プロローグ:お嬢様は、完璧を目指した。
アンネリーゼはお嬢様の中のお嬢様である。
背筋を伸ばして机に向かい、羽根ペンを走らせるその姿にオリビアはそう確信する。オリビアがアンネリーゼ・モルガンの教育係になってからはや5年。12歳になった彼女は、オリビアが貴族の教育係として働き始めて40年近くとなったキャリアの中で一際異彩な存在だった。
生まれ持った才能という面だけでみれば、アンネリーゼは決して一頭地を抜く存在では無かった。なんなら幼少期の彼女は、このロザン帝国の君主、大帝エドの右腕と名高い父親ヴィンセント・モルガンと、才女として名を馳せたヒルデガルド夫人の娘としてみれば小さくまとまったものだと陰口を叩かれていたともいう。
オリビアが初めてアンネリーゼに会った時も、彼女は両手で一冊の本を大事に抱きながら、自信なさげに節目がちで佇んでいた。その弱々しさからは、今の彼女は想像も出来ない。
アンネリーゼが一流のお嬢様であるのは、名家の生まれであるからでも、生まれ持って天才であるからでもない。彼女がお嬢様たろうとする、その気概である。
きっかけが何だったかはオリビアにはわからない。ある時から突然、勉学にも、貴族としての礼儀作法についてにも身が入るようになった。めきめきと頭角を現したわけではなかったのだが、本人の努力の甲斐もあり、今では当代一の才女として名声が高まっている。特に魔術は、12歳にして炎系だけではあるが最上級魔術を発動するに至っていた。もっとも、本人の魔力量が少ないので、撃った後倒れてしまうのが玉に瑕であるが。
もちろん、アンネリーゼにも苦手な面はあった。運動はからきしで体力はない。少しきつめに上がった目尻と、本人のそのストイックな性質もあってか、第一印象として冷たい印象を抱かれがちであった。社交の場はそつなくこなすものの、深く関わるような同年代の友人は皆無と言って良かった。下心で近づいてくる貴族の令嬢やご子息もいたが、己の生まれ持った立場に甘んじているだけのボンボンとは全く話が合わないので、そのうち自然に疎遠になってしまっていた。
しかし、それでいいのだ、と信奉者(強火オタク)のオリビアは思う。孤高こそがアンネリーゼをここまで強くした。アンネリーゼがどこまで成長するのか。すでに高齢となたオリビアにとって、最後になるかもしれない教え子がどこまで高みに上るか、それが唯一と言ってもいい楽しみであった。
「オリビア」
「はい、アンネリーゼ様」
「これで良いかしら」
とん、と羽ペンをペン立てに置き、アンネリーゼは両手を膝に置いて首を傾げる。
「拝見します」
整った字で書き込まれた書面に目を通し、そこに寸分の過ちもないことを確かめ、オリビアは頷く。
「完璧です、アンネリーゼ様。これで入学書類は全て揃いました。後は試験を残すのみですが、アンネリーゼ様なら間違いなく通過されるでしょう。秋からの学校生活、楽しみですね」
「そんな楽観的でいいのかしら、オリビア。なんせわたくしは2年も飛び級で受験するのよ」
少し憂いを帯び、節目がちなアンネリーゼ。最近では人前では見せなくなった、自信なさげな姿。自分にだけ見せてくれると思うと、オリビアは胸が熱くなる。
「全く問題ありませんよ。私が保証します」
第一、宰相の娘が落とされるわけはないのだが、これは黙っておく。そのような不正はアンネリーゼが最も嫌うところだ。そもそも、実力からして受験さえできれば入学は確定である。
「ありがとう、オリビア。少し元気が出たわ」
「それは良かったです。それでは、お時間ですので、私はこれで」
「ちょっと待って、オリビア」
「何でしょう、アンネリーゼ様」
「何があっても、きっとあなたはわたくしの味方よね?」
「もちろんですとも」
にこりとするアンネリーゼにこうべを垂れ、オリビアは部屋から退出する。アンネリーゼの素晴らしさが世に知れ渡る日が近づいていることに、胸を躍らせながら。
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アンネリーゼは全くもって、お嬢様らしくないお嬢様である。
教育係のオリビアと入れ替わりに部屋に入った従者のカティはそう確信する。カティがアンネリーゼの従者となって2年。アンネリーゼと同い年の彼女は、自身の6年間のキャリアを振り返りそう思う。
カティの家は貧しく、幼くともカティが働きに出なければならなかった。小さい女の子が働ける仕事などたかが知れている。6歳だった彼女に、貴族の使用人として働き口が見つかったのは僥倖であったのだろう。
しかし、それはカティにとって辛い日々の始まりだった。
