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「そんでさ、この事は俺達だけしか知らねぇの?」
ティーカップに口を付けて「紅茶ってよく分からん……つーか何でホット……」などと呟いてから問うた宮村は熱そうに少し舌を出している。話している間に少し冷めてしまったが、それでも季節はすっかり夏。この暑い中わざわざ足を運んだお客様には流石にお気に召さなかったようだ。冷房は動いているのだが、それでも熱い物を飲むほどではない様子。
そんな熱い紅茶を顔色一つ変えず眉一つ動かさず余裕で飲む真田は、ポケットから携帯電話を取り出した。表示されているのは受信したあるメールの本文。
「はい、今の所は。でも……このメール、皆さん届いてますか?」
「ああ、篁さんからのメールですね。俺も届いてます」
「私とは文面が違うね。大意は同じだが」
それは今朝、連絡先を先日交換したばかりの篁から送られてきたメールだった。
『掲示板見て。情報入ってる。見たらカフェ集合、あたし遅くなるから十九時頃。』
ぶっきらぼうで簡素な文体のメールは真田、宮村、日下の三人に同時に送られていた。ここに梶谷の名前がないのは、どうやらこの文章で送るのは躊躇われたためのようである。宮村も言葉には出していないが確かに届いたと首肯している。
「まあ僕はバタバタしてたんで掲示板のチェックはできてないんですけど……この後、カフェ行きますよね? そこに吉井さんも連れて行きます」
「おお、結婚のご挨拶か。大胆にいくじゃん」
「さっすが宮村、分かってるねー」
などと宮村と吉井が二人で盛り上がっている。真田の見立て通り、この二人はどことなく似ている。想定外の事であったが、この二人が揃うという事は真田の心労も二倍になってしまうのだ。
よく分からない方向に話が持っていかれたので不服な気持ちが顔に全開で表れている。そんな真田が手を打ち鳴らして注目を集めようとする。
「はいはい……一応、真面目な話をしますよ?」
「すみません、先輩……続きをお願いします」
「うん、ありがとう。ほんっとうにありがとう」
下手すれば先程の感謝の言葉に匹敵するのではないかと思えるほど心のこもった感謝であった。日下青葉という男はこのパーティの中でもっともまともな人間だ。この最年少(メンバー増加によりそうではなくなったが)の少年が支えていなければ真田はもう盛大に血を吐いている事だろう。
ふざける者もいれば真面目に聞こうとする者もいる。もしかすると意外にバランスが良いのかもしれない。
「ええっと、ですね……皆さん、と言うか宮村君と日下君に先にお話ししたのは何と言いますか、ちょっとした謝罪と言うか誠意と言うか……そんな感じの何かなんですね?」
「謝罪ぃ?」
「誠意、ですか」
宮村も日下も、唐突にそんな事を言われては意図が読み取れず首を傾げるばかりだ。彼らにとって自分自身はそのような言葉を使われるような立場にないのだから当然だろう。
ただ、何を言っているのか分からないのは真田も同じ事である。何故ならば彼は今の感情を正確に表現する言葉が頭の中に存在していなかった。謝罪や誠意、そんな言葉が近いのではないかと捻り出したのだが、それすらも正しいようで何かが違う。そんな大層なものではなく、もっとシンプルな感情のような気がする。
「まあ、意味は特にないんですけど。でも、二人には……宮村君には特に、何も言わずに協力してもらいましたから。家に招いて、色々と全部見せてお話をしようと思ったんです」
「そんな……俺が協力した期間なんて篁さん達と同じですよ」
「ははっ、まあ散々歩かせちゃったから。それに、何と言うか、僕にとってはこの四人でまず一つのグループなんだ」
「グループ?」
