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「うーん、鶏肉料理のバリエーションをもっと増やしたいかも。いつ、いかなる時でも優介に美味しいって言わせられる料理が作れないとねっ」
「…………」
片付け終えて、椅子に座り直した真田はテーブルの中央の辺りを睨み付けたまま吉井の言葉に対して返事ができなかった。一際明るく振舞ってくれていたのに、である。料理の味もよく分からなかった。彼女の言葉も、まったく感想も言わず、美味しそうに食べもしない様子を見ての事だろう。
そんな精神的に疲れ切った真田の前に熱いほうじ茶の入った湯呑みが置かれた。顔を上げてみると、正面に吉井が座る。湯呑みに口を付けてから熱そうにすぐ口を離していた。そうして冷ますように顔を手で扇いでから、ピシッと背筋を伸ばして両手を広げて見せる。
「よし、それじゃあお話タイムだ! さあ、カモン!」
「……そ、その……」
最初は話そうと覚悟を決めていた真田であったが、そう真正面から改めて話せと言われると二の足を踏む。調理を待っている間も食事中も、思考は悪い方へ悪い方へとどんどん進んでしまっていて考えが纏まっていなかった。何から話せば良いのか、どう話せば良いのか。最初は何となく見当がついていたはずの事がもう分からなくなってしまっている。
真田の視線は再び下がり、テーブルの上をウロウロと彷徨っていた。彼女の目を見る事はもちろん、どこか一点に固定する事すらできやしない。彼も様々な経験を積んで、少しは変われたつもりでいた。しかし、もはやすっかり以前の彼に戻ってしまっている。誰かと話そうとなると緊張や考え過ぎで言葉が出ない、かろうじて発した声は上擦り視線は泳ぎ、体は動かず蛇に睨まれた蛙だ。それも相手が天敵の蛇ではなく可愛らしいただのウサギなのだから質が悪い。
真田は端的に言って臆病者だ。その性質は極めて根本的なものであり、すぐに変えられるような簡単なものではない。今までは調子に乗ってその臆病な本質を忘れかけていただけであったが、現在、彼は完璧に思い出していた。人と話す事が苦手な彼が、面と向かうだけで緊張感が天井まで達する女性を相手に話さなければならないこの状況を。
冷静になって話をしようと努力はするが、冷静になるとむしろ現状をハッキリと認識できて言葉が出ない。つい昨日までは気楽に、親しげが過ぎるほどズケズケと会話をしていたはずの男が急にこうしてどもり始めたのだから、相手としてはさぞや気味が悪い事だろう。
そもそも、吉井と真田は会話などした事がなかった。彼女が知っているのは少しだけ勇敢になったと勘違いしていた真田だけだ。そんな彼女の目に、今の彼はどう映るのだろうか。
しかし、彼女は受け止めた。どう映ったのかは知る由もなかったが、彼女はそんな真田の姿を受け止めて、微笑みながら優しく何から話せば良いのか促してきた。
「んー……ねえ、優介。まず、何を隠してるのかを教えてくれる?」
この問い掛けで、真田の頭は少しだけスッキリする。何から話せば良いのか決まっただけで方向性が定まったのだ。まず隠していた事もその他の事も、全ての事柄において話しておかなければならない事実から話そうと、真田は右手首の腕輪を示した。
「…………信じられない話かもしれませんが、僕は魔法が使えます」
「魔法……おじさんも言ってたけど、魔法ってやっぱりそのー……魔法?」
その言葉を他の言葉で表現しようかとも思ったが思い浮かばず、結局また同じ魔法という言葉になってしまった問いに対して、真田は頷いた。そして、腕輪に軽く触れて手の平の上に小さな炎を発生させる。
「はい。と言っても、僕は火が出せるだけですけど」
「お、おおおっ! すごーい! 優介、凄いよぉ!」
通常はありえない場所に存在している炎。それを見た吉井は目を丸くしながら輝かせていた。驚きと興奮と感動と、あらゆる気持ちが同時に押し寄せてきているのだ。それもそうなのかもしれない。目の前で、タネも仕掛けも仕込めない状態でそのような事をされたのだ。
思えば、真田は魔法をまったく知らない人物に対して魔法を見せた事は初めてだ。もちろんそれが当たり前の事ではあるが。仮に自分がその立場だったとして、彼も大いに驚いて興奮したかもしれない。
その上がったテンションを落ち着かせるように炎を消して、万に一つの暴発がないように腕輪に触れて魔法を使えない状態にする。
炎が消えた時には少し残念そうな顔をしていた吉井だったが、真田が真面目に本題に入ろうと顔を上げた所でその表情は変わった。二人は真顔で見詰め合う。
