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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕〔残酷描写〕が含まれています。

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灰被りの盾は、狂犬皇帝の野蛮な求婚を受ける

作者: 仁科異邦
掲載日:2026/06/14


王宮のシャンデリアは、幾千ものクリスタルが暴力的なほどの光を放っていた。


壁を彩る金箔、豪奢なシルクのドレス、そして貴族たちが纏うむせ返るような香水の匂い。


建国記念を祝う夜会は、この国の腐敗を隠すかのように、異常なほどの熱気に包まれていた。


私、リゼット・フォン・アルバーンは、広間の壁際に立ち、その喧騒をただ静かに見つめていた。


地味な灰色のドレスは、私の意志で選んだものではない。

継母が「王太子の婚約者とはいえ、出しゃばるべきではない」と、わざと古い型紙で仕立てさせたものだ。


周囲の貴族たちは、扇の陰で私を見てはヒソヒソと嘲笑を交わしている。

「王太子殿下に釣り合わない」、「まるで氷の彫刻のように無機質で退屈な女」、そんな悪意ある囁きは、もう何百回と聞いてきた。


「おい、リゼット」

ふいに、冷ややかな声が私を呼んだ。

振り返ると、この国の次期国王であり、私の婚約者である王太子アルトゥールが立っていた。


金糸のような髪と青い瞳を持つ彼は、誰もが振り返る美貌の持ち主だが、その眼差しに私への熱が宿ったことは一度もない。


「殿下」

私が完璧なカーテシーを披露すると、彼は微かに顔をしかめた。


「相変わらず、人形のように完璧な作法だな。

……だが、その息の詰まるような完璧さにも、今日で終止符を打たせてもらう」


「……と、おっしゃいますと?」

音楽が、不自然に止まった。


アルトゥールが片手を挙げ、楽団に演奏を止めさせたのだ。

ざわめいていた広間が水を打ったように静まり返り、何百という視線が私たちに突き刺さる。


「リゼット・フォン・アルバーン。お前のような無機質で愛嬌のない女との婚約は、今日、この場限りで破棄させてもらう」


よくある、貴族の茶番だった。

権力闘争の末の婚約破棄。

だが、彼の次の行動は、私の予測を、そして広間にいる全員の常識を完全に裏切るものだった。


「おいで、ジュリアン」

甘い声で彼が呼ぶと、人垣を縫って一人の青年が進み出た。


光を閉じ込めたようなプラチナブロンド、華奢な身体つき、そして庇護欲をそそる潤んだ大きな瞳。


私の、義理の弟だった。

「ジュリ、アン……?」

「ごめんなさい、お義姉様。でも、僕たち、もう自分の心に嘘はつけないんです」


ジュリアンは頬を薔薇色に染め、アルトゥールの胸に飛び込んだ。

王太子は愛おしげに義弟の細い腰を抱き寄せ、その金の髪にキスを落とした。


広間が、どよめきと悲鳴に似た歓声に包まれる。

「どういうことか、説明していただけますか」

私の声は、ひどく冷静だった。

それがさらにアルトゥールの神経を逆撫でしたらしい。


「言葉通りの意味だ。私はジュリアンを愛している。

だが、次期国王である私が同性を愛していると知れれば、頭の固い老害どもが煩いからな。

だからこそ、大人しく、自己主張もせず、ただひたすらに政務の勉強だけをしているお前を『隠れ蓑』として選んだのだ」


アルトゥールの言葉は、鋭い刃となって私の胸をえぐった。

「お前は本当に都合の良い『ダミーの盾』だったよ。

お前が完璧な妃になろうと努力し、周囲の目を惹きつけてくれている間、私はジュリアンと愛を育むことができた。

……だが、もう限界だ。

真実の愛を、これ以上日陰に隠しておくことはできない」


誇らしげに宣言する彼を見て、私は自分の足元が音を立てて崩れ落ちていくのを感じた。

私は継母に疎まれ、実家では薄暗い屋根裏部屋に押し込められ、使用人以下の扱いを受けてきた。文字通りの『灰被り』だった。


この王家との婚約だけが、泥沼のような生活から抜け出す唯一の希望だったのだ。

いつか彼に愛してもらえると信じ、王太子にふさわしい妃になるため、睡眠時間を削って血の滲むような努力を重ねた。


各国の歴史、複雑な税制、領地経営、果ては毒殺を防ぐための薬草学まで、全てを頭に叩き込んだ。


彼が私に触れようとしないのも、「国のトップに立つ者は軽々しく情を交わすべきではない」という彼なりの不器用な矜持なのだと、自分に言い聞かせてきた。


だが、違ったのだ。

彼はただ、私に何の興味もなかっただけ。


愛されるための私の努力は、最初から全て無意味だった。

彼らにとって私は、ただの「便利な盾」でしかなかったのだから。


「……分かりました」

沈黙ののち、私は静かに口を開いた。

胸の奥で、何かが冷たく凍りついていくのを感じながら。


「私の存在が殿下の真実の愛を阻むというのであれば、身を引きましょう。

謹んで、婚約破棄をお受けいたします」


