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「……弁解は、させてもらえるんでしょうか」
ダイニングのテーブルに向かい合って座り、肩を落として身を縮ませ、俯きながら真田は口を開いた。完全に叱られている様子である。梶谷は目を閉じて腕を組み、話を聞く姿勢。そして吉井はパタパタとキッチンを動き回っている。
電気ケトルから聞こえてくる沸騰する音が非常に耳障りに感じられた。真田の耳は片方が塞がれている分、もう一方は割と鋭敏だ。ゴポゴポと不愉快な水音が耳を支配する。それを遮ってくるような返事は聞こえてこない。梶谷が沈黙している証拠である。
なかなか胃が痛む沈黙であったが、それこそが肯定の証だと判断して弁解が始まる。
「いえ、あのですね? 見てお分かりとは思うんですが顔に怪我をしてましてね? 彼女としてはこんな顔じゃ帰れないと言ってこんな事になってしまいまして」
「どうぞ、コーヒーです」
口の中で小さく呟くような声で、極めてシンプルな事実だけ説明していると当の本人によって二人の前にソーサーに乗ったコーヒーカップが置かれていく。真田が誰かを招く機会などありえないため一つあれば充分だったのだが、セットで安かったため予備として購入したカップだ。存外、使う機会が訪れてしまった。しかし、もう一つのカップは仕舞い込んであったはずである。
「いつの間に普通に色々と把握してるんですか……」
「……ふふっ」
あまりに当然のようにカップを掘り出してきた吉井を見ながらツッコミを入れていると、別にその遣り取りが面白かった訳ではないだろうが、ここまで無言を貫いていた梶谷が小さく笑い始めた。
「梶谷さん?」
「ふっ、ふはははは! はっはっはっはっは!」
「か、梶谷さぁん?」
もう大爆笑である。彼がこれほどまでに笑う姿を見たのは初めてだった。彼もこのような顔をするらしい。真田は付き合いが長い訳ではなかったが、実に珍しい姿。遥かに年上であるため何か超越した存在のように思えていたが、ただの人だ。
ひとしきり笑って、梶谷は目尻に涙まで浮かべている。何が可笑しかったのか真田には分からないので困惑するばかり。
「ははは……ああ、いやいや、すまない。そうか、何か隠していると思ったら……話は分かったよ、君があんな事を聞いてきた理由もね。しかし、君も意外と大胆な事を……ふははっ」
「そんなすぐ理解しなくても良かったのに……あ、吉井 香澄です。よろしくお願いしまーす」
「私は梶谷 栄治、よろしく。カジヤという会社で相談役を務めています」
「へー、ソーダンヤク……大変ですねー」
何となく、吉井が相談役という言葉を理解していない事が真田には分かった。彼女の言う相談役のイントネーションはマリアが意味を把握せずに喋っている言葉と実によく似ている。
なお、この時には既に梶谷に火傷を見られているので開き直っている。相手が思い切り歳の離れた人物である事が功を奏したのか。ここで変に同年代の人物が相手ならばもっと見られたくない気持ちが先行していたかもしれない。
「良いですから、どっか行ってて下さい。ちょっと顔合わせるだけの話でしたよね?」
「えぇー……もう、分かったぁ、お買い物に行ってくるね?」
顔を合わせる事までは何だかんだで許す羽目になってしまったが、話まで聞かれる訳にはいかない。ここからはデリケートでシークレットな話である。邪魔だから外に行けと気持ちを僅かほども隠さず冷たい口調で言い放てば、吉井はいつものように唇を尖らせた。しかし、これ以上は我侭が過ぎると大人しく使い捨てのマスクを一枚取り出そうとしている。
そんな時、ここでもまた梶谷の鶴の一声が発せられる。真田にとっては地獄の審判であったが。
「いや、吉井君だったかな? 彼女にもいてもらった方が良いな」
「はい!?」
「やったー!」
真田には梶谷の考えは掴めなかった。仲間外れにならなかった事で両手を挙げてただ喜んでいる吉井とは正反対に、真田の表情は驚きと絶望の色に染まっている。梶谷も色々と把握しているのである。それでも吉井を残そうとしている事にはどのような意図があるのか。
「な、何を考えて……」
「良いじゃん良いじゃん、梶谷のおじさんが言ってるんだからー」
「そうは言っても!」
「良いじゃないか、真田君。彼女も無関係ではないだろう?」
「え? 私?」
彼は口にした。吉井に関係のある話であると。当然の事であるが、話が見えない吉井はキョトンと目を丸くしながら自分の鼻を指差している。
その様子から、梶谷は察する。真田が吉井に何も話してはいないと。僅かに細められた目は、まるで獲物を狙っているような鋭さ。
「……真田君、彼女に話すべきでないという考えは分かる。けれど、当事者を追い出すのは悪いよ」
(この、人はぁ……っ!)
彼の目は真っ直ぐに真田を見ていた。しかし、彼の言葉は真田に向けられているようで、その実そうではなかった。彼は真田を経由して吉井に喋りかけているのだ。彼女に関係のある話を隠しているのだと。そしてそれを隠すためにこうして必死に追い出そうとしているのだと。
梶谷 栄治は良い人間である。それは分かっている。しかしやはり、嫌な人間でもあるのだ。それを再び認識させられた。
「吉井君、良いかな? 私達はこれから、君には理解が難しい話をする。この話の意味が気になるのなら、夜にでも彼に教えてもらうと良い」
本格的に吉井の方を向いて着席を促す梶谷を、真田は止められない。彼女は真田が何か自分に関わる事を隠しているのだと知ってしまった。疑惑が膨らんでいる。ここで止めては、その疑惑を加速させてしまう。もはや、真田に逃げ場など残されてはいなかった。
「……はい。私も、聞く」
先程までの笑顔が嘘のような神妙な表情で頷いて、彼女は真田を見た。視線を合わせて、真田も一度頷く。
吉井は真田の隣の椅子に座り、内容の予想もつかない話を聞くにあたって気合を入れるように両の拳を強く握り締めている。そんな姿にチラリと目を向けてから、再び真っ直ぐ真田へ視線を向ける。ここからは吉井を無視して、彼女の常識から外れた話が始まろうとしていた。
「では、真田君。君の質問に答えよう。まず、私の知り合いに変わった男がいてね、彼は大学教授をしているんだが……個人的に魔法の研究をしているという変人だ」
「魔法、ですか」
「ま、マホー?」
梶谷の言葉を聞いた二人の反応は、当然ながら正反対。なるほど、と受け入れた真田と、話が突飛過ぎて魔法という言葉を頭の中で変換できない吉井と。しかし、梶谷は説明などしようとはしない。彼は本当に話が早い。付いて来られないなら置いて行く、不親切な教師のようだ。もっとも、その判断の根底には後で真田が説明するだろうという考えがあるからなのであるが。
「初対面の時から『僕は魔法の存在を信じているんだ』などと真面目に言う男でね。その時はただただ面白い男だとしか思っていなかったんだが、今となっては頼りになるかもしれない。何かヒントになりそうな事でも知らないかと思って話をしてみたんだ。これが、私の《当てになるかどうかも分からない当て》の正体さ」
ここからは、梶谷の話を聞き、後に補間して文章にしたものである。
彼はコーヒーに一度口を付けてから話し出した。真田が知りたかった事を。そして、それ以上の事までも。




