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テトラは沈思黙考の内にすごしていた。居館の外では、娘の結婚式が執り行われ、今は披露宴を行っている。応接間は北側にあるため、陽光はわずかしか入って来ない。薄暗い室内で側近のババスが訪問客の相手をしている。
「誰を殺してほしい、と?」
「娘婿、です。」
ゴブリンと、あるいはオークと間近で接したことがないのか、床屋を営む男は玉の汗を額に浮かべていた。小指が震えている。
テトラは片眉を上げた。ババスと耳語する。やがて振り返ったババスは男に告げた。今日はボスの娘の結婚式であること、そのような不吉な話は聞きたくないこと、しかし長年の貢献を加味して男が誠意を見せればその限りではないこと。
床屋は今やはっきりと震えていた。亜人と共にいるためではない。その悪の強大さのため、そして要求があまりに法外なためだった。「どうする?無理強いはしない。」
床屋は唇を蠢かせて訴える。娘は悪い男に引っかかってしまい、子供を身ごもったうえ、膨大な借金を抱え込んでしまったこと。人生を悲観して自殺してしまったこと。子供は今自分が育てているが、男が子供の養育権を要求していること。そこで初めてテトラが口を開いた。
「我が一族になれば、私の子供だ。悪いようにはしない。」
禿頭を汗できらめかせて男は口ごもった。追い詰められた鼠のように、視線を左右に動かす。しかしやがて観念したのか、再び口を動かした時は、これまでに培った商売気を総動員して親愛の情を見せた。
「我が父よ……、どうぞ息子に救いの手を。」
テトラは満足げに頷いた。これで男は人間ではなくなった。ゴブリンの、暗黒外の顔役であるテトラの忠実な一族、その下僕になった。最後にテトラは聞いた。その子の名は決まっているのか、と。
決まっていないという返事だった。ならば名を付けなければならない。いかなる名がいいか、ババスと再び耳語する。
「そういえば先日、犬が死んだな。」
なんという名だったか……。そうそう‘畜生‘と言う名だった。
「その名を与えよう。」
紅潮し、震える頬そのままに男は一礼して出て行った。いまではゴブリンの一族になったわが身を振り返りながら。
「次。」
入って来たのは若い男を見るなりテトラは呻いた。
「ヨウ……。」
男はどこにでもいるような風体をしていた。長い黒髪を真っ直ぐに伸ばし、黒い目はゴブリンをじっと見ている。ざっくりとした貫頭衣を着、腰には長い刀を吊るしている。
「珍しいお客だな。」
テトラが顎をしゃくるとババスは扉を閉め、男の背後に立った。
「何用だ?」
「皇帝を探して貰いたい。」
「こいつは驚いた。」
テトラは哄笑した。衛兵と違い、禁兵は警察権と司法権を持つ唯一無二の存在だった。その発祥は皇帝の権力を象徴する棒を捧げ持つ12人の護民官から来ているとはいえ、皇帝を守護する必要など実質ないので、自由裁量を持つ歩兵でもあった。つまり、後ろめたい事のあるテトラは切り殺されても文句の言えない相手である。例えそれがヨウであっても同じことだ。
「まずは再会を祝して乾杯と行こうじゃないか。」
ババスが棚から葡萄酒を取り出す。ヨウは渋面を作った。
「悠長にしている暇はないんだ。質問に答えてくれ。」
「そういうな。今日は娘の結婚式なんだぞ。」
グラスに並々と注がれた酒を、腕を交差させて飲み干す。
「さて義兄弟よ、何をそんなに慌てている?」
「皇帝がいなくなった。」
それは朝早くの出来事だった。
オラシオンの中枢、帝国議事堂の中庭に小さな祠がある。存在を知っているものは数少ないが、その場所の意味を知っているものはさらに少ない。禁兵と国家元首、そして皇帝自身だけだった。禁兵の任務である、皇帝の護衛のために祠の階段を下りていったヨウは違和感を覚えていた。訪れるものとて少ない階段には埃が厚く積もっている。そして禁兵たちは月番で交代するとはいえ、ただ行き止まりの扉の前で一昼夜を過ごすだけなので、歩みは自然と重なり、足跡は行きと帰り、一組しかないはずだった。ところがそこに裸足の小さな足跡がついていた。ヨウは嫌な予感に囚われた。
「それで?」
「扉は開いていた。」
ヨウは手酌で葡萄酒をあおった。
「‘砂の間‘に入ったのか!」
「仕方なくな……。」
‘砂の間‘はヨウの部屋と大差ない狭さだった。巨石を組み上げた室内にはその名の由来となった砂がこんもり積もっている。そして……それだけだった。他には何も無かった。
「皇帝は行幸された。」
「それで俺の所に来たのか。」
アースシーの魔法的な作用全ての根源であるが、皇帝に形は無く、あらゆる形態を取ることが出来た。そのため、‘砂の間‘に幽閉されていたとも言えた。
「この広い世界で形の無いものを探すわけか。」
「‘悪の父‘なら可能なはずだ。」
「面白くなって来た。」
ババスに目配せする。頷いたオークは部屋から出て行った。
「居所を調べる方法は一つしかない。」
「マイヨールか……。」