込み上げる絶望と惨めさを奥歯で噛み殺し、私は深く、美しい一礼をした。

ドレスの裾が床に広がり、私の屈辱を嘲笑うかのように貴族たちの囁きが響き渡る。


「強がって。本当は泣きたいくせに」

「ざまあみろだわ。あの生意気な女が」

その時だった。


「ならば、その優秀な盾は我が帝国で引き取ろう」


重く、低く、地を這うような声が広間に響き渡った。

分厚いオーク材の扉が、蝶番が悲鳴を上げるほどの勢いで乱暴に開け放たれる。


そこに立っていたのは、親善大使としてこの夜会に列席していたはずの隣国・ガルディア帝国の若き皇帝だった。


名を、ヴォルフラム・フォン・ガルディア。

軍靴の踵を打ち鳴らし、黒と深紅の軍服に身を包んだ彼が歩みを進めると、貴族たちは恐怖に顔を引き攣らせて道を開けた。


顔に刻まれた浅い傷跡と、獲物を狙う鷹のような鋭い金色の瞳。

戦場を血で染めながら渡り歩き、弱冠二十歳で広大な帝国を力でまとめ上げた『狂犬』。


彼は真っ直ぐに私のもとへ歩み寄ると、アルトゥールを一瞥すらせず、自身の肩にかかっていた重厚な毛皮のマントをバサリと外した。


そして、それを私の華奢な肩に、乱暴に、けれど確かな重みをもって掛けた。


「こんな狂った茶番劇よりも、血みどろの帝国のほうが、よほど貴様の知性と忍耐を活かせる」


マントから微かに香る、鉄と硝煙、そして獣のような男の匂い。

ヴォルフラムは、凍りついている私の顎を無骨な指で持ち上げ、その金色の瞳で私の奥底を覗き込むように言った。


「俺の皇后になれ。愛などという甘ったるく安っぽいものはやらん。

だが、お前を道具としてしか扱わなかった愚か者どもを、遥か高みから見下ろす玉座はくれてやる」


それは、御伽噺に出てくる王子様が差し出すガラスの靴などよりも、ずっと野蛮で、奇妙な求婚だった。


愛は与えない。

普通なら絶望するであろうその言葉が、偽りの愛に裏切られ、心がズタズタになっていた私には、奇妙なほど誠実で心に響いた。


「……光栄な申し出、お受けいたします。皇帝陛下」

私が答えると、ヴォルフラムは凶悪な、けれどどこか楽しげな笑みを浮かべた。


「いい返事だ……行くぞ。

こんな泥水のような国に、お前を置いておくのは資源の無駄だ」


彼は私の腰を引き寄せると、呆然と立ち尽くすアルトゥールとジュリアンを一瞥し、鼻で笑った。


「せいぜい、その見せかけの愛とやらで国を回してみるんだな、温室育ちの坊っちゃん」

私たちは、誰も言葉を発することができない広間を背に、夜の闇へと歩み出した。


♦︎


ガルディア帝国へと向かう馬車の中は、静寂に包まれていた。

窓の外には、私の祖国とは違う、荒々しくも雄大な山脈の景色が広がっている。


「なぜ、泣かない?」

向かいの席で腕を組んでいたヴォルフラムが、不意に口を開いた。

「女という生き物は、ああいう場面では泣き喚いて被害者ぶるものだろう」


その言葉には侮蔑というより、純粋な疑問が混じっていた。私は背筋を伸ばし、淡々と答える。


「泣いて事態が好転するなら、いくらでも泣きます。

ですが、涙を流したところで実家が私を愛してくれるわけでも、王太子殿下の心が私に向くわけでもありません。

計算に合わない行動は、徒労です」


「計算、か。

お前は自分の心を、随分と理路整然と切り捨てるのだな」


「そうしなければ、生きてこられませんでしたので」


私は、屋根裏部屋での日々を思い出した。

腹をすかせ、寒さに凍えながら、いつか必要とされる日を夢見て蝋燭の灯りで本を読み漁った日々。


その努力すら「隠れ蓑になるためだった」と否定された今、私に残されているのは、脳に詰め込んだ知識と、決して折れないよう固く結んだ心だけだった。


「……ふん。ますます気に入った」

ヴォルフラムは口角を吊り上げた。

「我がガルディア帝国は、完全な実力主義だ。

血筋が良かろうが、顔が美しかろうが、無能は豚の餌になる。

きらびやかなドレスも、媚びを含んだ微笑みも必要ない。

俺が求めているのは、血と泥に塗れた巨大な国家を、俺と共に冷徹に回せる実務能力だ」


「ご期待に沿えるよう、全力を尽くします」

「期待しているぞ、『私の優秀な盾』よ」


♦︎


数日後、帝都に到着した私を待っていたのは、息つく暇もない激務だった。

皇帝の婚約者という立場でありながら、私に与えられたのは豪華な私室ではなく、執務室の隣にある殺風景な部屋と、山のような書類だった。


だが、それは私にとって、何よりも心地よい環境だった。

実家や王宮で「完璧な妃」となるべく虐げられながら身につけた教養は、この弱肉強食の帝国で圧倒的な武器となった。


ある日のことだ。隣国との国境線の関税に関する協定書に目を通していた私は、ある条文の不自然さに気がついた。


「陛下、お時間よろしいでしょうか」

執務机に向かっていたヴォルフラムに、私は協定書を差し出した。


「この第六条、第三項。一見すると互恵関係に見えますが、我が国の特産品である魔石の輸出量を考慮すると、五年後には我が国が実質的に関税の三割を余分に負担する計算になります。

