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(火事場の馬鹿力なんかじゃない、違ったんだ……!)
ハッキリと真田はその事を理解した。
他の生徒が入ってくるよりも早く着替えて誰も帰って来ていない教室に戻り、自分の席に突っ伏して寝たフリをする。寝ている姿は少し目立つため、あまり使いたくはない方法だったが、同時にこれは人から話しかけられなくなるといった利点も持っている。
思えば異常だったのは昨夜からだ。家から距離があるはずの学校まで全力で走り続けても疲労は無く、校門も容易に乗り越え、挙句の果てには瞬く間に距離の離れた相手の背後に回った。運動能力では人並みを下回る真田には火事場だろうとそんな芸当が本来できるはずがないのだ。
これは間違いなく、腕輪による副次的効果だ。魔法だけではなく、身体能力の向上までもたらすらしい。恐らくは先程の飛んで来たサッカーボールも、異様なまでの動体視力の向上により緩やかに見え回避に成功したに違いない。
そうした考察は次第に恐怖を胸に植え付けた。サッカーボールをあれほどの威力で飛ばす脚力、それをもしも人間を相手に繰り出したならどうなるのだろう。そして脚力だけではないだろう。恐らくは腕力も同様に強化されている。二度と置く事ができない凶器を全身に取り付けられた恐ろしさは、根本的に争いを嫌う平和主義者、あるいは臆病者、もしくは争う事すら面倒だと感じる物臭である真田にとって筆舌に尽くしがたいものだ。
ガラリと扉。自分から遅れて数分、クラスメイトが帰ってきた。しかも、着替えが早いので当然だったかもしれないが、先に戻ってきたのは先程の光景を目の当たりにした男子の方だ。
「寝てるよ、真田……」
「マジで寝てんの? フリとかじゃなくて?」
「わっかんね、起こす?」
「いや良いよ、真田って何か気味悪いし」
「そうそう、喋んねぇしさ、いるかどうかもよくわかんねぇ」
「つーかさ、さっきの何だったん? スゲェ蹴ってたけど、こいつキレてたの?」
「はあ? 何でキレられたんだよ、意味わかんねぇし。気持ち悪っ」
扉が開いた瞬間に驚いて肩が動いてしまったのは、幸いにもどうやら見えていなかったらしい。しかし、そのせいでヒソヒソと小声で交わされていた悪口は視界を閉ざしていた真田の耳にはハッキリと届く。どうやら裏では真田と呼び捨てられているらしい、そして目立たないようにしてきたのは気味が悪かったらしい。傷付かないと言ったらもちろんそれは嘘だった。
真田 優介は人が苦手だ。極端なまでに。小学校も中学年あたりまで上がると徐々に人見知りな面が浮き出てきて、人と話す事が苦手になった。話そうとすると早口になり、どもり、噛み、会話を続けることが困難になる。そうして周囲から人は減っていった。
《人と話す事》を苦手とする、それは次第に《人と接する事》が苦手に変わり、最終的には《人そのもの》が苦手となった。他人と一緒の空間、たとえば学校にいる時には常に強いストレスに苦しめられている。だがしかし、それは決して人が嫌いなのではない。喋る事が苦手なために多少いじめに遭ってきた経験もあって目立つ事を避け、今のような人間になってしまったが、人そのものは本来好きなのだ。
だから変わりたい。変わって、今より少しでも人との付き合いが上手くなりたいと、そう心から願っている。
まだクラスメイトの陰口とも呼べる会話は続いている。そんなこの状況下で起き出すような事はできず、忘れかかっていた睡魔に意識を向かわせる事で声を遠ざけようとする。
と、その時、再び扉を開ける音と賑やかな声が耳に届いた。
「おーす、体育お疲れさん。ほら、女子もわいわいやってないで座れ座れ、待ちに待った放課後だぞー」
どうやらホームルームのために教室へやって来た担任が途中で着替え終わって帰って来ていた女子と合流したらしい。
起きるタイミングは今しかない。むしろ、このタイミングを逃してはずっと起きられない。そう考えてゆっくりと体を起こす。眉間に皺を寄せて目を擦り、さっきまで寝ていたけれど扉の音と担任の声で目が覚めましたと言わんばかりの演技も忘れない。
生徒の気持ちをわかっていると言うべきか面倒臭がりと言うべきか、この担任は最後の授業が終わり次第さっさと教室に来てさっさとホームルームを終わらせるタイプの人間なのだ。全員が席に座り、ある程度静かになったところで担任は口を開く。
「えー、連絡事項は特に無し。宿題忘れるなよ」
「やすもっせんせー、宿題、今提出しても良いッスかー」
「駄目に決まってんだろ! 学校で宿題やってんじゃねーよ、家で解き直せ!」
「駄目か……じゃあ持ってくるの忘れるかもしれないから置いて帰ろ」
「いや、だから家で解き直せよ」
担任の名は安本、担当は数学。三十代に入ったばかりのまだ若い男性教師だが、生徒に対して非常にフランクな接し方をする事で人気も高い。短髪でジャージの上からウインドブレーカーを羽織った非常に活動的かつ爽やかな人物で、真田はそんな人間もあまり得意ではない。
「他にはー……明日の日直は宮村……だけど休みか。じゃあ村田に日誌渡しとくから明日来てたら宮村に渡してくれ、来なけりゃそのままやってくれ」
「はーい」
村田と呼ばれた女子生徒が少し面倒そうに返事を返す。宮村は昨日も休みだっただろうか。今日も欠席している事に気付いたのは今が初めてだ。やはり真田は出欠事情に疎い。この日は真田も他を気にしているような余裕が無かった事もあるが、それにしても他者への興味が薄すぎる。変わりたいと思うならば、そこを矯正する必要があるだろう。
「そんでー今日、面談やるからホームルーム終わったら隣の教室に。今日は確か真田からだったよな、頼む。はい終わり、礼とか良いから帰って良し!」
安本がとうとう返事も待たずに一気にまくし立ててホームルームを終わらせてしまう。これは割といつもの光景だ。しかし、そこに真田にとって一つ大きな誤算があった。
進路指導。高校二年生である真田にとってそろそろ避けて通れない難題だ。そのための二者面談が少し前から放課後に何人かずつ行なわれていたのだが、ここ最近は安本の都合によって行なわれていなかった。前回はちょうど自分の手前で終わった事を今となったら容易に思い出せるのだが、いつか面談の時がやって来るに決まっていると言う事を、色々と考える事の多かった真田の頭からは完全に抜け落ちてしまっていたのだ。