「うん。やっぱり……うん、僕、グループみたいなのに入った事がないから。大切にしたいんだ。うん」
その言葉は誰でもなく自分に向けられていた。とりとめのない考えを言葉にして、確かな形にする。
本当に単純な話。言っている通り、彼はただ大切にしたかった。友人と、後輩と、先達。上も下も横も、全て初めてと言っても良い得難い大切な存在だ。彼にとって、この三人の存在は特別だった。
謝罪の気持ちも誠意もある。しかし、最も大きな感情はそれではない。それは、真田が抱いた事のない感情。端的に言えば隠し事をしたくなかった。言い換えるとするならば、腹を割って話したかったのだ。他人に対する信頼、あるいは、信頼したいという気持ち。一人では生じるはずもない感情だ。
当然、言葉にして表す事ができようはずもない。だからそれは確かに存在していながらも、誰にも伝わるはずもなかった。
「何だそりゃ。結構テキトーな理由で呼びやがってぇ」
「はい、自己満足でごめんなさい」
謝る真田の表情は明るい。「何笑ってんだか」と茶化す宮村も笑っていて、その様子を見守る日下もまた同じ。まるで遅めのティータイムでも楽しんでいるかのような穏やかな時間。しかし、そんな状況を切り裂く声が聞こえた。
切り裂くとは言っても悲鳴のようなものではない。それは真田のすぐ隣から、実に不思議そうに。そちらを見てみれば吉井が右頬に手を添えて首を傾げている。
「ところでさー、四人って私もー?」
「は? いや、そんなワケない……って言い方も変ですけど、でもこの場合はもちろん宮村君と日下君と……あれ?」
「あ、いねぇ」
ダイニングに梶谷の姿がなかった。先程まですぐそこに立ってカップを傾けていたはずだ。しかし、そんな彼は話している間に実に自然に姿を消していた。彼もまた気を許し始めたのかもしれないが、あまりに自由が過ぎる。真田は以前にも中年男性と少しだけ一緒に行動した事があったが、その男もまたあまりに振る舞いが自由だった。閉店した店の扉を外して中に侵入するという謎の行動力を発揮した彼といい、加齢の度に自らの行動に歯止めがきかなくなってしまうのだろうか。
姿は見えないと言えども、そうそう他に姿を消す事のできる場所など存在していない。トイレかと真田が視線を動かしたのとほぼ同時に、日下の声が聞こえる。指差されている先は真田の向いたのとは逆方向、もう一つの部屋の方だ。
「……あれ、あっちの部屋のドア開いてますよ?」
「え? ……ちょっ、何を勝手に入ってんですか!」
椅子を倒さんばかりの勢いで立ち上がり、扉へ全力で駆け寄る。するとそこから、まさにほくほく顔といった様子の梶谷が現れ、片手に持った何かを軽く上げて見せた。
「ははは、いやいやすまない。いくつになっても好奇心は止められないものさ。なかなか面白い物も見られたしね」
「人の書き物を勝手に読まないで下さい!」
梶谷の手にしていた物に真田が飛び付く。それは一冊の大学ノートだった。古くもないが、ことさら新しいという事もない。適当に使用感のあるそのノート、購入してからおよそ二ヶ月ほどが経過したそれ。
それは、紛れもなく日記帳。腕輪を手に入れてからの日々を書き綴った物である。
「ノートパソコンが少し浮いていた。一人暮らしに甘えず、後ろめたい物を隠す能力は鈍らせないようにしなさい」
「どんな立場で喋ってんですか!」
奪い取って梶谷から遠ざけるように背中に回して隠しながら、真田が吠える。確かにこの大学ノートはパソコンの下に敷いていたが、別に隠そうとしていた訳ではない。むしろ隠すのならばもっと本格的にしている。だから、梶谷の言い分は間違っているのだ。
「でも優介ってば、探しても何にも見付からないんですよー」
「いつの間に部屋漁ってたんですか! 何もないですよ!」