……起草した財務官は、隣国の息がかかっている可能性があります」


ヴォルフラムは書類を受け取り、鋭い目で文字を追った。そして、数秒後に低く唸る。


「……なるほど。巧妙に隠されているが、お前の言う通りだ。

おい、近衛を呼べ! 財務次官を尋問室へ連行しろ!」


即座に指示を飛ばし終えると、彼は感心したように私を見た。

「よく見抜いたな、リゼット。あの財務官は古株で、誰も疑わなかった」


「恐縮です。私はただ、盾としての責務を果たしているだけですので」

私が無感情に答えると、彼はいつも決まって、微かに渋い顔をした。


「お前は本当に、自分をただの便利な道具としか思っていないのだな」

そう言って、彼は席を立ち、私のそばにやってきた。


彼の大きく武骨な手が、私の頭を乱暴に、けれどどこか不器用に撫でた。

「だが、お前のその『道具』としての働きが、この国を救ったのは事実だ。褒美を取らせよう。

何が欲しい?」


愛などという安っぽいものはいらないと言われた。

だから私も、決して彼に「心」を期待して傷つかないよう、自分を殺していた。


けれど、彼が時折見せるこの不器用な気遣いや、私の能力を正当に評価し、必要としてくれるその態度が、凍りついた胸の奥をじんじんと溶かしていくようだった。


「……では、新しい茶葉を。陛下がよく飲まれる黒茶が、もうすぐ切れそうなので」

「お前は本当に……自分のためには何も欲しがらないのだな」


彼は呆れたようにため息をついたが、その瞳は、春の陽射しのように柔らかかった。

愛されないと分かっているのに。私はただの契約上の皇后でしかないのに。


この温もりを手放したくないと願ってしまう自分が愚かで、恐ろしかった。


その頃、私の祖国が静かに、だが確実に崩壊の足音を立て始めていることなど、私は知る由もなかった。


♦︎



私がガルディア帝国で、血の滲むような忙しさの中にも確かな充実感を見出し始めていた頃。

かつての祖国――アルトゥール王太子と義弟ジュリアンの足元は、もはや修復不可能なほどの轟音を立てて崩れ落ちていた。


帝国の執務室から遠く離れた、緑豊かなアルバーン王国の王宮。


かつて私が一日中こもりきりになり、国の血液たる書類をさばき続けていた王太子の執務室は、今や見る影もなく荒れ果てていた。


磨き上げられていたはずの豪奢なマホガニーの机には、未決済の書類が雪崩を起こして散乱し、床にはインクの染みが黒々とした染みを作っている。


換気すらまともにされていない部屋には、淀んだ空気と、冷めきったコーヒーの酸い匂い、そして濃密な疲労の臭いが充満していた。


「どういうことだ! なぜ、たかだか数ヶ月で国庫の資金がここまで目減りしている!」


血走った目で書類を睨みつけ、アルトゥールは両手で自らの美しい金髪を掻き毟った。

目の下にはどす黒い隈が張り付き、かつて社交界の華と謳われた面影は完全に消え失せている。


彼の目の前に突きつけられているのは、財務卿が青ざめた顔で持参した、絶望的な数字が並ぶ国家予算の報告書だった。


「殿下……先日、殿下が御自らサインなされた、隣国フェルデン共和国との関税協定。あれが致命傷でございます」


初老の財務卿が、震える声で告げた。

「我が国の主要な輸出品である魔石と絹織物に対し、共和国側が一方的に有利な関税率が設定されておりました。

条文の末尾に、極めて巧妙な言い回しで隠されていたのです。結果として、我が国の貿易赤字は過去十年の記録をわずか一ヶ月で更新し、莫大な違約金まで発生しております」


「馬鹿な! あの協定書は、互恵関係を築くための友好的なものだったはずだ!」

「ですから、それは表向きの……」


アルトゥールは書類を床に叩きつけた。

かつて、私が帝国の執務室で不自然な条文を見抜き、未然に防いだあの種の罠。

フェルデン共和国もまた、アルバーン王国の政務が機能不全に陥っていることを見透かし、悪辣な条約を突きつけてきたのだ。


