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「――真田君。少し、良いかしら」
「え……えっ? え、と……は、はいぃ……」
いつぞやもこのようにして声を掛けられたのだ。そう、目を開くとそこに立っていた人物、雪野嬢。
彼女と会話をするのも約二ヶ月ぶり。宮村と出会うよりも前に会話をした、初めてまともに会話をしたクラスメイトだ。しかし、それ以来は会話をする事などなく、それどころか接点すら持たずに二ヶ月をバタバタと過ごしていた。そのおかげで驚きの新鮮味。緊張感も急上昇で声も上擦ろうというもの。
「ここでは何だから、来てくれる?」
上擦った声と、目立つ女性。当然のように教室内の注目を浴びる。目だけを動かして周囲を確かめると興味深そうにこちらを見ているショーゴ氏とケラケラ笑っている宮村の姿が見える。実に楽しそうで、真田は非常にイラッとした。
助けを求めようにも真田の視線は前髪に隠れて伝わり辛く、声を出せるような状況でもなければ度胸もない。そうして、彼は先導する雪野の後ろを追って歩くしかないのである。
「さて……真田君、私が何の話をしようとしているか、分かる?」
連れられたのは廊下の隅。それも徹底して話を聞かれたくないらしく、用がなければ人はあまり来ない特別教室棟の方である。『コ』の形をした校舎の横棒の片方に教室が、縦棒で繋がったもう一方に授業で使う特別教室が並んでいる構造。使わない時には鍵が掛かっている教室がほとんどで、昼休みともなると昼食を食べるのにも使えず実に寂しい。
そのような所に連れ込まれた真田は完全にカツアゲの気分だった。流石にそんな目に遭った事はなかったが、きっとこんな感覚なのだろう。
前で両手を組んで、佇まいは真面目な感じであったが、質問にはやたらとプレッシャーを掛けてくる力があった。これではカツアゲではなく悪戯を叱られる子供だ。
「い、いえ……」
「へぇ、そう」
「…………あのー……」
質問には正直に答えた。以前のように課題の提出を忘れた訳でもない。本格的に呼び出される理由など分からないのだ。
しかし彼女はこの返事には不満な様子。明らかに機嫌が悪い反応を返してから少しの間、目を閉じて沈黙していた。流石の真田もわざわざ呼び出されてこんな所まで連れて来られた上で黙られては堪らない。「御用は何でしょう」などと質問しようと自分から話し掛けようとした直後、彼女も目と同時に口を開いた。
「吉井さん、何日か欠席してるでしょ?」
「へっ? あ、はい。そう、ですね」
思わず素で返事をしてしまう。よもやそんな話題が始まるとは。クラスの中心で責任感も強い(らしい)彼女の事、気にしていない訳ではなかっただろうが、それを真田に向けてくる真意が掴めない。
「真田君は知らない? 彼女が今、どこで、何をしてるのか」
「……いえ、知らないです。ごめんなさい」
もちろん嘘である。ここで「今は僕の家でお昼でも作って食べてるんじゃないですかね」と答えてしまう事は簡単ではあるが、精神的な事を初めとした様々な意味ではまったく簡単ではない。
スラスラと答える真田は、頭の中で台本を構築していた。あらゆる質問パターンに対する自然な受け答え。真田の性格を把握していれば、これほど流暢に話す時は何かを考えていると分かる。特に先程までオドオドしていたのにこれなのだ。自然な話し方はむしろ不自然。
雪野は真田との関係が薄い。それが分からない。しかし、彼女は何かを疑うように目を細めて真田を見ている。
「そう……知らないのね?」
「はい、知りません。何で僕に聞くのかは分かりませんが、お力になれなくて申し訳ないです。それじゃあ……次、小テストありますよね? ちょっと勉強しておきたいんで失礼します」
どうにも状況が悪い。そう悟った真田は会話を打ち切って教室へ戻ろうとした。少し強引かとも思ったが、理由付けはした。決して不自然さだけではなかったはずだ。そんな背中に、短く区切られた言葉が掛けられた。
「彼女、昨日、見たわ」
「――え?」
脳天から足先まで、スッと冷たい鉄の棒が通されたような感覚。何を言っているのか分かるはずだが、その内容が頭の中に染み渡るまで時間が掛かる。
彼女とは誰だ。当然、一人しかいない。
昨日とはいつだ。彼女は出掛けていなかったから、姿を見られたのは夕方だけ。
つまり、真田が一時的に帰宅した時、その時に見たのだと雪野は言っているのだ。
「吉井さん。昨日ね? たまたま……たまたまよ? 帰る時に普段行かない方角に行ってみたの。そうしたら、どこかのアパートの玄関先であの子が誰かと話してるのを見たわ」
「ああ、吉井さんってアパートに住んでるんですね、一人暮らしでしょうか……病気でも誰か来たら対応しないといけないなんて大変ですねぇ」
振り向きざまに、真田自身も驚くほどしれっと返す事ができた。彼は嘘が割と苦手ではない。同時に、普通に病気で休んでいると思っているとアピールするのも忘れない。しかしそれでも、彼女の目は真田を捉えている。まるで逃がさないとでも言いたげな強い視線。
「違うわ。彼女の家、あそこじゃない」
逃げ道が少しずつ塞がれていく。彼女の言う通り、そのアパートは真田の家だ。あの時、吉井が話していた人物が制服を着ていた事も分かっているだろうか。いや、真田にも話の流れは読めてきていた。
「真田君。何か、知っていたら教えてくれる? 誰にも言わないわ」
確信している。吉井以外の誰かの家で吉井と話していた人物がこの景山高校の生徒であり、それが真田優介という男である事を。
「……ごめんなさい。考えてみましたけど、やっぱり何も知らないです」
まだ白を切る事は不可能ではない。彼女の知らない生徒は山ほどいるのだ。見間違い、思い違いという方向に思考が向かないかと、最後まで足掻く事はできる。真田の表情は動かない。声も揺るがない。少なくとも素人には嘘であると見破る事は難しいだろう。
さらなる追及に備えて頭をフル回転させていたが、次なる言葉は予想と反してあっさりと引き下がるもの。しかし、そう簡単には終わらなかった。
「なら良いわ。でもね、私は彼女と話してた誰かに言いたいの」
「何を、ですか?」
少しだけ荒くなりそうな呼吸を必死に押し止めて続きを促す。引けば負ける。徹底抗戦だ。そんな真田の足元に視線を一度落としてから、溜息を吐いて彼女は言った。再び向けられたその視線は、紛れもない敵意に満ちている。
「――あなたが何を考えているのか知らない。けど、彼女に何かあったなら、私は絶対に許さないわ。隠すなら隠すだけ、私はあなたを信用しない。相応に覚悟をしておきなさい」
「あっ……」
言うだけ言って立ち去っていく雪野。完全に、彼女から敵であると認識されてしまったようである。カツカツと規則正しい足音を響かせながら遠ざかる背中。その背中、揺れる髪。そこには少し見覚えがあった。そう、それは昨日の夕方。吉井と話してからアパートの階段を下りた真田が見た女子高生。
(ああ……あの後ろ姿だ。昨日、自転車に乗って帰ってたんじゃなくて、僕が下りてきたから逃げたのか……)
何か繋がったような気がした。たまたま普段と違う道を使ったなどという言葉は最初から信じてはいなかったが、恐らくは初めからあのアパートを目当てにやって来て観察していたのだ。
迂闊だった。こんな事で秘密が露見してしまうなど。対策を考える必要がある。彼女が具体的に何を見たのか考え、それをどう認識して何を考えているのかを推測し、これからどのような行動をするのか想定する。




