3.幼い約束
「あれから十五年か・・・」
アレクシスは執務室の窓から、朝もやに包まれた学院の庭園を眺めていた。
季節は初冬。木々の葉は落ち、霜が地面を白く染め始めている。
「何か思い出されましたか?」
ルークが紅茶を差し出しながら尋ねた。
「ああ」
アレクシスは紅茶を受け取り、一口含む。
「初めてジュディと会った日も、こんな季節だった」
***
十五年前。
セントクレア伯爵家の庭園。
幼いアレクシスは父に連れられ、初めてその屋敷を訪れていた。
「アレクシス、今日は大人しくしているんだぞ」
父親の厳しい声に、十歳のアレクシスは無言で頷いた。
「フロストグレイ公爵、お待ちしておりました」
セントクレア伯爵が出迎える。
「こちらがご子息ですね」
アレクシスは礼儀正しく会釈した。
「アレクシス・フロストグレイです。お目にかかれて光栄です」
「ほう、しっかりした挨拶だ」
伯爵は満足げに微笑んだ。
「私の娘も呼んでおきました。ジュディアナ、こちらへ」
小さな影が伯爵の後ろから現れた。
青い瞳と栗色の髪。
五歳のジュディアナは、緊張した様子で前に出てきた。
「ジュ、ジュディアナ・セントクレアです。よ、よろしくお願いします・・・」
震える声で挨拶する彼女を見て、アレクシスは不思議な感情を覚えた。
守りたい。そんな衝動が、幼い胸に芽生えた。
「二人とも、庭で遊んでおいで」
大人たちは屋敷の中へ入っていった。
***
「ねえ、魔法見せて?」
庭のベンチに座り、ジュディアナは期待に満ちた目でアレクシスを見上げた。
「僕はまだ初級魔法しか」
「いいの!見たいな」
アレクシスは少し照れながらも、杖を取り出した。
「じゃあ、簡単なものを」
彼が杖を振ると、空気中の水分が集まり、小さな氷の結晶が形作られた。
それは、小さな蝶の形。
蝶は羽を動かし、ジュディアナの周りを舞い始めた。
「わぁ!きれい!」
彼女の目が輝いた。
「私も、いつかできるようになるかな?」
「もちろんだよ」
アレクシスは自信を持って言った。
「僕の氷と君の水で、庭に小さな池を作ろう」
「本当?」
「ああ。君が水を作って、僕が凍らせる。そうしたら、誰も見たことないような池ができるよ」
ジュディアナは嬉しそうに頷いた。
その笑顔が、アレクシスの心に深く刻まれた。
***
「閣下?」
ルークの声で、アレクシスは現実に引き戻された。
「すまない。考え事をしていた」
「それにしては、随分と優しい表情でしたね」
ルークは意味ありげに微笑んだ。
「それと、紅茶が凍りかけています」
アレクシスは杯を見下ろした。
確かに、紅茶の表面に薄い氷が張り始めていた。
「下げてくれ」
「思い出は美しいものですが」
ルークは新しい紅茶を注ぎながら言った。
「現実も見逃さないようにしないと」
「何が言いたい」
「本日、アーデント伯爵の特別講義があります。テーマは『魔法の共鳴と相互作用』」
アレクシスの表情が曇った。
「そして、セントクレア嬢も参加するとのことです」
「なぜ知っている」
「私の仕事ですから」
ルークは当然のように答えた。
「それと、これは講義の案内状です。お嬢様の机に置かれていたものです」
アレクシスは差し出された紙を受け取った。
そこには確かに、アーデントの筆跡で書かれた招待状。
ジュディアナの名前が、特別に強調されていた。
「奴は何を企んでいる」
「それを確かめるには、講義に出席するのが一番かと」
アレクシスは立ち上がった。
「行くぞ」
「ですが、閣下。あと一時間で貴方の授業が、」
「キャンセルだ」
ルークは小さく溜息をついた。
「閣下、学院長に何と説明すれば」
「体調不良でいい」
「氷の魔法使いが風邪を引いたと?」
ルークは皮肉めいた笑みを浮かべた。
「誰も信じないでしょうね」
***
特別講義室は学生たちで埋め尽くされていた。
アーデント伯爵の講義は評判となり、多くの学生が詰めかけている。
ジュディアナとヴィオラは後方の席に座っていた。
「本当に来るつもりなの?」
ヴィオラは心配そうに尋ねた。
「あの伯爵、何か企んでいるわ」
「でも、もしかしたら私の魔法が使えない理由がわかるかもしれない」
ジュディアナは決意を込めて言った。
「このままじゃ、アレクシス様に顔向けできないもの」
「ジュディ・・・」
講義室の扉が開き、アーデント伯爵が入ってきた。
黒い礼服に身を包み、琥珀色の瞳は部屋を見渡して微笑む。