以前であれば、そのような重要書類は全て私が隅々まで目を通し、裏の裏まで読み解いた上で、アルトゥールに「安全な結果」だけを渡していた。


私が「盾」として矢面に立ち、泥や毒を被っていたからこそ、彼は涼しい顔で「優秀な王太子」を演じ、ジュリアンとの甘い恋に浸ることができていたのだ。


だが、今の彼には、目の前の書類のどこに罠が潜んでいるのかを読み解く知識も、忍耐力もない。


ジュリアンとの甘美な時間を少しでも長く取るために、側近が持ってくる書類にろくに目も通さず、ただサインだけを流れ作業のように繰り返していた。


そのツケが、今になって一気に噴出したのである。

「殿下、それだけではございません」


宰相が重苦しい足取りで執務室に入ってきた。その手には、泥に汚れ、急使が持参したことを示す赤い封蝋のされた手紙が握られている。


「南部の穀倉地帯で、記録的な大雨による河川の氾濫が発生いたしました。

三つの村が濁流に飲まれ、農作物の被害は甚大。

さらには、対応の遅れと食糧の高騰に激怒した領民たちが、領主の館を取り囲んで暴動を起こしかけております」


「なんだと……っ! なぜもっと早く報告しない!」

「一週間前から、再三にわたり殿下の決済を仰ぐための書類は提出しておりました。

ですが、殿下は『ジュリアン様との観劇がある』と……」


アルトゥールの喉から、ヒュッと引き攣った音が漏れた。

災害時の緊急対応マニュアル、周辺領地からの物資の融通ルート、そして貴族たちからの支援金調達の根回し。


それら全てを構築し、維持していたのも、他ならぬ『灰被りの盾』と呼ばれた彼女だった。


システムを理解していないアルトゥールには、どこから手を付けていいのかすら分からない。


「すぐに……すぐに国庫から見舞金を出せ! 騎士団を派遣して暴動を鎮圧しろ!」

「不可能です。

先ほどの関税の赤字と、この数ヶ月の王宮の異常なまでの浪費により、緊急動議を発動するための予備費すら底を突いております」


宰相の冷ややかな視線に、アルトゥールは言葉を失った。

「異常なまでの浪費」が何を指しているのか、彼自身が一番よく分かっていたからだ。


「アルトゥール様ぁ!」

最悪のタイミングで、ノックの音すらなく執務室の重厚な扉が開かれた。


そこに入ってきたのは、国の危機という現実から最も遠い場所にいる存在――ジュリアンだった。


彼が身に纏っているのは、隣国から取り寄せた最高級の絹糸で織られた、目が眩むほど豪奢な真新しい衣装だった。


首元や指先には、国庫の血を吸って輝くような大粒の宝石がいくつも光っている。

甘ったるく、むせ返るような高級香水の匂いが、淀んだ執務室の空気を異様に歪めた。


「もう、ずっと書類ばかり見ていてつまらないです! 今日は新作のオペラを観に行く約束でしたよね?

それに、東方の商人から『星の涙』と呼ばれる素晴らしいダイヤモンドが入荷したんです。僕、どうしてもあれが欲しくて……」


空気を読まない、いや、空気を読む知性すら持ち合わせていない甘え声。


かつては天使の囀りのように愛おしくてたまらなかったその声が、今のアルトゥールにとっては、脳髄を直接やすりで削られるような耐え難いノイズにしか聞こえなかった。


「……黙れ」

「え?」

ジュリアンは目を丸くし、小首を傾げた。アルトゥールから冷たい言葉を投げられたことなど、これまで一度もなかったからだ。


「今はそれどころではないと言っているんだ! 国が傾きかけている時に、オペラだの宝石だのと、ふざけるのも大概にしろ!」


怒りのあまり立ち上がり、アルトゥールは机の上のインク瓶を壁に向かって投げつけた。ガシャンという破壊音とともに、黒い染みが壁紙を汚す。


「ひっ……!」

ジュリアンは短く悲鳴を上げ、その美しい顔を恐怖と悲劇のヒロインのような歪みで満たした。


「ひどい……っ! アル様、ひどいです! 私のこと、永遠に愛し抜くって、どんな願いも叶えるって言ってくれたのに!

