1 侯爵令嬢の罪
予想より長くなったので、見切り発車で連載です。
リブラ歴1782年、緑の月6の日、エチュバリア侯爵の娘フィロメナ・エチュバリアが、男爵令嬢カロリーナ・パドロンを殺害した容疑で当局に収容された。容疑となっているが、疑いようのない状況での犯行だったので実質的に犯人と確定している。
現場は貴族子女の通う王立学園の敷地内の中庭の一つ。
時刻は昼休みの只中、学食で食事を終えた者や中庭でランチボックスを広げている者など、多数の生徒が集まるタイミングだった。
かく言う僕も友人達と食後に外の空気を吸おうと件の中庭に出たタイミングで、その凶行を目撃した一人でもある。
ヒルベルト・ハイメ・オルディアレス。それが僕の名であり、オルディアレス王国の第一王子で、そしてフィロメナ・エチュバリアは僕の婚約者でもあった。
そこにフィロメナがいることを僕は知らなかった。
婚約は結んでいても、お互いに義務的な交流はあれど心を通わせているような関係ではなかったから、彼女の為人は表面的にしか把握していなかったし、彼女が普段、その時間にどこでどう過ごしているなど気にもしていなかった。
容姿端麗、頭脳明晰と謳われる彼女は、そのときとても思い詰めた表情で、まるで普段とは全く様子が異なっており、ふらっと中庭に現れて迷うことなく一人の令嬢の元へ行き、持っていた鍔の無い短剣で心臓を一突きしたらしい。
僕は女生徒達の悲鳴でそちらに反射的に目を向け、フィロメナが突き立てた短剣の柄から手を離したところを見た。
こんなとき、本当なら僕が迅速に指揮を取らねばならなかった。だが、僕は目の前の出来事が実感できず、なによりフィロメナがそのような凶行を犯す人物だとは微塵も思っていなかったので、しばし呆然としてしまった。
側近でもある友人達が盾になるように僕の前に出てからようやく何が起きたのか自覚でき、学園の警邏部と街を巡回しているであろう衛兵を呼ぶように側近に指示し、残った側近と冷静を保っている男子生徒達と協力して他の生徒達を現場から遠ざけたのだが、フィロメナは目的を果たした後はその場にへたり込み、それこそ茫然自失としてどこを見ているのかわからない瞳で空を仰いでいたのがとても印象的だった。
そう経たないうちに学園の警邏がやって来て拘束されたときも、大人しく立ち上がり抵抗の一つもせず、衛兵に引き渡されてもしっかりとした足取りで拘束など必要ないほどだった。ただ、その表情だけが、ホッとしているような、まだなにかに怯えているような、あるいは感情を無くしてしまったような、加害者であるにも関わらず痛々しい様子だった。そしてその間、彼女は僕を一瞥もしなかった。
僕がそこにいるとは思っていなかったのかもしれない。もしくは、彼女にとって僕という存在はそれほど重要ではなかったからなのかもしれない。
僕はそう思った時に初めて、胸の中にツキンとした痛みを感じた。
犯罪を犯した高位貴族が入る貴族牢。
内装も家具もそれなりに整えられた、牢屋とは思えない作りのそこに彼女は一旦収容された。
取り調べには素直に応じるが、法務官が作った調書によるとどうにも動機に関しては要領を得ないようで、読んでも意味がわからない。
そもそも侯爵令嬢であるフィロメナと男爵令嬢であるカロリーナとの接点は皆無と言っていいくらいで、どちらかに悪い噂が立っていたという事実もない。それこそ動機などあるはずもない関係性であるにも関わらず、フィロメナはパドロン男爵令嬢を刺し、カロリーナ・パドロンはその命を散らしてしまった。
信じがたい事実だけがそこにあり、それがひどく気持ち悪い。
僕は意を決して、フィロメナに会うことにした。
「まあ、第一王子殿下。ようこそ、いらっしゃいました。
と言いたいところですけれど、王子殿下がいらっしゃって良いところではありませんわ」
言葉こそしっかりしているが、目はどこか私とは違う場所を彷徨い少し窶れたふうで、僕の知っているフィロメナではない様子をしている。
貴族牢に収容されたフェロメナが着ているのは充てがわれた簡素なデザインのワンピースで、なんの装飾品も無いがそれが却って彼女の美しさを引き立てていた。
豪奢ではないがそれなりに良い作りの、ベッド、小さめのクローゼット、ライティングデスクにテーブルセット。床の絨毯もランクは下がるものの高級品扱いのもの。
普通の窓は無く、壁の一面だけに明かり取り用の小さな窓が天井に近いところにいくつか並んでいる。シンプルなデザインの吊り下げ燭台も高い場所にあり、室内の家具を使っても手は届かない。
自害できそうな物はなるべく排除されているが、そもそも貴族が選ぶ自害方法は自刃か服毒なので、収容時の身体検査と持ち込まれる食事や差し入れなどの検査を徹底することでそれを防いでもいた。
今回、収容されているのが女性ということで、室内には女性騎士が二名、扉の外にも二名配置され、フィロメナに必要な世話も彼女達が担うことになっている。
「やあ、フィロメナ。大丈夫、父上には許可をいただいている。それに、僕一人ではないから」
そう言って背後の青年へ前へ出るように促した。
フィロメナと同じ菫色の瞳に青銀の長い髪を後ろで一括りにした、私達より少し年上の青年。
「……お兄様」
フィロメナは椅子から立ち上がることもなく、だがそれは思ってもいなかった人物を目の当たりにして呆然としてしまったからのように見えた。