女子学生たちからため息が漏れた。
「皆さん、ようこそ」
アーデントの声は柔らかく、部屋中に響き渡る。
「今日は『魔法の共鳴と相互作用』についてお話しします」
彼は教壇に立ち、杖を取り出した。
「魔法は単独で存在するものではありません。周囲の魔力と共鳴し、時に影響し合います」
杖を振ると、空中に赤い火の玉が現れた。
「この火の魔法。通常はこの大きさですが、時に予期せぬ影響を受けることがあります」
アーデントは客席を見渡し、ジュディアナを見つけると微笑んだ。
「魔法の相互作用を実演するために、どなたかにお手伝いいただきたいのですが・・・」
数人の学生が手を挙げる中、アーデントはジュディアナの方を見た。
「セントクレア嬢、よろしいでしょうか?」
ジュディアナは驚いたが、ゆっくりと立ち上がった。
「私でよろしいのでしょうか?」
「はい、ぜひ」
彼女が教壇に上がると、アーデントは続けた。
「魔法の相互作用は、時に予測不能です。特に、異なる魔法の素質を持つ者同士では」
ジュディアナは戸惑いを隠せなかった。
「私には魔法の才能はありません」
「それは、まだ分からないことです」
アーデントは優しく言った。
「魔法の世界には、様々な形の才能があります」
教室中が静かになり、皆が二人に注目した。
「実演してみましょう」
アーデントは再び火の玉を作り出した。
「セントクレア嬢、この火の玉に近づいてみてください。触れる必要はありません」
ジュディアナは恐る恐る手を伸ばした。
火の玉に指先が近づくと、不思議なことが起きた。
火の玉が少し大きくなり、色が鮮やかになる。
その変化は微妙だったが、前列の学生たちは気づいたようだ。
「おや?」
アーデントは興味深そうに見つめた。
「面白い反応です」
「何が起きたんですか?」
ジュディアナは自分の手を見つめた。
「魔法の相互作用です」
アーデントは説明したが、それ以上は語らなかった。
「皆さん、これが私の今日の講義の核心です。魔法は決して孤立したものではなく、常に周囲と影響し合っているのです」
講義は通常通り続き、ジュディアナは席に戻った。
だが、彼女の心には疑問が残った。
あの瞬間、何が起きたのか。
***
講義室の後方、目立たない場所にアレクシスとルークが立っていた。
アレクシスの表情は暗く、周囲の温度が少し下がっている。
「閣下、冷静に」
ルークは小声で言った。
「床が凍り始めています」
アレクシスは深く息を吸った。
「奴は何かを確かめようとしている」
「確かに、お嬢様に対する特別な関心は明らかですが、」
ルークは観察した。
「公の場ではさすがに慎重に振る舞っているようですね」
講義が終わり、学生たちが退室し始めた。
アーデントはジュディアナに近づき、何か話しかけている。
「行くぞ」
アレクシスは前に進み出た。
***
「セントクレア嬢、少しお時間よろしいでしょうか」
アーデントはジュディアナに声をかけた。
「はい」
彼女は緊張した様子で答えた。
「あの、さっきの火の玉は・・・」
「それについて、もう少し詳しくお話ししたいのです」
アーデントは声を低くした。
「あなたには特別な素質があるかもしれません」
「特別な素質?」
「ええ。魔法との独特な関わり方が」
「セントクレア嬢!」
突然、アレクシスの声が二人の会話に割り込んだ。
「授業の準備を手伝ってもらいたい」
ジュディアナは驚いて振り向いた。
「アレクシス様!?」
「フロストグレイ教授」
アーデントは微笑んだ。
「セントクレア嬢のおかげで素晴らしい講義になりました。ご覧になっていたのでしょう?」
「ええ」
アレクシスの声は冷たかった。
「興味深い内容でした」
二人の間に緊張が走る。
ジュディアナはその様子に戸惑いを隠せない。
「セントクレア嬢」
アーデントは彼女に向き直った。
「また改めてお話しさせてください。あなたの素質について、もっと詳しく」
「は、はい」
「では、また」
アーデントは優雅に頭を下げ、その場を去った。
残されたジュディアナとアレクシスの間に、一瞬の沈黙が流れる。
「アレクシス様、何をお手伝いしたらよろしいのでしょう?」
「いや」
アレクシスは正直に答えた。
「話がある。中庭へ行こう」
***
中庭の噴水のそばで、ジュディアナはアレクシスの言葉を待っていた。
「アーデント伯爵の講義、どうだった?」