私が男だからって、やっぱり最後は捨てる気なんですか! 私のこと、もう愛してないのですね!」


大粒の涙をポロポロとこぼし、泣き喚くジュリアン。

以前なら、アルトゥールは慌てて彼を抱きしめ、甘い言葉で慰めていただろう。

だが、疲労困憊のアルトゥールの目には、ただヒステリックに喚き散らす金食い虫の姿しか映っていなかった。


「愛で国が回るか!!」

アルトゥールの悲痛な絶叫が、執務室に木霊した。


教養がなく、ただ愛されることと贅沢しか知らないジュリアンには、政治の重圧も、民の苦しみも、何も理解できない。

最初は「障害を乗り越えた真実の愛」だと信じて疑わなかったその熱情は、国政という重く冷酷な現実の前に、急速に冷え切り、悪臭を放つ泥水へと変わっていた。


有能な人材――すなわち私を逃したと知った貴族たちの反応は、現金なものだった。


王室の権威は失墜し、地方の有力貴族たちは次々と王宮からの召集を無視し始めた。

税の未納が相次ぎ、中にはすでに隣国や、巨大なガルディア帝国への鞍替えを画策し、裏で手引きを始めている者までいる始末だ。


「アルトゥール様なんて大嫌い!」

泣き叫びながら執務室を飛び出していくジュリアンを、追いかける気力すらアルトゥールには残っていなかった。


彼は力なく椅子に崩れ落ち、虚空を見つめた。

自分たちがどれほど愚かだったか。

私がどれほどの重圧をたった一人で背負い、どれほどの知性でこの国を支えていたか。

失って初めて、その圧倒的な価値に気付かされたのだ。


「……リゼット」

乾いた唇から、無意識のうちにその名がこぼれ落ちた。


そうだ。彼女さえいれば。あの有能で、決して文句を言わず、どんな難題も完璧に処理して見せた彼女さえ取り戻せば、全ては元通りになるはずだ。


「使者を出せ……」

アルトゥールは、すがるような目で宰相を見た。


「ガルディア帝国に、援助を乞う使者を送るのだ。いや、私が……私が直接出向く! 彼女に直接謝罪し、もう一度この国に戻ってきてくれるよう説得する!

彼女なら、きっと分かってくれるはずだ。私との婚約をあんなにも喜んでいたのだから……!」


それは、あまりにも虫が良く、現実逃避に塗れた妄言だった。

すでに私が帝国の奥深くで、絶対的な力を持つ狂犬皇帝の庇護下にあり、かつての私とは違うということすら、彼は理解できていなかったのだ。


崩壊の足音は、もはや彼らの背後まで迫っていた。泥水の中に完全に沈みゆくその日まで、残された時間はわずかだった。


♦︎



ガルディア帝国の本城、黒曜石と大理石で建造された大謁見の間は、文字通り『絶対的な力』を体現する空間だった。


天井を支えるのは、何百人もの屈強な戦士が束になっても揺るがないほど太い石柱。


壁には帝国の歴史と武を象徴する深紅と漆黒の豪奢なタペストリーが掲げられ、シャンデリアのような浮ついた装飾は一切ない。


代わりに、魔石を組み込んだ重厚な燭台が、謁見の間全体を威圧的で厳かな光で照らし出していた。


私は、一段高く設けられた玉座の傍らに立っていた。

この日のためにヴォルフラムが帝国最高の職人に命じて仕立てさせたというドレスは、かつての私を縛り付けていた地味な灰色ではない。


燃え上がる炎のような、あるいは帝国旗と同じ深紅のドレスだった。


「お前はもはや日陰に隠れる盾ではない。俺の隣で、誰よりも堂々と咲き誇る帝国の心臓だ」

そう言って彼が贈ってくれたドレスは、過剰な宝石こそついていないものの、一目で最高級とわかる滑らかなシルクで身体の線を美しく引き立てていた。


その赤は、私の冷え切っていた血に熱を取り戻させるような、力強い色だった。


玉座には、漆黒の軍服を隙なく着こなしたヴォルフラムが、足を組んで悠然と座っている。

だが、その姿勢の裏に、いざとなれば一瞬で獲物の喉笛を掻き切る猛禽類のような殺気が潜んでいることを、帝国の廷臣たちは皆知っていた。


「――アルバーン王国・王太子、アルトゥール殿下のご入場」


近衛騎士の重々しい声が響き、分厚いオーク材の扉がゆっくりと開かれた。


広い謁見の間に響く足音は、かつての自信に満ちた軽やかなものではない。

重く、引きずるような、死地に赴く罪人の足取りだった。


長い赤絨毯の上を歩いてきたその姿を見て、私は微かに目を細めた。

そこにいたのは、かつて建国記念の夜会で、金糸のような髪を輝かせて傲慢に私を見下ろしていた美しい王太子ではない。


頬は病的にこけ、目の下には消えないどす黒い隈が張り付いている。

仕立ての良いはずのフロックコートは、急激に痩せた身体のせいでどこか不格好に浮いており、その背中は重圧に押し潰されたように丸まっていた。


「ガルディア皇帝陛下におかれましては、ご健勝で……我がアルバーン王国の窮状に際し、拝謁の機会を賜りましたこと、深く感謝申し上げます……」


声はかすれ、震えていた。

かつては「野蛮な国」と内心で見下していた帝国に対し、今は文字通り這いつくばって命乞いをするしかない己の惨めさに、彼自身が一番耐えきれていないのだろう。


だが、彼が儀礼的な挨拶から顔を上げた瞬間、その視線は玉座のヴォルフラムを通り越し、傍らに立つ私へと完全に釘付けになった。


「……あ……?」

アルトゥールの喉から、間抜けな音が漏れた。

見開かれた青い瞳が、信じられないものを見るように小刻みに震えている。


「リゼット……? 嘘だ、本当に、君なのか……?」

その呟きは謁見の間に響き渡った。


見違えるような深紅のドレスに身を包み、背筋を伸ばし、堂々と帝国の頂点から彼を見下ろしている私の姿は、彼の記憶にある『灰被り』の陰気な娘とは結びつかなかったのだろう。


だが、私が一切の表情を変えずに彼を見つめ返すと、アルトゥールの顔に、歪んだ希望の光がパッと灯った。


「ああ、リゼット! よかった、君は無事だったんだな!」

彼は突然、玉座へと続く階段に向かって数歩駆け寄り、すがるような目で私に向かって両手を伸ばした。近衛騎士たちが即座に剣の柄に手をかけたが、ヴォルフラムが片手でそれを制する。


「リゼット、聞いてくれ! 君がいなくなってから、我が国はめちゃくちゃだ!