カティが初めて使用人として働き始めたのは中流貴族のお屋敷であった。カティの一つ上の年のご令嬢がいて、そのお付きとして働くことになった。
そこでの生活について多くは語らない。一つ言えるのは、アンネリーゼと出会うまで、お嬢様というものは恐ろしい支配者であると思っていた、ということである。
2年前、アンネリーゼに従者として拾ってもらってからカティの生活は一変した。例えば……。
「お嬢様、お茶を淹れてまいりました」
「ありがとうカティ。あなたも一緒にどう?」
「いえ、そんな、恐れ多いです!」
「遠慮しなくてもいいのに」
こんなふうに、カップが飛んでくるなんてことはなく、それどころかお誘いまでいただけるのだ。カティは上目遣いでアンネリーゼを見つめる。身分が全く違う自分にもこんなに優しくしていただける。さらに……。
「そういえば、課題、やってきたかしら?」
「は、はい!ええと、これです」
カティは懐に忍ばせていた一枚の小さな紙を渡す。それを見て頷くアンネリーゼ。
「『七のつき、ちちはすいどうのこうしにいっています。ははのちょうしはよさそうで、かいものにいっしょにいきました。8ばんがいのおかしやさんがおいしいです』……うん。よく書けているわ。水道の工事、かしら?」
「は、はい、すみません。そうです」
このように、無学であった自分に文字まで教えてくれるのだ。日記の形式で日々あったとことを書く課題で、時間があるときに添削してくれる。
「謝らなくていいのよ、ほとんど合ってるんだから。今はどこまで工事が進んでいるの?大学校のあたりはもう整備されたのでしょう?」
「はい!そう父から聞きました!」
「一度見てみたいわ、工事しているところ」
「そんな!アンネリーゼ様をそんなところにお連れするわけには!」
「そうかしら。水道ってすごいわ。みておきたいものね」
しかも、ただの市井の民である両親まで気にかけてくれるのである。この方にお仕えできて、私は何て幸せ者なのだと思う。
「ねえ、カティ」
「何でしょう」
突然憂いを帯びた表情のアンネリーゼに、カティはドキッとする。
「何があっても、わたくしの味方でいてくれるかしら」
「え!な、何があるんですか」
「もう、例えばの話よ」
くすくす笑うアンネリーゼに安心し、胸を張ってカティは答える。
「当然です!私はお嬢様のために生きています!」
「まあ、大袈裟ね。でも嬉しいわ」
その鋭い目で見つめられ、ドキマギしながら、カティは思いを強くする。私はこの方に拾われ、救われた身だ。どんなことがあっても、この方を守らなければならない。己の命に換えても。
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アンネリーゼは、そのうちお嬢様ではいられなくなるお嬢様である。
寝台に横たわり天井を眺めながら、アンネリーゼはため息をつく。
「残り4年しかないのね……」
お嬢様でいられなくなるというのは、年齢のことではない。4年後ならまだ16歳。ぴちぴち花盛りのスーパー完璧お嬢様であるはずだ。これはアンネリーゼが胸にしまっている秘密に関係している。
「没落、しますわね、間違いなく」
6年前、オリビアが教育係としてこの屋敷に訪れたときには、アンネリーゼはまだ凡百のお嬢様であった。本を読むのが大好きで、勉強なんて大嫌いであった。
しかし、その直後、とんでもないことを知ってしまったのである。
それは、父ヴィンセント・モルガンのクローヌ大聖教への謀反の計画である。
ある雪の夜、眠れなかったアンネリーゼはお気に入りの童話を持って母の部屋に向かった。母に読み聞かせてもらうと思ったのである。
母の寝室の扉の前に立ち、ノックしようとした瞬間、中から父の声が聞こえた。その瞬間、アンネリーゼはノックをためらった。というのも、父ヴィンセントは忙しく、アンネリーゼが寝てから帰ってくることが多かった。正直アンネリーゼにとっては慣れておらず、緊張する相手だったのだ。しかし、後にして思えば。この時迷わずノックをしておけば、あんなことを知らずに済んだのである。
アンネリーゼは扉の前で耳を澄ませた。父と母の会話の合間を縫って、中に入ろうと考えたのだ。
「10年後だ。10年後、聖クローヌ生誕400年の節目で、大司教の交代がある。そこがチャンスだ。今の体制をひっくり返すのに、この時以上に効果的なタイミングはない。これ以上クローヌ教の好き勝手にさせていては、国が滅ぶ……。クローヌ教を打ち倒すんだ」
アンネリーゼは息を呑む。
(クローヌ教を、倒す……!今、お父様は、本当にそう言ったの?)