真田の知らなかった事実。知らぬ間にガサ入れがあった。真田は何も隠してはいないのだから見付かるはずがないのだ。少なくとも手に取れる物的証拠は。
「おー、これは例の真田レポート!」
「ああ、話には聞いてましたけど、これが……」
「手を伸ばさない!」
そして背中に回していたノートを狙って伸ばされる宮村の手。興味津々といった様子の日下。そんな二人からも遠ざけようと真田は体の向きを変え、誰にも背後に回られないよう壁に背を付けた。
「必死に手ぇ伸ばさないと掴めねぇもんがあるんだよ!」
「これ掴もうとする理由を言えってんです!」
何故か決め顔の宮村に対して再び真田の咆哮する。良い事を言っているようだがこの場にはまったくと言って良いほどそぐわない。少なくとも真田にとっては。
「いやぁ、仲が良くて結構だ」
「何であなた他人面して笑ってられるんですか……」
そんな光景を見て、梶谷がかんらかんらと笑っていた。なんともはや、無責任な話である。他の誰が笑っていても、この笑いの腹立たしさには敵わないだろう。
「はあ……はあ……人が真面目に話した結果が、これですか……」
連続でツッコミ疲れて、真田はすっかり肩で息をしていた。つい先程までは真面目に自分の胸の内を曝け出して何とも雰囲気の良い会話をしていたはずが、ものの数秒でこのザマである。暴れて叫んで大賑わい。いくら防音も割としっかりしているとはいえ、この騒ぎでは苦情が来るかもしれないなどと、フッと真田の頭をよぎる。
クールでドライな都会の近所付き合いをモットーにしている彼は他の住人と面識がない。こんな事で他人と関係を作りたくはない。そう考えて、彼は声のボリュームを意識的に下げた。声を張り上げない彼にとっては貴重な体験だ。あからさまな苦笑いを浮かべながら実にふんわりとした発言をする日下に対しても抑えた声でツッコミを再開する。
「いや、まあ、俺は付き合い長くないですけど……すっごいらしいと思いましたよ。何と言うか、俺達らしい遣り取りと言うか……はい」
「それっぽいフォローしてるけど、ぜんっぜん僕らしくはないんだよねぇ……」
「あっ、終わったぁ?」
「……吉井さんはマイペースで羨ましいです」
ボケ倒しの流れの中で一度口を挟んだきり、手を付けられていなかった宮村のケーキをこっそり奪い取って食べていた吉井が呑気に問い掛ける。その声色はこの遣り取りの事などどうでも良いと思っているような気の抜けたものだ。
真田の声の弱々しさはもはやツッコミとも呼べない。そんな彼の元気を(怒りと言う形で)取り戻したのはさらに気の抜けた言葉。
「やー、こーゆーノリって良いなぁ。じゃあ、もう行くか?」
「宮村君はタフで腹が立ちます」
この男の妙な打たれ強さが実に腹立たしい。何を言おうが何が起ころうがまったく気にしようとしない。それどころか何故か急に仕切り始めて話を終わらせ玄関の方を親指で指し示す始末。ノリに飽きたのだろうか。勝手なものである。
しかし、それよりも勝手な人物もすぐそこには存在している。
「しかしこのケーキはなかなか美味しいね。どこの店の物なんだい?」
「あ、もう無視ですね? 発端の気がするんですけど無視ですね?」
最年長、ケーキを食べてご満悦。真田はこの場でどう立ち回れば良かったのだろう。真面目な話をしようと思って呼んだはずが最終的にこれだ。特に慣れぬツッコミ役に回った真田も含め、ここにはまともな人間などいなかった。唯一まともだと思っていた少年も完全に愛想笑いで乗り切ろうとしている。地獄の様相、再び。
お手上げ状態が一人、飽きているのが一人、ケーキに夢中なのが二人。ここで動けるのは真田ただ一人。
そんな彼は、意を決して一言だけ口にした。
「……まっ、行きましょっかぁ」
これが俗に言う諦めである。