あのジュリアンという男は、ただの浅ましい寄生虫だった! 政務は滞り、貴族たちは離反し、国庫はもう限界だ。

私は完全に間違っていた、あんな見せかけの愛に騙されて、本当の宝を手放してしまったんだ!」


あまりにも身勝手で、自己中心的な懺悔だった。

ジュリアンに責任を全て押し付け、自分が下した決断の愚かさを棚上げしている。


「頼む、君からも皇帝陛下に口添えをしてくれ! 我が国に資金と物資の援助を……いや、君自身がアルバーンに戻ってきてくれてもいい!

君は私の婚約者だっただろう? 今なら、君を正妃として迎え入れる用意がある。

君の知識と私の血筋があれば、必ず国は立て直せる。

私に必要なのは、ジュリアンなんかじゃない、君だったんだ!!」


狂気を孕んだ目で絶叫するアルトゥール。

かつて私を不用品のように捨てておきながら、自分が困れば「必要だ」と甘い言葉を吐く。


その姿は滑稽を通り越して、哀れですらあった。

私は、自分の胸の奥を探ってみた。


怒りが湧くだろうか。悲しみが蘇るだろうか。それとも、かつて慕っていた相手の没落に、微かな同情を覚えるだろうか。


――答えは、否だった。

私の心は、風一つ吹かない凪いだ海のように、冷たく澄み切っていた。


かつて私を虐げた実家も、私から全てを奪ったと優越感に浸っていた義弟も、そして目の前で鼻水と涙で顔を汚して這いつくばるこの男も。


共に泥水の中へ没落していくというのに、何の感慨も湧かない。

ただ、「計算が狂って自滅した愚か者」という事実がそこにあるだけだった。


「……黙れ」

私が口を開こうとしたその時、玉座から、底冷えのするような、圧倒的な怒気を含んだ低い声が放たれた。


謁見の間の空気が一瞬にして凍りつく。

重力そのものが何倍にも跳ね上がったかのような錯覚に陥り、アルトゥールは恐怖のあまり、その場に崩れ落ちるようにへたり込んだ。


玉座から立ち上がったヴォルフラムは、軍靴の音を響かせながらゆっくりと階段を下り、床に這いつくばるアルトゥールを、虫けらを見るような冷酷な目で見下ろした。


「俺の皇后に、気安く声をかけるな。薄汚いネズミが」

「ひっ……!」


「お前が今口にした言葉は、ガルディア帝国に対する重大な侮辱だ。

我が帝国の心臓であり、至宝である皇后を、『元の国に戻れ』だと?

お前のような無能な男の傍らに、再びこの女を置けと、そう言ったのか?」


ヴォルフラムから放たれる圧倒的な覇気と殺気に当てられ、アルトゥールはガチガチと歯の根を鳴らし、言葉すらまともに発せなくなっていた。


「お前たちがゴミのように捨てた女の知恵で、我が帝国がどれだけの利益を得たか。

お前たちがろくに読みもせずにサインした他国との協定書の裏をかき、どれだけの国益を搾り取ったか。

その価値も分からず、見てくれだけの愛に溺れて国を傾けた愚か者どもに、くれてやる恩情など一ミリたりとも存在しない」


事実、アルバーン王国の没落を決定づけた隣国との不平等条約の裏には、いち早く情報を掴んだ私の助言により、ガルディア帝国が隣国をうまく操って利益を横取りしたという背景があった。