僕が連れてきた人物、彼女の兄で次期侯爵のトリスタン・エチュバリアが、眉間に小さい皺を作ってフェロメナを痛ましそうに見ている。
「ヒルベルト殿下からお声掛けをいただいたんだ。フィロメナに面会に行くから一緒にどうか、と……」
「そうでしたの……。
ここではお二人をお持て成しするためのお茶を淹れることも叶いませんわ。申し訳ありません」
そう言ってフィロメナは頭を下げた。
「それは……気にする必要はないよ。
それよりも、座ってもいいだろうか?」
なるべく優しく声をかける。
今から彼女にしてあげられることがあるとは思えないが、僕は彼女を知りたいと思ってここに来た。トリスタンが面会を求めているがなかなか許可が出ないと聞いて誘った。
僕一人より、身内がいた方が彼女から話が聞けるのではという打算もある。
「わたくしの話を聞きにいらしたのでしょう? どうぞ、お掛けになって下さいませ」
許可をもらった私とトリスタンは彼女の対面に座った。
「とは言いましても、わたくしも審問官に訊かれたことは粗方お話ししてしまいましたわ。
お二人は、なにをお尋ねになりたいの?」
僕達とは目も合わせずにほうっと小さいため息を吐くと同時に困ったように薄く微笑むフィロメナ。
あの時から、彼女が見せる表情は初めてのものばかりだ。
「フィリー、なぜあんなことを? パドロン男爵令嬢と何かあったのか? なぜ……なぜ、行動する前に私に相談してくれなかった?」
トリスタンが眉間の皺を深くしながら問いかける。責めているのではなく、本当に言いたいことは最後の質問なのだろう。
「それも審問官にお伝えしましたわ。
わたくし、もうこれで本当に最後にしたかったんですの。
カロリーナ・パドロンと何かあったかと言われれば、現状ではなにもありませんわ。でも、あの方さえいなければと何度思ったことか……。
お兄様どころかお父様にも相談しなかったのは…………信じてもらえない苦しさをもう味わいたくなかったから……」
「私が! お前を! 信じないなんてことがあると思っているのかっ!?」
フィロメナと同じ瞳から涙が落ちる。
エチュバリアの兄妹の仲が悪いなどと聞いたことがない。むしろ良かったはずだ。だから、土壇場で信じてくれないと判断された兄としては歯痒くて悔しい思いなのだろう。
トリスタンの涙を見たフィロメナは、ハッとしてそれこそ信じられないものを見たような顔をして、淑女とは思えない幼い子供のようにくしゃっと歪ませた。
「わたくしのこと、心配してくださるの?
いいえ、分かってるわ。今のお兄様ならわたくしの話を聞いてくださるのでしょう。頭から否定もなさらないでしょう。でも信じてもくれませんわ。
わたくしだって、自分の身に起こっていなければこんなこと……誰に言われても信じませんもの。
もう、疲れてしまいましたの。信じてもらえないことにも、あらぬ罪を着せられることにも、……大切に思っている人達に蔑まれるのにも…………」
ハタハタと涙をこぼすフィロメナはどこからどう見てもただの女の子で、なんとなく罪悪感が生まれる。
「あらぬ罪? 誰かが君に冤罪を被せると?
そんな馬鹿な。君は侯爵令嬢であのエチュバリア侯爵の娘だ。そんなことをすれば打首も免れ得ないだろう。
聡明で気丈な君に誰かが冤罪を被せたところで、それこそ誰も信じないはずだ。それが分からない君だとは思えない。
本当のことを言ってくれたら僕もできる限りの手を打つ。だから、何もかも話してくれないか?」
そう、もしこの凶行が誰の目にも触れない場所で行われていたなら、非道徳的ではあるがもみ消すことだってできたのだ。それなのに彼女はなんの計画も立てずに行動したように見えた。
このままいろんなことが曖昧な状態で裁判になってしまえば最悪の場合、フィロメナは毒杯を呷ることになる可能性もある。
王族としてはかなり不適切な考えではあるが、たかが男爵令嬢一人を殺めた罪を、フィロメナが命で贖うなど損失が大きいとしか思えない。
今からなにができるか分からないが、それを考えるためにも全てを話して欲しいと思った。
「第一王子殿下……。本当のわたくしは、殿下が思ってくださるほど賢くも強くもないのです。本当のわたくしはただの矮小な小娘にすぎませんわ。
だから、何度も、何度も…………。
何もかも、とおっしゃるのなら、お望み通りお話ししましょう。カロリーナ・パドロンをこの手に掛けたいま、もはや信じるとか信じないとか、どうでもいいことなのですから」
フィロメナの言葉に、ツキンとした痛みがまた走る。
今のフェロメナは僕のことを「第一王子殿下」もしくは「殿下」としか呼ばない。
事件の前日までは「ヒルベルト殿下」と名前を呼んでくれていたのに、まるでそこに越えがたい壁があるかのようだ。
いや、実際に彼女は自分とそれ以外の間に心の壁を築いてしまっているのだろう。流石に身内であるトリスタンに対しては多少和らいでもいるようだが、それでもどこか突き放されているような感覚は、きっと錯覚ではない。
「ただ、これだけはご承知していていただきたいのです。
わたくしは、もうなにも望みません。カロリーナ・パドロンを手に掛ける前まで、わたくしはたくさんの小さな希望を抱いては砕かれて絶望してきました。
今はもう、希望の光なんていらないのです。ですから、わたくしに手を差し伸べようとはなさらないでください」
そう静かに告げるフィロメナの瞳は暗く沈んで、まるで底なし沼のようだった。