「不思議な体験でした」
彼女は自分の手を見つめた。
「火の玉が、私が近づいただけで変化して・・・」
「彼は何か言っていたか?」
「特別な素質があるかもしれないと」
ジュディアナは不安げに言った。
「でも、私には魔法が使えないのに・・・」
アレクシスは噴水の縁に腰を下ろした。
「ジュディ、君に話しておきたいことがある」
彼の真剣な口調に、ジュディアナは緊張した。
「はい」
「アーデント伯爵を簡単に信用するな」
「どうしてですか?」
「彼には目的がある」
アレクシスは慎重に言葉を選んだ。
「君に興味を持っている理由も」
「私に?でも、なぜ?」
アレクシスは言いかけて止まった。
まだ確証がない。ジュディアナを不必要に不安にさせたくない。
「・・・昔、約束したことを覚えているか」
突然の質問に、ジュディアナは首を傾げた。
「約束?」
「十五年前、初めて会った日」
アレクシスの声は柔らかくなった。
「庭園で、氷の蝶を見せた」
ジュディアナの目が大きく開いた。
「覚えています!『僕の氷と君の水で、庭に小さな池を作ろう』って」
「ああ」
アレクシスはポケットから小箱を取り出した。
「その約束は、今も変わらない」
箱を開けると、中から氷の蝶のブローチが姿を現した。
永遠に溶けない、魔法の氷で作られている。
「これは・・・」
「君を守りたい」
アレクシスは真剣な眼差しで言った。
「だから、何か不安なことがあれば、まず私に相談してほしい」
ジュディアナはブローチを手に取り、光にかざした。
透明な氷が陽光を受けて、虹色に輝く。
「アレクシス様、ありがとうございます」
彼女は微笑んだ。
「でも、私の魔法が使えない理由を知りたいんです。このままでは、ずっと」
「分かっている」
アレクシスは立ち上がった。
「だから、これからは私が直接指導する」
「え?」
「君の魔法の問題を解決するのは、私の役目だ」
その言葉に、ジュディアナの頬が赤くなった。
「ありがとうございます・・・!」
二人の間に、一瞬の静寂が流れる。
アレクシスは何か言いかけたが、
「おや、素敵な光景ですね」
振り向くと、アーデント伯爵が立っていた。
優雅に帽子を取り、二人に会釈する。
「失礼。邪魔をするつもりはなかったのですが」
アレクシスの表情が一変する。
「何の用だ」
「セントクレア嬢に、もう少しお話ししたいことがありまして」
アーデントは穏やかに微笑んだ。
「先ほどの現象について、もう少し詳しく」
「それは私が行う」
アレクシスの声は冷たかった。
「あなたに、その資格があるのでしょうか?」
アーデントの口調は柔らかいままだが、目は鋭く光った。
「セントクレア嬢の魔法の問題について、本当に理解していますか?」
ジュディアナは二人の間を見つめた。
「私の魔法の問題?」
「ええ」
アーデントは彼女に向き直った。
「あなたの中には、通常とは異なる魔法の素質があります。それは、あなたのお母様の家系に関係しているかもしれません」
「母のこと?」
ジュディアナの声が震えた。
母についての記憶はほとんどない。幼い頃に亡くなったからだ。
「そうです。あなたのお母様は、私の国の出身でした」
アーデントは静かに言った。
「そして、その家系には特別な魔法の特性が」
「それ以上話すな」
アレクシスが一歩前に出た。
「確証もないことを・・・!」
「確証はあります」
アーデントは冷静に返した。
「今日の講義での反応が証明しています」
ジュディアナは混乱した様子で二人を見つめた。
「私は、どうすれば」
「まずは、あなたの素質を正しく理解することです」
アーデントが言った。
「ジュディ、彼の言葉を簡単に」
アレクシスが制止しようとした瞬間。
三人の間に奇妙な現象が起きた。
ジュディアナの周囲で、空気が揺らめき始めたのだ。
「何が・・・」
アレクシスとアーデントの魔力が、彼女の近くで不思議な反応を示し始めた。
氷と火の魔法が交錯し、小さな渦を作る。
「これは」
アーデントは興味深そうに見つめた。
「ジュディ、落ち着くんだ」
アレクシスは彼女に近づこうとした。
しかし、二人の魔力が近づくほど、現象は強まる。
噴水の水が不規則に動き、一部は凍り、一部は蒸発した。
「何が起きているの?」
ジュディアナの声には恐怖が混じっていた。
「あなたの素質が反応しているのです」
アーデントは冷静に言った。