弱肉強食の世界において、隙を見せた国が食い物にされるのは当然の理だ。


「そ、そんな……! リゼット……リゼット、君からも何か言ってくれ! このままでは国が、民が、路頭に迷う! 君もかつてはこの国の民だったはずだろう!?」


もはやヴォルフラムに直視することすらできず、アルトゥールは床に伏せたまま私に向かって泣き叫んだ。


私はゆっくりと階段を下り、ヴォルフラムの隣に並び立った。深紅のドレスが擦れる絹の音が、静寂の間に響く。


冷たい大理石の床に這いつくばるかつての婚約者を、私は無表情で見下ろした。

「……お引き取りください、アルトゥール殿下」


澄んだ、けれど氷のように冷たい私の声が、謁見の間に響き渡った。

「私がかつてアルバーン王国の民であったことは事実です。そして、その国のために私の全てを捧げ、尽くしてきたことも。

……ですが、それを『無機質で退屈だ』『隠れ蓑に過ぎない』と切り捨てたのは、殿下、あなたご自身です」


「あ……」

アルトゥールの顔から、一瞬にして血の気が引いた。


「自ら心臓を抉り出しておいて、今更血が足りないと嘆くのはあまりにも滑稽です。

私は今、ガルディア帝国の皇后リゼット。

自らの責務から逃げ出し、欲望に溺れて自滅した他国の罪人に与える慈悲は、持ち合わせておりません」


もはや、私の中に彼らへの未練も、恨みも、何も残っていなかった。


彼らの存在は、すでに私の人生という帳簿から、完全に『損失処理』が終わった過去の遺物でしかなかった。


「……連れて行け。我が国の神聖な空気が汚れる」

ヴォルフラムが顎で合図をすると、近衛騎士たちが無言でアルトゥールの両脇を抱え上げ、乱暴に引きずり歩き始めた。


「待ってくれ! リゼットォォォッ!! 悪かった、私が全て悪かった! だから私を、私を見捨てないでくれぇぇぇっ!!」


扉が重い音を立てて閉まるその瞬間まで、アルトゥールの絶叫は無様に響き続けていた。

だが、その扉が完全に閉ざされた時、谒見の間には再び厳かで静謐な空気が戻った。


遠からず、あの国は内乱によって完全に瓦解し、周辺国に分割吸収されるだろう。

アルトゥールも、ジュリアンも、そして私を虐げた実家の人間たちも、歴史の闇に消える。


私から全てを奪った者たちが、自ら作り出した泥水の中で溺れ死んでいく。


その結末を見届けても、私の胸にあったのは、ただ一つの仕事を完全に終わらせたという、静かな達成感だけだった。


♦︎



ガルディア帝国の夜空は、かつての祖国で見上げていた空よりも、ずっと深く、澄み切っていた。


けたたましい断罪劇に満ちた長い一日が終わり、帝都は深い眠りにつこうとしていた。


私は執務室に隣接した自身の私室に戻ると、豪奢な深紅のドレスからゆったりとした夜着に着替え、一人バルコニーへと出た。


冷たい夜風が、火照った頬を撫でていく。

眼下には、魔石の街灯に照らされた帝都の街並みが、力強く脈打つように広がっていた。


かつての祖国のように貴族だけが富を独占して腐敗していく街ではなく、実力で這い上がった民たちが活気を持って暮らす、鉄と血と、そして生命力に溢れた巨大な国。


今日、私はついに過去との完全な決別を果たした。

私を虐げた実家も、私を盾として利用したアルトゥールも、全てを奪ったと嘲笑っていたジュリアンも、間もなく完全に滅び去る。


彼らが床に這いつくばり、無様に命乞いをする姿を目の当たりにして、私が感じたのは、復讐の甘美な快楽でも、喪失の悲しみでもなかった。


ただ、胸の中にぽっかりと空いた、静かな「空白」だった。

『私がかつてアルバーン王国の民であったことは事実です。そして、その国のために私の全てを捧げ、尽くしてきたことも』


昼間、アルトゥールに向けて放った自らの言葉が、脳裏にリフレインする。

復讐は終わった。私は勝者として、この大帝国の頂点に立っている。


だというのに、なぜだろう。

夜風に吹かれて一人で立っていると、まるで自分の中身が空っぽのからくり人形になってしまったような、奇妙な寂寥感に襲われるのだ。


「……風邪を引くぞ、リゼット」

不意に背後から声が響き、直後、私の肩にずしりと重い温もりが掛けられた。


振り返らなくてもわかる。

それは、微かに硝煙と鉄、そして落ち着く獣のような匂いを纏った、黒狼の毛皮のマントだった。


「……陛下」

「夜更けに一人で何を考えている。まさか、あの腑抜けた男を思い出し、今更になって同情の念でも湧いたか?」


隣に並び立ったヴォルフラムは、意地悪く口角を吊り上げてみせた。


漆黒の軍服の襟元を少し緩めた彼は、昼間の玉座で見せていたような恐ろしい『狂犬』の顔ではなく、ひどく穏やかな、一人の男としての表情をしていた。


「まさか。未練など、最初から一欠片もありません」

私は首を横に振った。


「ただ……自分の人生の半分以上を費やしてきたものが、あんなにもあっけなく、無様に崩れ去っていくのを見て、少しだけ不思議な気持ちになっていたのです。

私が血の滲むような思いで支えていたものは、最初から砂上の楼閣に過ぎなかったのだと」


「……」

「でも、これで本当に終わりです。

私という盾を必要とするのは、もはや陛下と、このガルディア帝国だけになりましたから」


私は静かに微笑んでみせた。

完璧な、隙のない、有能な皇后としての微笑みを。


これでいい。

私は誰かに愛されるために努力するのはもうやめたのだ。

ただの便利な道具としてでも、実力を正当に評価し、居場所を与えてくれるこの人の役に立てるなら、それで十分だ。


だが、ヴォルフラムはその金色の瞳で、私の作り物の微笑みを真っ向から射抜いた。


「嘘をつけ」

「え……?」


「お前はいつもそうだ。有能な盾としての仮面を被りながら、その奥で、誰にも選ばれなかった傷を隠して、独りで泣いているような顔をする」


心臓が、大きく跳ねた。

図星だった。

屋根裏部屋で凍えていた夜も。

王宮の図書室で、血を吐くような思いで一人政務をこなしていた日々も。


有能な道具として扱われ、実力を認められても、結局「一人の人間として、女性として」誰の第一候補にもなれなかった惨めさが、ずっと心の底の柔らかい部分に、泥のようにこびり付いていたのだ。