「……吉井さんに関係ある点だけ簡単に説明すると、僕は他の魔法使いと戦っていました。でも、その人に逃げられて……それを追ってたら、その相手は偶然道を歩いてた人を人質にしたんです」
「あ……」
「はい。それが吉井さんです。でも、僕のミスで吉井さんに怪我をさせてしまいました。それで吉井さんは気を失って……その男には逃げられて……で、他にどうする事もできないので吉井さんを連れて帰りました」
「そっか。そっかそっかぁ……」
伏し目がちになって小さく何度も呟く。あった事を簡単に伝えただけだったが、しっかりと自分の身に何があったのか理解はできたようだった。真田が追われ逃げていた相手に人質にされ、その末に顔に火傷を負う事となった事実を。
「その火傷は、紛れもなく僕の責任です。本当に、申し訳ありませんでした!」
テーブルに両手をついて、勢いよく頭を下げる。あまり声を大きく発する事は得意ではないが、それでもそうしなければならないと思った。あの男に上手く対応できていれば、あの男を追わなければ、あの男を倒せていたら。彼はそんな《もしも》の責任まで全てを無意識に背負って頭を下げていた。こんな事で誠意という訳ではないが、声くらいは張り上げないと何も伝わらないような気がしたのだ。
固く目を閉じ、ただ頭を下げるその姿を維持した。何か言われるまではこの頭は上げられない。他者からの悪意に弱い真田は覚悟を決めて備える。しかし、その覚悟は対象となる吉井の言葉によって見事に空回りする事となる。
「ん? あー、うん。……ミスで怪我させたって事はさぁ、助けようとしてくれたんだよね?」
「え、あ、はい。一応は……そのつもりです」
吉井の問い掛けは思っていたよりも軽い感じで発せられた。チラリと上目遣いで彼女の様子を窺って見ると、小さく首を傾げている。どう答えて良いものかと少し悩んだ末に、助けるつもりだったと全力でアピールするのも何か違うと判断して控えめに答えると、テーブルを
強く押し下げるように力が入ったままだった真田の手にそっと触れて彼女の答えが告げられた。
「じゃあ、それでもう良いよ」
「もう良いって、そんな事は……」
真田は人に触れられる事があまり好きではない。特に今は。魔法の影響か体温が上昇している今、他者の体はやけに冷たく感じる。そんな彼女の冷たい手を感じながら真田は食い下がった。責められるのは辛いが、このまま許されるのは納得がいかない。そんな彼の面倒な思考回路は理解が難しい。しかし彼女は理解するどころか全てを投げて、自分の考えだけをぶつけるのだ。
「優介、ズルい」
「はい?」
何を言っているのか、彼の方が理解できなかった。唐突にズルいなどと言われる理由が僅かほども分からない。思わず素っ頓狂な声を発した真田を見て彼女は笑った。
「ふふっ……この部屋で起きて、優介に色々当たっちゃって、寝て、起きて、仲直りして……それくらいでこの話されてたら多分またすっごく怒ったと思う。絶対に許せない。――でもね? 今はもう怒れないよ。隠し事をされてた事も、巻き込まれたんだなぁって事も、上手くやってたら火傷しないで済んだのかもって事も理解したし怒りたいような気持ちはある。それでも、そんなに長く一緒にいたワケじゃないけど、凄く楽しくて、落ち着いて、いっつも笑ってて……今は、助けようとしてくれた事の方がずっとずっと大きく感じちゃうんだぁ」
「吉井さん……」
真田が考えるような事は何もかも、彼女にとって関係がなかった。彼女が言っているのは自分勝手と言っても良いような感情論だ。同じように誠意を持って説明しても怒る時は怒る、怒らない時は怒らない。
きっと彼女は今、並大抵の事では怒らないだろう。それはひとえに真田の事を、そして真田と過ごした数日間を心の底から気に入ってくれているからだ。この自分勝手な判断基準は、あるいは何よりも公平だった。そして、真田の自分勝手で捻くれた感情と響き合う。
彼女は。吉井 香澄という女性は。少し派手で、色々な意味でよく目立つ。真田は彼女の事が苦手だった。自分とは違う世界の住人だと思っていた。
しかし本当の彼女は、よく笑い、勘が鋭く、無邪気で、そして少し自分勝手だ。その自分勝手さは、どんな事でも受け入れてしまえるような心の大きさと同居している。
真田は吉井を救う。彼女が人質になった時もそのつもりだった。そして今もそのつもりだ。しかし、そんな彼が今は逆に救われていた。責める事もせず、単純に許すのでもない。ただひたすらに、その大きさで包み込むように受け入れたのだ。
怒りを超越した地点で、彼女は恥ずかしそうに、冗談っぽく笑った。
「何だか真面目トーンは照れちゃうなぁ、えっへっへぇ」




