<17>
富める者と同様に貧者にも夜明けが来た。安宿の軒先に斜光が当たっている。魔王が忌々しげにそれを睨んでいる。
「どうした?俺が選んでやろうか?」
「いやだ!自分を……。」
「自分を救ってくれ?家族はいらないわけだ。」
「違う!家族を……。」
「そうか、ならば禁兵の職は失う事になる。」
「駄目だ、駄目だ!」
「人間は面白い。」
金属をこすり合わせるようなせせら笑いがした。
「結論は決まっているのに、ぐずぐず悩む。苛立たしいが、そこが面白い所でもある。どんなに家族を思っても、結局は自分を選ぶ。屁理屈のこね方だけは一人前だ。」
「屁理屈?」
――理屈じゃないの。
あれは誰が言ったんだろうか。浮かび上がる記憶。
「俺のどこが良くていっしょになったんだ?」
陣痛に耐える妻の手を握り締めながら、そんな言葉が口から飛び出た。脂汗を流す妻は大儀そうに、
「私がいなければ、あなた、生きていけないでしょう?」
「そんなこと、ないよ。」
「そうよ。理屈じゃないの、そう感じるのよ。私にとってそれが大事。」
再び呻き始めた妻を始めて見るような気がした。
「惚れ直した?」
苦痛の中から片目を瞑った妻、その日息子が生まれたのだった。
「珈琲……。」
「何だと?」
家が欲しいとねだる妻。足元にはよちよち歩きの息子。自分の稼ぎでは到底無理だと言うと、四人では狭いと言い返された。息子がテーブルにぶつかって珈琲が零れた。拭こうとする手が重なる。
「でかい家を買うよ。」
「三人目の時に困らないくらいの、ね。」
珈琲の香りに包まれた、幸福な風景。
ヨウは屹然と立ち上がった。
「第三の選択があると言ったな。」
「ああ、まさか……。」
「愛する者などいない!」
刹那、無数の蝿が体から飛び立った。
「俺は全てを失った。」
帰りを待つ家族の元に、永遠にヨウは帰って来ない。誰知らぬ男が、その夫となり父となるだろう。
それでもいい。どこかに珈琲の香りに包まれた、あの幸せな家族の肖像があるなら……。滂沱の涙を流してが自分に言い聞かせる。
「これでいいんだ、これで。」
自分の名前以外の過去を消失した男、ヨウは行き先もわからぬまま、歩き始めた。




