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真田 優介は極めて普通の高校生だった。むしろいくつかの点において普通以下と言っても良いほどだ。中肉中背、ルックスは至って平凡。運動能力に関しては平均より低い。授業でサッカーをすれば誰に言われるでもなく、また自分から言い出すのでもなくいつの間にか当然のようにディフェンダーに収まってはゴールの近くで立ち尽くし、バレーボールをすれば目測を誤ってレシーブすら空振り、バスケではノーマークで完全にフリーなのにシュートの一本も決められない。
勉強は決してできない訳ではない。小学生くらいまではむしろ成績優良な部類に入っていた。しかし、根本的な所で勉強が面倒だと言って好きではない彼は中学に上がってからというもの、ろくに勉強をしなくなり、高校二年生となった今ではすっかり成績も落ち込んでしまった。それでも中の下くらいの位置で留まっていられるのは生まれ持った記憶力の良さが理由なのだろうか。
彼は不真面目な人間だった。しかし、それも不良と呼ばれるような不真面目さとは異なり、いわゆる《普通》の不真面目な人間だ。苦手な事に対して挑むのではなく、苦手な事には上手く手を抜いて生きる。そんな駄目な人間。
そしてまさに今も、彼は駄目な所を見事なまでにさらけ出している。五限の数学の授業中、ノートに勢いよくペンを走らせる。それだけならば真面目に授業を受けているようにも見えるかもしれないが、これは前回の授業で出された宿題を今さらながらに解いているのだ。それも一問だけ。日付による指名パターンがあるために自分が指名される事、そしてその指名される問題が判明している。その問題だけを解いて答える事でできる限りの楽をしてその場を切り抜けようとしているのだ。
黙々と手を動かす。今は授業中、黙々と作業するのは当たり前の事だが、それだけが理由ではない。もちろん何かと騒ぎ出すような性格ではないのも理由ではあるがそれだけでもなく、唇を噛み締めているためだ。
耐えるであるとか、悔しいであるとか。そう言った時に唇を噛むと言う表現を目にする事はあるが、真田は本当に噛む癖がある。顔に感情があまり出ない代わりに、こうして唇を噛む事で何かしらの感情の動きがある事を表現しているのかもしれない。今はさしずめ、早く解かねばと気合を入れていると言った所か。
何とかもう少しで解き終わりそうだと思ったその時。実にちょうど良いタイミングで教師が黒板に背を向けて口を開いた。
「さて、宿題を出してたよな。今から黒板に書いてもらうぞ。今日は十二日か……じゃあ、問一から順番に出席番号十二番、二十二番、三十二番……は、いないか。じゃあ三番、十三番、二十三番、前に」
大きな反応は無い。指名された誰もが想定通りだったからだ。そんな中で、問四を担当する人物だけが内心少し焦っている。そう、真田 優介である。本来ならば出席番号が十三番である真田は問五を担当するはずで、本人自身もそのつもりで問五だけに取り組んでいた。だが三十二番の生徒が今日は欠席しているらしい。出欠状況に一切の興味を持たず、もはや当たり前のように午後の授業となってもまだ誰とも会話をしていない真田はその事に気付いていなかった。
問四には手を付けてもいない。しかし、次々と立ち上がって前に出る他の生徒達を見てそのまま書きかけのノートを手に立ち上がる。真田は妙な目立ち方をしたくない。
真田はクラスで特別浮いているわけではないのだが、友達はいない。他のみんなが基本的に名前や呼び捨てで呼び合う中、彼は《真田君》などと若干の壁と愛想笑いを作って呼ばれている。別に仲は良くないが同じクラスだから仲間には入れておいてやろうという何ともありがたい涙が出るような仲間意識だ。そうして呼ばれる時も事務的な用事がある時だけ。それ以外では一切話し掛けられない。ほぼ存在していないも同然ならば浮く事すらありはしない。
一人でいる事を楽だと感じる真田にとって、友達がいない状況は強がりでも何でもなく本当に何も問題が無かった。それどころかむしろ、たまに話し掛けられることすら面倒だとも思っていた。しかし、こんな時に友達がいたらノートを見せて助けてもらえたのではないか、そもそも指名される問題が変わってしまう事にも気付けたのではないかとも思ったが、そんな事を考えていても後の祭り。今はとにかくその場で考えながら答えるしかない。
他の生徒より少し遅れてチョークを手に取り、黒板に体を向ける。決して回転が遅い訳ではない頭を全力で働かせながら、途中で少しつまずきつつも何とか答えを出した真田は反転して自らの席に戻ろうと歩き始める。その時にはもう黒板の前には数学担当の教師しかいなくなっていた。真田が一番最後まで書いてしまっていたようだ。
目立ってしまった、目立ちたくなかった。そう思うと歩く足は自然と速くなるのだが、小さなざわめきが右耳に届くと上げた一瞬足が止まる。自分が何か間違えてしまったに違いない、そんなある種の確信を胸に気を落としながら静かに椅子に座った。
「えー、問四。これ途中から違うな。この場合に使うのはこっちの公式じゃなくて……」
やはり違っていた。ここで間違えてしまった事を自虐して笑いを取れるような明るさと度胸があれば彼の人生は確実に良い方向へと違っていただろう。しかし、そんな事は出来るはずもなかった。
それでも彼は自分の領域、廊下側の一番後ろの席に座っていると落ち着いた。教室の後ろの扉に最も近い席、肌寒さを感じる事はあるが、その席に座っていると授業の内容もクラスメイトの声も少しだけ遠くなる。自分の殻の中に籠りながら、真田はギュッと唇を噛む。それがどんな感情か、想像に難くはなかった。
こうして、真田 優介の一日は過ぎていく。
真田 優介は極めて普通の高校生だった。しかし、一日中誰とも接する事無く、あまつさえ一言も発する事無く、ただ空気のように存在するその生き方だけを見て判断するならば、真田 優介は異常な人間だった。