6歳のアンネリーゼでも、今聞いた内容が如何に危険な話か理解できた。それほど、このロザン帝国でのクローヌ教の立場は絶大であった。表向きはエド大帝が君主であるが、実際一番の権力者はクローヌ教の大司教、クラリスであることは国民の間では周知の事実だったのだ。
なぜそれほどまでの権力をクローヌ教が持っているのか。それには2つの理由がある。一つは、このロザン帝国建国に際して、クローヌ教が多大な功績を持っていること。そしてもう一つは、治癒魔術を独占していることである。
「大帝は、どう考えてらっしゃるの?」
母の静かな声。
「……いや、無理だ。かつてならば、わからなかったが。皇太子殿下は治癒魔術なしでは生きていけない」
「人質を取られているようなものね」
「おかしな話だ。人を治す、それが気づかぬうちに国を病ませていく……」
だんだん話の内容が難しく、アンネリーゼにはわからなくなってきた。しかし話の内容が簡単だったとて、理解できていたかはわからない。アンネリーゼはすでに一杯一杯だったからだ。
気がつけば、アンネリーゼは母の部屋の前から自分の部屋に戻ってきていた。頭が真っ白になって、無意識に部屋に戻ってきたようだった。消えかけの暖炉の前にへたり込み、考える。
「ど、どうしよう」
父が謀反を企てている。それもこの国の最大権力者に。
まず考えたのは、父を止めることだ。しかし、自分が止めたところで、聞き入れてもらえるだろうか。子供のいうことなど、取り合ってはもらえないだろう。
であれば、誰か他の信頼できる大人に話すか。
いや、それも難しいだろう。子供の世迷言と思われる。いや、もし信じてもらえたとして、父は、母は、自分はどうなる。大罪人として、よくて投獄。まあほとんど死刑だろう。自分は処刑を免れるかもしれないが、父と母のいない没落貴族となって、一体どうなるというのだ。
ポタポタと涙が落ちる。
(終わった、わたしの人生……)
ああ、無常。自分の落ち度もないのに、人生強制終了である。自分にはそんな大それた野望などないと言うのに、父の巻き添えを喰らうのだ。
そこで、ふと手に持っている童話のことを思い出した。
お気に入りの物語である。悪い魔女に国を追われた皇女が、持ち前の知恵と勇気で、多くの人の助けを借りて国を取り戻すのだ。皇女がかっこよくて、憧れて、何度も何度も母に読んでもらった。皇女の名前がアンナで、自分と似ているのもお気に入りのポイントだ。
(お父様、何て言っていたっけ?10年後、って、確か言っていたような)
10年間、猶予がある。そう思った時、沸々と自分の中に湧いてくるものがあった。
「決めた」
涙をゴシゴシと拭いて、アンネリーゼは立ち上がり、拳を握って決意する。
私はアンナになろう。一生懸命勉強して、みんなに認められる存在になって。もし没落しても、助けてもらえるような人脈を作って。なんなら、すごい人間になったら、父だって止められるかもしれない。
「絶対、巻き添えになんてなってやらないわ!」
そうして、ベッドに潜り込んだアンネリーゼは、結局朝まで眠れなかったのだけれど。それでも、眠れなくて母の部屋をノックすることはなかったのだった。
それから、6年。ついに半分を切ってしまった。なんとか大学校への入学を飛び級で認めてもらい、少し時短ができたが、焦りは募る。
できる限りの努力をしてきた。周りの人にも、できる限り良い人であろうと心がけてきた。全ては、自分のため。予定された没落までの備えである。
まだ、父や母には自分が知っていることはバレていない、と思う。一番良いのは、父を止めることだ。そのためには、まだ情報が足りない。なぜ父はそんな事をしようとしているのか。それを知らなければ、止めることなど到底出来ないだろう。
やることは盛りだくさんだ。しかしまずは、史上最年少での大学校合格、これをとる。これが1つ目の自分の功績になる。そうやって、自分が優秀であることを証明していくのだ。そうなれば、たとえ父が謀反を起こしたとて、国家に有用な人材として処刑はまずがれるかもしれない。
早めに良家との縁談がまとまったって良い。早くに嫁入りしてしまえば、その家の一員として扱ってもらえるかもしれない。
アンネリーゼはグッと腕を天井に向け、拳を握る。
絶対に、巻き添えになんてなってやらない。
その決意を新たにして、目を閉じる。
すぐに眠気がやってきて、アンネリーゼは深い眠りに誘われる。そうして、朝日が昇るまで、よく眠ったのであった。
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