「恐れないで。深呼吸して」
アレクシスも杖を構え、魔法の流れを整えようとする。
「集中するんだ。心を落ち着かせて」
二人の指示に従い、ジュディアナは深く息を吸った。
少しずつ、現象は収まっていく。
「これが・・・私のせい?」
現象が完全に消えた後、彼女は震える声で尋ねた。
「あなたの中には、特別な素質があります」
アーデントは慎重に言った。
「それは魔法を生み出すのではなく、影響を与える力かもしれません」
「影響を与える?」
「詳しいことは、もっと調査が必要です」
アーデントは続けた。
「私の国には、似たような事例の記録があります。もし許していただければ、調べてみたいのですが」
「それは私も同じだ」
アレクシスは冷静に言った。
「王立図書館にも、関連する資料があるはずだ」
ジュディアナは二人を見比べ、混乱した表情を浮かべた。
「私は・・・何をすれば」
「まずは、この力を理解することです」
アーデントが言った。
「そして、制御する方法を学ぶ必要がある」
アレクシスが続けた。
二人の魔法使いは互いを警戒するように見つめ合ったが、ジュディアナを守るという一点では一致しているようだった。
「明日から、特別な訓練を始めましょう」
アーデントが提案した。
「私も立ち会う」
アレクシスは即座に言った。
ジュディアナは二人を見比べ、小さく頷いた。
胸元には、氷の蝶のブローチが光っていた。
***
執務室に戻ったアレクシスを、ルークが待っていた。
「お嬢様は?」
「寮に戻った」
アレクシスは疲れた様子で椅子に座った。
「彼女の中に眠る力が、一時的に反応した」
「どのような?」
「まだ確信は持てないが」
アレクシスは窓の外を見つめた。
「魔法に影響を与える力だ。アーデントの火の魔法も、私の氷の魔法も、彼女の近くで変化した」
「それは・・・」
ルークは言葉を選びながら言った。
「魔法史に埋もれた希少な能力をお持ちの可能性が、お嬢様にあると?」
「ああ。だが、まだ断言はできない」
アレクシスは立ち上がった。
「もっと調査が必要だ。王宮の古文書館を調べる許可を取れ」
「はい。それと、閣下」
ルークは小さく微笑んだ。
「ブローチは、お気に召しましたか?」
アレクシスは一瞬、言葉に詰まった。
「・・・彼女は喜んでくれた」
「それは良かった」
ルークは満足げに頷いた。
「言葉よりも行動の方が、時に雄弁ですからね」
「うるさい」
「それにしても」
ルークは窓の外を指差した。
「中庭の噴水が半分凍っていますね。学院長に何と説明しましょうか?」
アレクシスは窓から身を乗り出した。
確かに、噴水は奇妙な姿になっていた。
半分は凍り、半分は通常の水が流れている。
「教育的実験だと言っておけ」
「はい、はい」
ルークは溜息をついた。
「閣下の感情表現は、いつも学院の景観を変えてしまいますね」
アレクシスは返事をせず、ただ遠くを見つめていた。
ジュディアナの寮の窓が見える。
彼女は無事だろうか。これからどうなるのか。
「ルーク」
「はい?」
「アーデントの言っていた、ジュディの母方の家系について調べろ」
アレクシスの声は静かだが、決意に満ちていた。
「彼女の母親が隣国の出身だったことは知っているが、詳細は不明だ」
「承知しました」
ルークは頷いた。
「それと、お嬢様の特別訓練についてですが」
「明日から始める。私の直接指導で」
「閣下が直々に?」
ルークは驚いた様子だった。
「それは学院でも前例がないことでは?」
「前例など関係ない」
アレクシスは窓際から離れ、机に向かった。
「彼女を守るためなら、何でもする」
「まあ、そうおっしゃるだろうとは思っていました」
ルークは小さく微笑んだ。
「それにしても、閣下の執務室から見えるお嬢様の寮室の窓。偶然にしては出来すぎていますね」
アレクシスは一瞬動きを止めた。
「・・・気のせいだ」
「もちろんです」
ルークは意味ありげに頷いた。
「全くの偶然ですね」
アレクシスはペンを取り、書類に目を通し始めた。
だが、その視線は何度も窓の外へと向けられる。
(守ってみせる。どんな犠牲を払っても)
その決意と共に、アレクシスは再び古い記憶に思いを馳せた。
初めて会った日の約束。
氷の蝶が舞う庭園。
そして、幼いジュディアナの笑顔。
「僕の氷と君の水で、庭に小さな池を作ろう」
その素朴な約束を、今こそ守る時だった。