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月明かりが街路を照らしている。

南の貧民街は腐った食物、牛馬と人の糞尿で耐え難い悪臭を放っていた。行き場の無い民が塀にもたれている姿が目につく。ヨウが馬上から小銭を放ると、蟻のように群がり集まって来る。一歩間違えれば自分もこうなることを肝に銘じざるおえなかった。自分は幸運だ。

彼は禁兵だったが名門の出ゆえの推薦ではなく、トーナメントを勝ち抜いて任官した実力者だった。膨大な報酬と自由裁量が与えられ、義務と言えば砂の間を警護することだけ。余った時間を同僚は好きに使っていたが、生真面目なヨウは月の半分は各地に巡察に行き、残りをオラシオンの警護に当てる。そんな彼を周囲は堅物だと思っていた。しかしヨウが忠実に職責を果たすのは、そんな理由ではなかった。

彼が渇望しているもの、それは安心だった。美しい妻、聡明な子、親しい友人達に囲まれ、何不自由無い生活を送っていても充足することは無く、常に不安を感じていた。今の境遇が恵まれていればいるほど、失うことへの恐怖はつのるばかりだった。だから職務に励んでいるのだ。

もし今回の法令が施行されれば、ヨウの処遇も劇的に変わるだろう。良き方向に変わるとは限らない。不安だった。

 駄句足で騎行していた彼の心情をはかったのか、いつのまにか馬が脚を止めていた。辺りは労働者の安宿が軒を連ねていて、静寂が覆っている。

「お恵みを……。」

 しじまを破って軒下からか細い声があがった。ヨウは反射的に懐を探り、小銭を取り出したが、月明かりに照らされた女の顔を見ると、放ろうとする手が止まった。

紛れも無く妻だった。

両腕で、痩せ細り口が開いたままの子供を抱いている。蝿が眼球に止まっているが、何の反応も示さない。腕が力なく垂れていた。

「こんな所で何をしている。」

 下馬したヨウは、狼狽のあまり禁兵の口調で呻くと、妻の肩を掴んだ。

「痛い。離して。」

 身をよじって逃れた妻は、上目使いでヨウを見た。そんなことは今までしたことがなかった。ひどく卑屈な様子だった。

「あなたが私達を捨てたんじゃないの。」

「捨ててなんていない。それにその格好はなんだ。」

 洒落者で通った妻が、薄汚いぼろを着ている姿は、ヨウに衝撃を与えた。

「嘘よ。あなたは心の奥底で、家族も何もかも捨てて解放されたいって思ってる。私が知らないとでも思ってるの。」

 ヨウは絶句した。それは……本当の事だった。

「だとしても、俺はお前達を捨てたりしない。解放される願望より、家族の方が大事だ。あたりまえじゃないか。」

「それがいやなのよ。」

 彼女は金切り声を上げた。

「そうやって自分に嘘をついてる。それで私達が幸せだとでも?舐めないでよね。」

「もういい。続きは帰ってからだ。」

「帰る?どこに?」

 血が肌から透き通るように桃色に紅潮し、美しい表。それが口を歪め、眇めた眼はきょときょとと、厭らしい表情に変わっている。やがて墨が滴り落ちるように、闇が浮かび上がって来た。ヨウは呆気にとられた。

「そんな、私の影が家族だとでも言うのか。そんなはずない。私は何よりも、誰よりも家族を想っている。」

「お前が妻子を思えば思うほど、抑圧された願望は膨らんでいく。気がつかなかったのか?いつも感じる不安。原因が何かを。」

「影め、人の弱みに付け込んで悪事を働く輩が何を言うのか。」

「お前はすでに選択している。」

「まだ言うのか。」

「私が現れたのがいい証拠ではないか。」

 妻にぐったりと身を預けていた子、その眼球に止まっていた蝿が人語を話した。

「思い出せ、忘却の彼方より。今の生活が何故あるのかを。」

 ヨウは抗弁しようとしたが、出来なかった。次々に湧き起こる記憶の波、その圧力に負けた。

路地を巡察する自分。子供が生まれた寒波の夜。冷やかされた結婚式。禁兵の言語に絶する訓練。動悸を抑えて臨んだトーナメント。晋国の宮廷生活。商家の家族。団欒の時。世間の塵埃に塗れた懊悩。十字路での邂逅。渇望する安心。待て、十字路で誰と出会ったんだ?そこから人生が変わった。全て上手く行くようになり、安楽な暮らしを得た。

「教えてやる。」

 座り込み、うな垂れたヨウに巨大な蝿が覆いかぶさっている。手をこすり合わせる耳障りな音が、虚ろに響いていた。

「あの時、お前は約束した。口には出さないが、確かにそうした。」

「なに、を。」

「愛する者を捧げる。その代わり、自分をこの境遇から救ってくれと。」

 戦乱に、腐乱した臭気が地面に積もっている。少年のヨウはふらりとそこに来た。驚いた鴉が目玉を突付くのを止めて、一声鳴くと翼をはためかせる。真っ黒い死体に近づくと、行き場の無い憤りに、短剣を引き抜いて胸に突き刺す。その瞬間、たかっていた蝿が飛び立ち、ヨウは黒い霧に包まれる。

「思い出したか?」

 かつての生贄のように、皮膚が見えないほど蝿が集っているヨウが頷いた。

「さて、再び選択の時だ。」

 魔王が耳元で囁く。

「自分か家族か、どちらを取る?もちろん三つ目の選択もある。」

「三つ目?」

「愛する者がいないと言えばいい。そうすれば職も家族も、今まで得た全てを失うが、望み通り解放される。」

「い、嫌だ。」

「そうだろうな。それが出来るなら、契約などしない。さあ、時間だ。答えを聞こう。」

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