入学編①
時は少し戻り、アンネリーゼの試験があった前日。
何のトラブルもなければ街道を通り、半月でたどり着くという村と帝都の道のりを、ネムスは獣人の剣豪、ザルグと共にふた月かけてようやくたどり着いた。
それだけ時間がかかったのは、ここでは割愛するが、いくつかのトラブルに巻き込まれた、だけではない。ザルグの魔獣を引き寄せてしまう特性から2人は街道を外れ、主要都市を避け、道なき道を進んだ。深い森の中で昼夜問わず魔術の襲撃を受けた旅は、ネムスの戦闘経験を大きく引き上げたが、同時に精神を蝕んだ。旅の終わり頃には、これなら1人で街道を来た方がよっぽど良かったな、と父とザルグを恨む気持ちまであった。
であるから、帝都のほど近くでザルグと別れ、石畳の人の往来に合流した時には、思わず安心してへたり込みそうになったほどだった。
日暮れに城門まで辿り着き、若干訝しまれながら、大学校からの招待状とバートンの推薦状を見せ、関所を超えて城門内にはいったときには、夕闇を照らすように煌々と光る街灯や市場の活気に文明を感じるほどであった。現代日本の知識があるネムスがそう感じたというのは、如何にネムスがその直前に野山で過酷な生活を送ったかということの証左であろう。
なんとか空いている安宿を見つけて、すこし奮発して個室を取り(とはいっても、村から帝都まで使ったお金は関所くらいで、資金面ではまだ余裕があった)、部屋で着ていた服を手洗いして干した後、ネムスは寝床に転がりこんだ。それは干したイカのように平べったく、さらにやや匂う敷布団であったが、久しぶりに外敵から襲われる心配のない安心する寝床で朝まで泥のように眠った。
翌日、目覚めたネムスはこの旅でだいぶくたびれてしまった服に身を包み、大学校を目指した。目指す途中で馬車の事故を目撃し、その救護にあたることになり、そこでアンネリーゼに出会ったのである。
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アンネリーゼが去り、怪我人もみな教会へ送られていき、事故で渋滞していた馬車たちも捌けたところで、ネムスは思案する。誰もしっかりとは説明はしてくれなかったが、断片的な情報をつなぎ合わせると、どうやら今日は大学校の受験日のようだ。
「うーん」
頭をぽりぽりと掻く。自分は研究員としてポストをもらっているはずだから、彼らとは違う立場のはずだ。なのだが……。
「今日来いって書いてあるよな?」
招待状を見返す。そこには明らかに、今日の日付が書いてあった。今日が受験日であるというのは、それはつまり、自分も受験する形なのだろうか。その疑念は考えれば考えるほど確信に似た何かとなった。
「まあ、今日が試験日なら、先生も集まっているか」
それなら、自分の身の振り方も教えてくれるだろう。そう思って徒歩で大学校を目指したネムスは、受付で招待状とバートンの紹介状を見せた。すると、ほどなくして職員に案内されたのは大教室であり、すでに着席していた数十人の目がこちらに注がれた。彼らの服装は今日見た貴族たちとは異なり地味である。
「あそこが君の席だ。もう始まっているから急いで取り組みたまえ」
職員に促されるまま座ると、目の前には紙の束がおかれている。どう見ても問題用紙と解答用紙であった。
どうやら、研究員というのは思っていたポストではないらしいな。あれ?ということはもしかして学費が必要なのか?などといろいろ混乱しながらも、ネムスはひとまず問題を解くことに集中した。
かくして、事故現場で出会った二人は、同級生として再開することになったのだが、それはまたのちのお話である。
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入学式当日。
ロザン帝国教育大学校の大講堂は騒がしく活気にあふれていた。集まった新入生たちはその表情の端々に緊張はあるものの、これから始まる学生生活に希望をもっている様子であった。一部の特に着飾った上級貴族たちは、旧知の間柄で固まってすでにグループを形成していた。知り合いの少ない辺境貴族たちは椅子に座って一層緊張した様子ではあったが、同じように孤独に座っている仲間の姿を見かけて声をかけ、徐々に打ち解けていく姿が見られた。保護者達は鼻高々にわが子を見つめ、これまた知り合いと談笑していた。美しい花々が壁に飾られ、この晴れの場に彩を添えていた。
そんな華やかな会場の空気をよそに、舞台袖の空気はなぜか淀んでいた。
「……ア、アンネリーゼ様?」
「……カティ、ごめんね」
「いえ、ええと、あの」
