がってるのは私も苦手だわ」
そう言って笑いながら去って行った店長は、言葉通りあまり得意ではないのだろう、話には加わらずパスタを大量に取って口にしながら味に納得とばかりに頷いていた。何ともマイペースな事だ。
このメンバーが揃ってまだ一週間も経っておらず、集まるのはまだ二度目。さらに、吉井が加わったのはこの日が初めて。そんな出来立てホヤホヤのチームではあるのだが、なるほど(日下ではないが)自分達らしいと言えるような、不思議とそんな気がした。
見ている方が好きと言った真田は、たまに話を振られて焦りながらも、ずっと楽しげに騒ぐ姿を見ていた。目に、耳に、そして心に。焼き付けたこんな風景がいつか、自分自身に力を与えてくれる事もあるだろうと信じて。