誰も私を、私自身として愛してはくれない。

「……私は、可愛げのない女です」

震える声が、夜の闇に溶けていく。感情を押し殺そうとしても、無意識のうちに両手がマントの縁を強く握りしめていた。


「気の利いた愛の言葉も言えませんし、甘える方法も知りません。真実の愛など、私には一生手に入らないと分かっています。

だから……このままでいいのです。

期待して、また全てを奪われて、捨てられるのはもう嫌なのです。

ただの便利な道具としてでも、陛下の役に立てるのなら、それで……!」


これ以上慘めな思いをしたくない。だから、期待しない。心を閉ざす。


そう自分に言い聞かせ、逃げ込もうとした次の瞬間、強い力で腕を引かれ、私は弾かれたように彼の胸の中へと引き寄せられた。


「っ……陛下……!?」

気がつけば、私はヴォルフラムの広く逞しい腕の中にすっぽりと収まっていた。


重厚な軍服越しに、彼の力強い心音が、ドクン、ドクンと耳元で鳴っている。

私を抱きしめるその腕は、鉄をへし折るほどの力を持っているはずなのに、まるで壊れ物を扱うかのように、ひどく優しく、温かかった。


「馬鹿野郎」

頭上から降ってきたのは、怒りではなく、熱を帯びた、ひどく甘やかな声だった。

「俺がいつまでも、お前をただの盾として手元に置いているとでも思ったか」


「それは……だって、陛下は最初に……愛などという安っぽいものはやらないと……」

「ああ、言ったな。あんな温室育ちの坊っちゃんが喚くような『見せかけの愛』など、俺には到底理解できんからな」


ヴォルフラムの大きな手が、私の背中をそっと撫でる。その不器用な優しさに、私の胸の奥で凍りついていた氷が、音を立ててひび割れていく。


「だがな、リゼット。

お前が俺のために、三日三晩徹夜して理不尽な法案を完璧に直してくれた時も。

暗殺の危険を顧みず、自ら毒見の知識で俺の食事を守ってくれた時も。

俺の些細な好みを覚えて、不味い黒茶を文句も言わずに淹れてくれた時も……」


彼は私の身体を少しだけ離し、その真摯な金色の瞳で、真っ直ぐに私を見つめた。

「俺は、お前のその不器用で、真っ直ぐで、誰よりも気高い生き方に、どうしようもなく惹かれていた」


「あ……」

「俺はお前を道具だと思ったことは一度もない。お前は俺の心を動かした、たった一人の女だ」

彼の言葉が、干からびていた心に、温かい雫となって染み込んでいく。


「俺が、お前を誰よりも必要としている。

便利な道具としてではなく、俺の生涯の伴侶として……ただ一人の、愛する女としてだ」


それは、あの日広間で聞いた野蛮な契約とは全く違う。

泥臭くて、不器用で、けれど絶対に裏切らないという、何よりも強固で、確かな愛の誓いだった。


「私で……本当に、いいのですか……?」

「お前がいい。

お前以外など、俺の隣には立たせん。お前の傷も、知性も、可愛げのない強がりも、全て俺が抱え込んでやる。

だから、もう独りで泣くような顔はするな」


堰を切ったように、私の目から大粒の涙が溢れ出した。

これまでどんなに虐げられても、裏切られても、決して流すことのなかった涙が、彼の黒い軍服を濡らしていく。


道具としてではなく、私という人間そのものを、こんなにも強く求めてくれる人がいた。

私の努力を、傷を、全て丸ごと包み込んでくれる不器用な優しさが、ここにあったのだ。


「……っ……ヴォルフラム、様……」

「ああ、泣け。俺の腕の中でなら、いくらでも泣かせてやる」


彼の手が、私の頬を伝う涙を、親指でそっと拭う。

そして、夜空の星よりも熱い瞳で私を見つめると、ゆっくりと顔を近づけ、震える私の唇に、静かに誓いの口付けを落とした。


硝煙の匂いに混じる、甘く深い温もり。

それが、私の過去の呪縛を完全に焼き尽くし、本当の自由を与えてくれた。


それから数ヶ月後。

アルバーン王国は完全に崩壊し、歴史の地図からその名を消した。


愚かな王太子と美しいだけの義弟がどうなったのか、正確な報せは届いていないが、もはや知る必要もなかった。


ガルディア帝国の玉座には今、二人の支配者が並んで座っている。

一人は、圧倒的な武力とカリスマで帝国を率いる『狂犬』の皇帝。


そしてもう一人は、かつて『灰被りの盾』と呼ばれ、今や帝国の頭脳にして皇帝の最愛である、冷徹で有能な深紅の皇后。


私はもう、自分を偽るための窮屈なガラスの靴など必要としていない。

これからは、この不器用で優しい狂犬の手をしっかりと握り、彼と共に、この帝国の玉座を自らの足で堂々と歩んでいくのだ。


永遠に溶けることのない、確かな愛の温もりを胸に抱きながら。

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