どうすればいいんだ!とパニックになって慌てるカティに申し訳なさを感じながらも、アンネリーゼの落ち込んだ心はなかなか立ち直れなかった。おそらく、カティにはどうして私が落ち込んでいるのかわからないだろう。自分だって、こんなに落ち込むなんて思ってもみなかったのだ。
落ち込んでいるのは、例えば、衣装が気に入らないであるとか、そんな理由ではない。アンネリーゼが身を包んでいる赤と黒のドレスは、アンネリーゼの聡明さを存分に演出していたし、なおかつ華やかであった。髪もばっちりとオリビアに結ってもらっていたし、お化粧だって舞台映えするばっちりメイクで決まっていた。
見た目でないなら、例えば、今からする新入生代表のスピーチの出来が悪いのであろうか。否、スピーチは長くもなく短くもない完璧な長さで、内容もオリビアからも太鼓判を押されていた。完全にそらんじられるよう覚えていたし、緊張していても問題なくやりきる自信もあった。
(だらしがないですわ、わたくし。こんなに落ち込むなんて)
何故アンネリーゼがこれほどショックを受けているのか。半刻前、予行練習を終え舞台袖に帰ってきたアンネリーゼは、まだ前途への期待に満ち満ちていた。帆を大きく張り、大海原を行こうとする彼女の船出を揺るがせたのは、ほんの些細な横風だった。
「いやー、見事なものでした」
「ありがとうございます、副校長先生」
この入学式を取り仕切っている副校長が、椅子に座ったアンネリーゼに声をかける。アンネリーゼは余裕の笑みでそれに答えた。
「今年は挨拶の担当が飛び級と聞いて心配していましたが、杞憂でしたな。さすがはヴィンセント伯のご令嬢であらせられる」
「もったいないお言葉ですわ」
アンネリーゼは謙遜する。父の名が出てきたのはやや不服であったが、仕方ない。
「わたくしは新入生の中では最年少でしょうし、首席とはいえご心配になられるのは当然でしょう」
「……あ、ああ!もちろん!そうですともなあ、ははは」
副校長の返答が少し言いよどんだのに、アンネリーゼは引っかかる。副校長は笑顔だが、ややひきつっているようにも見えた。
(もしかして……)
アンネリーゼはざわざわとした胸騒ぎを感じる。確かに、お屋敷に報告に来た職員は「首席であるから新入生代表挨拶を頼みたい」と言っていたのだが……。
「……副校長先生、もしやわたくし、首席ではないのでしょうか?」
「いやあ、もちろん首席ですよ。それはもう圧倒的に。我が国の貴族の中では」
「副校長!それは……」
副校長のそばについていた若い男がたしなめる。言わなくてもよいことを口走ったのだろう、副校長はしまった、という顔をしていたが、アンネリーゼはしっかり聞いていた。
「つまり、他国の貴族や王族に、わたくしよりも成績が上の方はいらっしゃる、そういうことですわね。あるいは、平民の方かしら」
「いやあ、あはは」
副校長は肯定も否定もしなかった。
「……よいのでしょうか。わたくしが代表で」
「アンネリーゼ嬢、あなたでなければならんのです。この大学校は、ロザン帝国を代表する教育機関です。他国の者や平民が代表となれば国の威信にかかわるのですな」
「……」
副校長の言い分は、あるいは理にかなっていた。政治的な思惑を含めれば、アンネリーゼ以外に適任者はいなかっただろう。しかし、アンネリーゼの心は先ほどまでの晴れ渡った青空のような爽やかさからは一転し、雲に覆われ大荒れが予想されるような重々しさに包まれていた。
「何を落ち込むことがあるんです。あなたは実力で、実力のみでトップだったのですよ。誇って欲しいものですな」
この口ぶりからすれば、帝国貴族の多くはなんらかの理由でー政治的、あるいは金銭的理由でー点数に高下駄を履かせて合格させているのであろう。だが、清廉潔白を信条とするアンネリーゼにしてみれば、そんな有象無象に勝ったところでなんの意味もない。なんなら、己がこの六年間、心身を賭して目指してきた大学校という場所がおそらく腐敗しているという事実に入学前に気がついてしまったのである。
そして追い討ちのように、副校長は付け加えた。
「ああ、それと、最年少ではありませんよ。去年までの最年少記録は更新しましたが、今年は1人、あなたより年下で合格した少年がいますからな」
だから、そんなに重圧に感じることはないのですよ、と副校長は付け足し、スタスタと去っていく。アンネリーゼが最後にかろうじて掴まっていた綱を軽々と切り落とし、彼女を失意の底に落としながら、呑気に「頑張ってくださいな」と言い残して。
こうしてひどく落ち込んだアンネリーゼと、事情を飲み込めずただオロオロするカティが残されたのであった。